大学内を歩いていると、聞き覚えのある声で自分の名前を呼ばれたことに気づいた。音の出処の方へと振り向くと、そこには小野寺の姿が。あの事件以来数日ぶりの再会であり、少しお時間いただけませんか?という彼の台詞に、俺は一も二もなく頷いた。


正直、彼に会ったなら直ぐ様謝罪しようと心に決めていた。どんな言葉で謝ろうか。散々悩んだくせに、いざ本人を目の前にすると何も言えなかった。


先を行く小野寺の後をついて行けば、講堂の中庭に案内される。滅多に学生が訪れない場所だった。今にも壊れてしまいそうな古いベンチに彼は腰をかける。一応コーヒー買ってきたのでどうぞ、と言って小野寺は俺に温かな缶を手渡した。


プルタブを引いて、しばらくは無言のままに空を見上げて、飲み物を喉の奥に押し込む。


「高野さん。色々とありがとうございました」


微妙な空気をかき消したのは、やはり小野寺の方だった。


「別に、お礼をされるようなことはしてないと思うけど」
「じゃあ、色々とすみませんでした」
「なんで感謝が謝罪になるんだよ」
「どちらも、俺がしなければならないことですよ。自分が何をやったか位は分かっていますので、きちんとけじめはつけないと」


むしろ、そうしたいのは俺の方なのに。けれど胸に息が詰まって、言葉が上手く出てきやしない。


「少し、昔の話をして良いですか?」
「……ああ」
「ありがとうございます。昔々のお話ですよ。もう知っていることだと思いますが、過去に、律のお父さんが亡くなった時に、当然彼はショックを受けて、そりゃあもう酷い状態でした。部屋に引きこもったきりで、出てこようともしない。食事を取ろうともしなければ、簡単な会話さえしなかった。でも、扉の向こうから泣き声だけは聞こえてくるんです。あれには参りました。生まれた頃からずっと一緒にいたのに、律がそんな状態になったのは初めてでしたから」
「…うん、それで?」
「俺は何とか律に元気を出してもらおうとしましたよ。でも、何をしたら良いのか全然分かりませんでした。本当の弟のように可愛がってきた律を、俺は救うことが出来ないんだって。あまりの自分の無力さに、あの時初めて、俺は悔しさのあまりに泣きました」


結局最後には何だか自分でも糸がぷつりと切れてしまって、ドアをぶっ壊して律を引きずり出しましたけどね、と小野寺は少し照れながらそう言って微笑む。


「でもね。ある日、律を自分がとても気に入っている場所に連れていった時、あの子、わんわん泣いたんです。自分でも不思議でしたよ。今までだって律は自分にとって大切な子だったはずなのに、泣きじゃくる律を抱きしめていたらもっと愛しくなりました。この子を何があっても守ろう。その瞬間、心に決めました。」
「………」
「律に好きな人がいるって聞いたとき、最初は驚きましたよ。でも、彼の恋を邪魔するつもりは俺にはありませんでした。ただ、律のお母さんにそのことを知られてしまって。…律を守る為に、あの子達に、高野さんにも随分ご迷惑をかけました。本当にごめんなさい」
「……俺の方こそ、ごめん」
「…?何がですか?」
「思い込みだけでお前を敵だって決め付けて、酷いことしたし、お前を傷つけるようなことも言った」
「首のことでしたら全然平気ですよ。高野さん、怒っていてもちゃんと手加減してくれていたじゃないですか。それに、敵だって思ってくれて良かったんですよ。そうじゃないと、俺の計画が台無しになります」
「それでも、ごめん」
「高野さんが現れてくれて、俺は本当に嬉しかったです。あの子達は変なところで賢くて、それでいて頑固だから。困難が訪れたとき誰にも助けを求めないのかなって不安だったんです。でも、高野さんにちゃんと頼れたって知って、これでもうあの二人は大丈夫だと思えました。そのことを叔母さんにもきちんと伝えて。いくら自分が反対しても、あの子達は挫けず、大切な人の手を借りて、それでも前に進めると。俺の努力がこうやって報われたなら、もうそれだけで十分です。あの時、役立たずなんて言ってしまってすみませんでした。俺、切羽詰ると気の利いたことが言えなくて、結局自分が思っていることの反対の言葉しか口に出来なくて。もう少し上手くやれば良かったんですけどね」


へらりと小野寺が笑った。何か言おうとして、何も言葉に出来なくて。喉元までせりあがった想いが、彼に届くことなく落ちていく。小野寺が抱えていたものは、自分の想像以上だった。その事実を改めて突きつけられ、胸がつきりと痛む。


