辿り着いた織田の家は、大きさからするに屋敷と言った方が正しいような建物だった。家の中に入ると、使用人らしき人物が静かに現れて自分達を出迎える。それにプレッシャーを感じる一方で、先頭を切る小野寺はそんなことはおかまいなしに長い廊下をずんずんと進んでいった。彼を追いかける形の俺達の頭は、正直大混乱中だったと思う。悩みの根源を絶つというやり方はこの際良いとしても、この突拍子のない行動についていくのに精一杯だ。それでも、それでも俺は小野寺を助けると決めた。俺が何をすれば良いのかは未だ分からないが、彼は俺を必要だと言ってくれた。今はそれをひたすらに信じるしかない。


大きな部屋の一室の扉の前に四人が揃う。織田の表情が一瞬にして曇ったのを見るに、ここに彼の母がいるのだろう。

使用人に、後は俺がやりますから、席を外してもらえませんか?と小野寺が告げる。かしこまりました、と言い残して使用人の姿が消えたと同時に、彼が作った拳で重圧感のある扉をコンコン、と軽く叩く。どうぞ、という女性の声が直後に部屋の中から響いた。


「叔母さん、只今戻りました」
「いつも悪いわね、小野寺くん」
「いいえ。叔母さんの頼みであれば何だって聞きますし、だから遠慮せずに言ってください。三人は、そこの椅子に座って」


小野寺に言われたままに、白いテーブルの脇に添えられるようあった席にそれぞれが赴く。軽く会釈をして失礼しますと告げながら、腰を下ろした。初めて見た織田の母は、優しそうな人だというのが第一印象だった。この世代の母親にしては随分若く見え、軽く笑みを見せることですら気品が漂っている。織田の親族が資産家だと聞いていたにも関わらず、実際目の前にすると妙に威圧感を覚えて、無意識に体が萎縮してしまう。


緊張で固まった体をほぐすようないい香りが空中を漂ってきた。小野寺が紅茶を淹れる準備をしているらしい。こぽこぽとした湯をカップに注ぐ音が何度か聞こえた。テーブルの上に波々と注がれた四つのカップが揃ったところで、小野寺が織田の母に語りかける。


「叔母さん、これが俺の答えです」
「そうね。多方予想していたわ」
「…そうですか。では、これ以上はお邪魔になるかと思いますので、俺は失礼します」
「色々迷惑かけてごめんなさいね。それとありがとう、小野寺くん」
「いいえ、俺が好きでやったことですから。気にしないでください」
「…でも」
「叔母さん。俺は律が幸せであることを祈っているように、叔母さんにも幸せになってもらいたいです。俺の力は僅かですが、けれど叔母さんを支えることくらいは出来ます。どうか、良い検討を」
「ええ。分かってるわ」


自分の役目はもう終わったというように、小野寺が深く息を吐く。言葉通りに本気で退席するらしく、最後に目が合った瞬間に「後はお願いしますね」という彼の確かな意思を感じた。小野寺が助けを求めた理由はここにあったのだと悟る。会話から察するに、小野寺が部屋を出て行くのは既に確定事項であった。だから、自分がその場所にいることは出来ないから、彼は俺に全てを託したのだ。


「小野寺くんがわざわざ私達の為に淹れてくれた紅茶よ。少しだけでもいいから、出来れば飲んであげてね」


と織田の母に言われてしまったものだから、三人揃ってカップを持ち上げた。一口飲み込むと喉の奥に熱い線を作り、腹の底へと沈んでいく。たったそれだけのことだ。だというのに、自分でも驚くほどリラックスしていることに気づいた。おそらく小野寺はこうなることを見越して、自分から進んで使用人の代わりを申し出たのだろう。


「小野寺くんには、随分悪いことをしたわ」


これが会話の始まりであると言うように、憂いを帯びた表情のまま彼女は息をついた。開口一番の彼女の台詞が「別れなさい」ではなくて良かったと心底安堵する一方で、まだまだ油断は出来ないと自身を戒める。そんな中織田だけは、不思議そうに自分の母親の顔を見上げて、彼女の言葉の真意を尋ねていた。


「お母さん。律っちゃんに、何かしたの?」
「…ええ、ちょっと頼みごとをね。うーん。まずはどこから話しましょうね」


綺麗な指先で、彼女がカップを持ち上げて自分達と同じように口をつけた。紅茶の効果かどうかは分からないが、彼女の表情は何処までも穏やかだった。


「お母さん。…今までずっと先輩のことを隠していてごめんなさい」
「律?」
「でも、俺。先輩と別れたくない!ずっとずっと好きだったから、離れたくない。許してもらえるかどうかは分からないけれど、でも、先輩を諦める以外だったら俺は何でもします!だから、お母さん、お願い。俺から先輩を取らないで」


