風呂から上がり、濡れた髪をごしごしとタオル乾かしていると、自分と入れ替わるように雪名がバスルームの中へと消えた。リビングのテーブルの上には彼が持ってきたであろう雑誌が散らばっている。何処かで見たことのある絵が表紙のその本は、趣味というよりは勉強という意味で購入したのだろう。何とはなしに中身をパラパラと捲って、でも結局は何の面白みもなくあっさりと頁を閉じてしまった。


コンセントにドライヤーの電源を差し込み、スイッチを入れると当時に吹出口から熱風が流れ出てくる。軽くタオルドライを繰り返した髪を指先で丁寧に梳いていけば、髪先から払いきれなかった雫がぱたぱたと落ちた。ショートカットの髪量故に、乾燥はものの十分で終了。いつもならこの後はテレビをつけてうだうだと時間を潰しているのだが、今日は雪名が部屋に来ているので止めておこう。まだまだ疲れている部分もあるし、と自分自身に言い訳して、沈黙のままに寝室に向かった。いつの間にかベッドの下には客人用の布団が準備されてある。多分、雪名の仕業だろう。今までのこととこれからのことをじっくりと考えてしまえば、客人用というよりも雪名専用と呼んだ方が正しいのではないかと思えた。


ベッドの上にぼすりと寝転がりながら目を閉じる。どうやらそのまま軽く意識を飛ばしていたらしく、気づけば就寝の準備を整えた雪名がこの部屋に入ってくる気配を感じた。わざとらしく寝返りを打って、彼がやってくる方向に背を向ける。ごそごそと多少の衣擦れの音の後、おやすみなさい、という小さな声で聞こえたかと思えばすぐにすやすやとした寝息が響いた。おいおい、眠るのが早すぎるだろうと思う。お前はのび太くんかと突っ込むのはいつものことで、止めていた息を吐き出すように布団の中から顔を出して大きく深呼吸した。


数分後、がばりと布団を蹴飛ばして起き上がる。掛け布団を自分に巻きつけてから、雪名の背中を呆然と眺め。力尽きたように、ぼすりとベッドの上に再び倒れた。閉じた瞼の奥で静かに考える。


雪名は、いつもこれだ。



おそらく雪名はそういった特別な意味で、俺のことが好きなのだと思う。


何故かと問われてその根拠を立証するのは難しいが、人の好意というものはそれほど鈍感でなければ気づけるものなのだ。最初の頃は幼馴染の延長だと思えた雪名のふざけた行為も、ある日突然俺のことが好きな故のものだと知ってしまった。考えれば、思い当たる節は沢山あったのだ。いくら幼馴染と言っても、数日に一回は俺の元へとやってきては料理を作って、休日となればそれをだしにして二人で出かけて、イベントのある日には彼は相手に必ず俺を誘う。独り身が寂しいという奴の言葉を鵜呑みにしていた馬鹿は俺だが、流石にそれはおかしいと思い当たったのはつい数年前のことだ。雪名は素晴らしく美形だし、本気になれば女の子の一人や二人いくらでも捕まえることが出来るだろう。それなのに、雪名は俺の隣にいることを選んでいる。何故か?と考えた上で辿り付いた結果がそれだった時は、あまりの羞恥に悶え死んだ。


そして、雪名の好意を知ると同時に、否応無しに自分の気持ちも自覚してしまったのだ。


だから、こういった雪名の無神経な行動に腹が立つのだ。お前、俺のことが好きなんだろう?だったら、寝込みを襲うなりなんなりしろよ、と今にも吐き捨ててしまいたくなる。まあ、つまり、そうやって彼を責め立てる怒りがある分、俺にも雪名に抱かれても良しとする覚悟があるのだ。だからこの部屋で二人きりの時間になると妙に緊張して、焦りきった自分を見られたくないから出来る限りいつも通りに接して。なのに雪名は、そんな俺の努力は知りもせずにへらへらと笑うだなのだ。それが腹の底から気に食わない。


別に良いのに。一時の感情の勢いのまま手を出してくれて構わないのに。身につけているものを引き裂いて乱暴にしてくれたってきっと耐えられる。お前を優しく抱きしめてやれる。だって俺も、雪名のことが好きなのだから。