「高野さんに、“誰も、お前に守られたいなんて思っていない”って言われた時、ああそうだよなって俺は思ったんです。なんというか、自分のしていることが果たして正しいのかどうかって凄く悩んでいたので、高野さんの言葉ではっとしました。俺が律を守りたいのは単なる自己満足で、もしかして彼に認められたいと思っているからこんなことをしているのかなって。でも、もうこれからはそんなこともなくなります」
「…小野寺?」
「律が危機に陥った時、一番最初に助けを求めた相手は嵯峨くんでした。昔のように俺が律の一番の支えにもうなれません。ただ、嵯峨くんの支えにそっと手を添えるだけです。俺に出来るのは、もうそれだけ。…………だから、あの子の為に泣くのも、これが最後です」


小野寺が感極まったようにぼたぼたと涙を零し始めた。その姿を間近で見て、どうしてそんなことをしたのかもよく分からないままに、俺は小野寺の髪をくしゃくしゃと撫でていた。小野寺は泣くことで精一杯なせいか、俺の手を振り払おうともせずに、ただただ涙を流している。頬に伝う雫が、とても美しかった。


「あのさ」
「…っ…はい…」
「お前の行為が間違っていたかどうかは、俺には判断出来ない。でも、織田だけは最初からお前のことを疑いもなく信じていたよ。当然だよな。たとえ今酷いことをされていたとしても、それが自分を救う為だって心の何処かで織田は知っていた。昔、お前が織田を救ってくれたこと、あいつ凄く感謝してた。だからお前のこと、本当のお兄さんだと思っているって」
「………はい」
「お前の頑張りで俺達は確かに救われた。だから、皆を守ってくれてありがとう」


心に思っていたことをやっと言えたと安堵していると、小野寺はまたしゃくりを上げながら泣き始めた。高野さんって、こういうところ意外と卑怯ですよね、などと文句を言うのが五月蝿いので、衝動的に小野寺の体を抱きしめてしまった。


「………高野さん」
「ごめん。もう少しこのままでいさせて」
「なんで、高野さんまで一緒に泣いてるんですか」
「もらい泣き」
「男泣きじゃないですか」
「なあ、小野寺。俺の昔の話も聞いてくれる?」
「俺の話は聞いてもらいましたし、断ることは出来ませんよね」


彼の台詞を合図に、今まで誰にも話せなかった昔のことを、ぽつりぽつりと俺は語り始める。あの雨の日の出来事。自分のせいで弟のことを傷つけたこと。そして見た弟の涙で、彼を全てのものから守ると決意したこと。今回のことでそれが守れなくて、情けなくなって悔しかったこと。だから、それを小野寺が救ってくれて嬉しいと、今度こそ心からの感謝の言葉を。


「ああ、それでなんですね」
「それでって、何が?」
「嵯峨くんが、どうして高野さんに助けを求めたか。その答えが、高野さんにはまだ分かりませんか?」
「………ああ」
「そのことで、人を信じられなくなったのは誰ですか?誰も愛せなくなったのは弟ですか?違いますよね。嵯峨くんは、高野さんを助ける為にその手を求めたんですよ」
「……まさか、」
「結果的に、高野さんは俺のことを信じてくれましたよね?嵯峨くんの真の狙いはきっとそれです。彼は、自分が救われることで高野さんを救おうとしたんですね」


ああ、そうか。そうだったのか。小野寺の言葉がすとんと自分の胸の中に落ちていき、また涙が溢れた。仕方ない人ですね、と言いながら今度は小野寺が俺の慰めるようにしっとりと抱き締めてくる。


「良かったですね。弟くんに愛されて」
「お前も人のこと言えないだろーが」
「まあ、そうですけど。羨ましいですか?」
「誰が。しかも今は“俺達”の弟だろ?」
「それもそうですね。何だかお得感があります」
「うちの弟以上に良い男なんていねーよ」
「それはこっちの台詞です」
「最高の二人が弟になった俺達は、もしかすると幸せかもな」
「それもそうですね」


言い終えると小野寺は少しだけ俺の傍から離れる。顔だけはお互い見える距離のままに、小野寺が語った。きっと人は傷ついた時にしか自分の大切なものに気づくことが出来ない。それを守るのはきっと素晴らしいことですが、大切なものを大事にするあまりに、自分の心を蔑ろにしては駄目です。だからこれからは、自分の心を一番に考えてやりましょう?自分の心を、自分で守ってやれなくてどうするんですか、と。


ついさっき自分がそうしたように、小野寺が俺の頭をゆっくりと撫でた。


「でも、よく頑張りましたね。お兄さん」


小野寺の方が卑怯だと思った。







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