小野寺が泣きそうな表情で母親に訴える。その姿に胸を打たれた自分も、弟と一緒にお願いしますと立ち上がって頭を深く下げた。身勝手な言い分なのは知っている。彼女にとって最愛の一人息子の愛する人が男で、それがどんなに母の心を傷つけるのかも良く分かる。父を亡くした息子にはあたたかな家庭を築いてもらいたい、そんな願いだってきっとあったのだ。それを、俺達は何も考えずに、ただ今を楽しく過ごせるかどうかばかり心配して、誰かを傷つけていることに気づきもしなかった。気づこうともしなかった。浅はかすぎて言葉もない。


「……三人共、少し落ち着いて。席に座ってくれるかしら?」


今にも土下座しそうな勢いだった自分達を、やんわりと彼女は制する。相手の意思を無視することは出来ないので、それ以上謝罪も出来ずに渋々と席についた。やはり駄目なのだろうか、認めてもらえないのだろうか、と不吉な考えが脳裏をよぎる。苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる自分たちに、しかし彼女は意外な言葉を口にした。


「律。あのね、お母さんも実は律に謝らなければいけないことがあるの」
「…え?」
「お母さん、本当はね。随分前から律が嵯峨くんとお付き合いしていたことを知っていたのよ」


彼女の発言にその場にいた全員が息を飲んだ。その中でも特に織田は、母親の顔をぽかんと見つめたまま、呆然としている。弟も似たような状況ではあるが、必死に理性を取り戻しているのが目に見えた。


「二人とも、少し油断しすぎよ。家の前で抱き合うのは、これが初めてじゃないでしょ?」
「……、あっ、の…それは!」


織田が母親の言葉にあからさまに動揺していた。弟は弟で何ともバツの悪いような表情を浮かべている。そのコントラストが面白かったのか、彼女は子供のようにくすくすと声を上げて笑い始めた。俺はと言えば、次から次へと移り変わる状況についていくのがやっとだ。目元の涙を拭いながら、彼女は何かを思い出すように語った。


「本当ならね、今頃とっくに律達を別れさせていたはずよ。でもね、それを小野寺くんに止められたの。二人が抱き合っているのを目撃した時、隣に小野寺くんもいたのよ。私はかなり取り乱してしまったけれど、それを落ち着けさせてくれたのも彼だった。」
「…律っちゃんが?」
「でね、小野寺くんはこんなことを言ったのよ。“叔母さんは、二人を引き離したらそれで満足なのかも知れません。でも、そんなことをされたら律は、きっと叔母さんのことを恨みます。叔母さんが律に嫌われている姿なんて、俺は見たくありません!大好きな唯一の家族と仲違いするのは永遠に一人になることと一緒です”って。小野寺くんは本当に良い子ね。家族でもないのに、いつも私達のことを本気で心配してくれる。誰よりも深く、私達のことを考えてくれる。昔も、今も」


小野寺くんが言い出したことよ、彼女は言葉を続けた。彼が、私の代わりになると。


「そうやって小野寺くんは、ずっと私の身代わりでいてくれたのよ。私も、やっぱり大好きな律に嫌われたくないという気持ちもあって。途中何度も後悔したけれど、小野寺くんがこれで良いんですって笑うの。あの子に私は、これまで何度救われたことか」
「………」
「小野寺くん。貴方達に散々酷いことをしたでしょう?心ない言葉で傷つけたでしょう?でもね、あれは全部私の行為であり、言葉だった。彼はね、“息子の恋を反対して嫌われる親”の代わりを、引き受けてくれた。きっとそれでも、私達が困難を乗り越えてくれることを彼は信じてくれていたのね。小野寺くんの予想通り、貴方達は私の言葉に挫けることは無かった。それを小野寺くんが本当に嬉しそうに、毎日毎日私に教えてくれたから。それで漸く、私なりの答えに辿り着くことが出来たわ」


彼女の言葉は衝撃的なものだった。つまり小野寺は最初から弟達のことを反対なんてしてなかったのだ。だとすれば理解出来るじゃないか。彼の“思考”と“行為”が一致しない理由を。後者が全て織田の母親の代わりで、小野寺自身のものでは無かったのだ。