とそこまで思いつめて、はた、と我に返った。途端体中の血液が一気に逆流して、駆け抜ける鼓動が耳の奥に響く。音を立ててしまえば雪名に気づかれる可能性もあるので、殴ることはやめて傍にあった枕をぎゅう、と抱き締めた。おい、俺は一体いくつだ?二十九歳だぞ、二十九歳!もうすぐ三十になるんだぞ?立派なおっさんだというのに、何俺は少女漫画に出てくるような乙女チックなことを考えているんだよ!と顔面をばふりと枕の最奥へと押し込む。呼吸が出来ないのが苦しいが、出来ればこのまま窒息死してしまいたい。


そうか。もう俺は三十になるのか。ということはあの出来事からもう間もなく、十年を迎えるのだなとふと思った。


仰向けになって暗闇の中に両手を伸ばす。開いた指先が間違いなく十あることを数え、深く深くため息をついた。


ちょっとした過去の話を語ろう。およそ十年前の俺と雪名のこと。


実は、その昔俺は雪名に愛の告白をされ、彼を思いっきり振った経験がある。


二十歳を迎えたばかりで大学生だった当時の俺は、成人を迎える節目に一人暮らしをする計画を立てていた。特に深い目的があった訳じゃあない。ただ、ずっと親元で暮らしていたから、一人暮らしというものに対して憧れが芽生えていたのが直接の理由だった。卒業まで、残すところ僅か二年。放任主義の両親が許可してくれたアルバイトで、貯蓄も充分にある。期間的にも資金的にも“問題なし”と判断し、計画を実行し始めた矢先のことだった。


お隣の当時小学五年生だった雪名が俺の引越しの事実を知って、そんなのは嫌だと騒ぎ始めたのだ。


雪名という存在は例えその意味が違えど、今も昔も大切であることには変わりない。一人っ子だった俺は兄弟の存在というものに羨望し、だから雪名がまるで兄のように自分を慕ってくれることが嬉しかった。雪名のことは大好きだったし、離れたくないとストレートに気持ちを告げる彼が本当に本当に可愛くて仕方なかった。でも子供の戯言で計画と頓挫させるわけにもいかない。一度自分で決めたことを、じゃあ止めますと覆すことは大人としてどうなのか。その辺りの事情を、俺は包み隠さず雪名に話した。いくら離れたからとはいえ、それで俺とお前の縁が切れる訳じゃない。いつだってお前は俺のところに遊びに来てくれても良い。俺も、雪名と一緒にいると楽しい、と心からの想いを伝えた。


最終的に雪名は俺の言葉に納得してくれた。でも、その時だった。瞳に涙をいっぱいに貯めた雪名が俺の服を軽く引っ張り、「俺、木佐さんのことが好きなんです」と彼が告げたのは。


自分の中に少しの驚きは有ったのだと思う。でも、ああだから雪名はこんなにも自分と別れるのが嫌なのかと、やっと理解出来たという気持ちの方が大きかった。でもまあ、子供の頃の感情なんて、そのほとんどが一時の気の迷いだ。大切なおもちゃを誰かに取られそうになって泣くのと代わりはない。多分、俺への想いもそれと同じ。散々悩んだ挙句今にも泣き出しそうな雪名に、もううろ覚えの域だが、確か俺はこう言ったのだ。


「ごめん。俺にはお前じゃ駄目だ」


大後悔だ。もし、当時の俺が少しでも雪名のことをそういう対象として見ていたなら、いくら子供に対する答えだとは言え、もっとましな返事があっただろうに。俺の言葉は、どう考えても雪名という個人を全否定している。その後の記憶は更に曖昧で、でも雪名との関係が途切れることなく続いたという結果が全てなのだろう。


俺は雪名の気持ちを受け取ることなく押し返した。彼は、耐えるしかなかったはずだ。


一度振った男に恋をして、今更どの面下げて俺から好きだと言えるのか。


待つことしか自分には出来ないのだと思う。いくら恋人に近しい関係になったとしても、お互いの意思確認もなしにどうして両想いだと言えよう。でも、多分俺から伝えてはいけないことだと思う。ああ、でも、少し前にさり気にこんなことを尋ねてもみたっけ。


「あのさあ、雪名」
「はい?」
「俺、男が好きなんだけど」
「ああ、そうですか。でも、それが何か?」


こんなふうに、うまい具合にはぐらかされてしまった。それ以上は俺から何も言えることがあるはずもなく、変化のないままに終わってしまった言葉。


くるりと体を反転させて、もう一度雪名に背を向けた状態に戻る。俺は雪名がいつしかその境界を越えてくれるのを信じて、ひたすらに待つだけ。自分から乗り越える勇気もなければ、誤魔化すばかりで「雪名のことが好きだ」と告げることすら出来ない俺は。


卑怯者、なのだと思う。


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