「もし、私が答えを出すとするならその時は、律に真実を知っていることを話した瞬間だと小野寺くんに伝えた。そして彼はこう答えたわ。“そうなった場合、俺は本当に律を任せることが出来る人を叔母さんに紹介します。その人達だけはどうか叔母さんも、律と同じように真っ直ぐで心優しい人であること、信じてあげてください”と。今ここに貴方達がいるのは、そういう意味なの」


おいで、と優しく手招きしながら彼女が織田の名前を呼ぶ。小野寺のことを聞いたせいか、織田は掌で何度も目元を拭っていた。


「律。昔、お父さんが亡くなった時に私達は約束したわよね。いつも笑顔を絶やさないようにしましょうって。そして今の律が笑顔でいる為には、嵯峨くんの存在が必要なのね」
「……うん」
「嵯峨くん。私はどうあっても律の母親だから、貴方達二人の関係を手放しには祝福出来ない。……本当にごめんなさい」
「それは、承知しています」
「でもね、私はいつでも律の味方よ。だってたった一人の家族だから。その律が本当に嵯峨くんのことを好きなら、運命を共にする覚悟があるなら。嵯峨くんも、私の家族よ。家族の味方をすることは、当然のことだと私は思うの。だから嵯峨くん。律のことをこれからも宜しくね」


それは彼女が苦悩した上で出した結論だった。途端織田はまたもやわんわんと泣き出し、今度は母親と弟の二人がかりで慰め始めた。泣きながら、それでも織田は嬉しそうに笑っている。三人とも、一緒に心から幸せそうに微笑んでいる。


小野寺が見ていたのは、この光景だったのだ。



いつの間にか雨は止み、灰色の厚い雲の隙間からは晴れ間がさしていた。弟と織田はもう少し話がしたいと言ったので、俺だけが先に帰宅することになった。道路のあちらこちらに散らばる水溜まりを避けながら、誰もいない道を一人とぼとぼと歩く。水面に偶然のように反射した光が時折目に入り、痛かった。


怒涛の展開だった。大問題が発生したかと思えば、数時間も経たないうちにスピード解決。けれどこの数時間で寿命が何年か縮んだのは確かなことで、それを裏付けるように体の中で燃え盛る熱がいつまでも引かなかった。


沈黙のままにひたすら足を進める。自分でも無意識に、唐突に言葉が漏れた。



なんだよ、それ。


あいつ、馬鹿じゃねーの?と小さな声で呟いた。


今までずっと小野寺のことを敵だと思っていたし、それを疑いもしなかった。けれど蓋を開けてみれば、小野寺は俺達のことを最初から敵だなんて考えていなかった。守ってくれていたのだ。織田も、母親も、弟も、そして俺のことも。誰一人悲しむことの無いようにと、小野寺は自分を犠牲にして、たった一人で。


分かりかけていたはずなのに。ヒントは十分あったのに。どうして俺は気づかなかったのだろう。一番苦しかったのはあいつ自身じゃないか。誰よりも大切にしていた織田に嫌われる可能性だって十分あったんだよ。なのに彼は何もかもを引き受けて幸せにしようとした。みんなのことを。大好きだから、ただそれだけの理由で。


俺だったらそんなことが出来るか?大切な弟に、代わりだからとはいえ傷つけるような台詞は言えない。けれど小野寺はそれを口にした。そこにどれだけの勇気があったのだろう。どれだけ彼は自分の言葉を悔やんで泣いたのだろう。苦しまなかったはず、ないじゃないか。


今頃思い出したよ、小野寺。お前、弟達のことを邪魔だとか色々言っていたけれど、別れるっていう一言は口にしなかったもんな。きっと出来なかったんだよな。身代わりでも、たとえ嘘でも。


俺さ、そんな小野寺に何て言った?


“誰も、お前に守られたいなんて思っていない”


守られている人間が、守られていることも知らずに、守られたくないと暴言を吐いた。ああ、馬鹿だ。俺は大馬鹿者だよ。小野寺があの場所で泣き出さなかった方が不思議だ。小野寺は俺達なんかより、もっともっと辛かった。それなのに、気づかなかった。気づいてやれなかった。同じ兄の立場だって織田があれ程教えてくれていたのに。どうして弟達に幸せになってもらいたいという願いを持つことを、信じてやれなかったのだろう。


ああ、どうしよう。


酷い言葉で傷つけた。




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