きっと些細なことの一つに過ぎなかったのだ。


好きな人と一緒にいられることはそれだけで幸運だ。特に弟達の場合男同士ということもあり、つまらない偏見に晒されることだって無いとは言えない。大学では一応はただの友人として弟達は付き合っていて、だから彼らが恋人になる瞬間と言えば瞬くような一時だけだ。例え事実を知る俺の前だとしても、本当の意味で気を許すことは多分出来ない。


浮かれる気持ちも分かる。誰だって他の人間を意識せず、愛する人に自分だけで見つめてもらいたいと願うはずだ。恋は盲目とは良く出来た言葉で、互いのことだけを考えている瞬間はその存在ごと現実から二人の空間だけが上手く切り離される。でもそれは自分達を包む世界が消えた訳では決してなくて、他の人間は彼らの周りにそっと潜んでいる。弟達は、ただそれを少し忘れただけ。ほんの一瞬、込み上げた想いのあまりに抱き合っただけ。静かに愛を確かめる為の抱擁は、織田の母親がそこにいるかもしれないという意識を霧散させた。


素晴らしい時間を過ごしたことに満足し、自分の部屋に戻っていた織田は、そこで初めて母親から呼び出されて追求されたのだという。さっき、貴方と一緒にいた男の人は誰?と。


そこまで俺達に伝え終えると織田は、もうこれ以上言葉には出来ないとでも言うように泣き崩れた。それを慌てて弟が支えるものの、表情は強ばったままだ。彼からわざわざ聞き出さなくてもその後の経緯は簡単に想像出来る。母の質問に動揺した織田はそのままの姿で家から逃げ出して、兄の家に行くと告げた弟を探していたのだ。


「せんぱ、…俺、…やです」


消え入りそうな声で織田が弟に向かって懇願する。けれど弟は先程のような優しい言葉を告げることも出来ずに、ただ織田を抱き締めるしかない。それに益々不安になった織田は、弟にしがみつきながら狂ったように泣いていた。


正直、家族に彼らの関係を明らかにすることを考えていなかった訳じゃない。例え今は秘密にしていても、いつか必ず家族に気づかれる時が来る。でもそれは今ではなく、もっと遠い未来のはずだった。こんなの、いくらなんでも早すぎる。


しかも織田にとっての母親とは、残された唯一の家族なのだ。父を失った悲しさを知る織田が、母を捨てて弟を選ぶことなんて出来る訳がない。だってそうすることは、母からも唯一の家族を自分自身で奪うことだから。


弟達の関係は、世間からしてみれば確実に異常だ。むしろ理解がある方がおかしい。けれど、説得出来ない訳じゃない。共に過ごした時間や思い出があれば、それ盾に貫ける。けれど今の彼ら二人には、まだ何も無いのだ。二人共にあることが幸せであると証明出来るものが、何一つ。織田の母は、弟達の関係に反対する。絶対に。愛する家族の手を離せない織田は、だから弟の手を取ることも出来ない。


呆然とした表情で弟が振り向いた。全く血の気のない顔だった。


「どうしよう、兄さん。どうしたら良い?」


きっと弟も俺と同じ結論に達したのだろう。どうしようもない悲しみに唇を歪めたままの弟の姿。胃からとてつもない吐き気が込み上げて、思わす口を掌で覆った。


かける言葉が見つからない。


雨音の激しさは増し、ガタガタと窓が大きく震えていた。部屋の中に二人を残し、廊下に出る。奪われていた呼吸を取り戻すかのように、深く深呼吸した。心臓は未だ波打つままで、目まぐるしく走る動悸が止まらない。


勢い任せに壁を殴りつけた。拳に痛みは感じなかった。そのまま壁に寄りかかり、ずるずると崩れていった。


あの日から、弟の幸せだけを考えてきたのに。今度こそ守ろうと誓ったのに。この様は何だ?助けることも出来ない、手段も思いつかない、慰める言葉も出てこない。ああ、本当だ。小野寺の言葉の通りに、俺は本当に役立たずだったのだ。


どうすれば良いのか分からない。何が最善なのかも知らない。あんなに素直に信じることが出来た、弟と織田が一緒に笑う姿も、今はもう見えない。何故だ。どうして、たった一人の弟を笑顔にすることも出来ないくらい、俺は無力なんだ。もう二度と泣かせないって、あの雨の日に決めたのに。


また、守ることが出来ないのか。俺は。


じわりと目尻に浮かんだ涙をぐっと堪えて、途方もなく天井を見上げた。強くなったつもりだった。自分は変わったと信じていた。でも、本当は何もかも昔のままで、今も俺は弟すら守れない弱い人間なのだと思い知らされた。


遠くから足音が聞こえてくる。それが自分の部屋の前で止まったと同時に、インターフォンが一つ鳴らされた。すみません、という小さな声が壁越しに聞こえてくる。蹲っていた体を叩き起こし、慌ただしくて鍵も締め忘れていたドアをゆっくりと開けた。最初から、聞き覚えのある声だと思っていた。


傘を指した小野寺が一人、雨の中に佇んでいた。




次から次へと押し寄せる異常な状況に頭が追いつかずに固まっている俺を、小野寺は迷いもなく真っ直ぐに見据えていた。どうしてお前が俺の家の住所を知っているのだ、とか、一体何をしにきたのだと尋ねたいことは山ほどあった。けれど、小野寺の意図を瞬間的に俺は悟っていたのかもしれない。奴が次に発した一字一句を予想出来たのが良い証拠だった。


「律は、此処にいますよね?迎えに来ました」


傘の水滴を振り払い、お邪魔しますと家主の承諾もなく小野寺は靴を脱ぐ。真っ直ぐに弟達のいる部屋に向かう小野寺の前方に移動し、唯一の経路を塞いだ。小野寺が一言、邪魔ですよと文句を口にする。


「帰れ」


出来る限り威圧的な声音で彼を脅した。それに小野寺は怯みもせずに、良いからどいてください、と何事も無かったようにまた俺に声をかける。彼の性格上分かっていたことだが、己の意思を曲げることはないのだろう。普段なら適当にあしらっていたそれも、今は易々と出来るような心情ではない。本当は、声を出すだけでも精一杯だった。


「高野さん。逃げていても、現実は何一つ変わらないですよ?こうなってしまった以上、潔く諦めてください」


小野寺の台詞に、頭にカッと血が昇った。何をしたかという詳細な部分なほとんど覚えていないが、気づけば俺は小野寺の胸元を壁に押し付けていた。ギリギリと力任せに指を埋め込み、小野寺の白い喉が苦しそうに唸って。かは、と彼が掠れた音を漏らして初めて己の暴挙に気づき、慌てて手を離した。小野寺は、床に倒れこみ、ぜーぜーと荒い呼吸を落としていた。


それでも次から次へと怒りがこみ上げてきて我慢出来ない。そうだ小野寺だ。小野寺さえいなかったなら、弟達は何の心配もなく恋人同士でいられたはずなのだ。それをこいつが邪魔した。小野寺が大切な時間を無駄にしたから、あの短い逢瀬に弟達は全てをかけていたんじゃないか。小野寺さえいなければ、弟達は道端で抱き合うことなんてしなかった。母親にだって知られずに済んだ。いつかは告白しなければならないとはいえ、それは今じゃなかった。全部お前のせいじゃないか。お前さえいなければ、小野寺さえ、消えてしまえば。


「うん。高野さんの気持ちは良く分かります。俺なんて最初からいなければ良かったんですよね。そうしたら、世界はきっともっと単純だった」
「………お前」


何故俺の考えていることが分かるのだと驚けば、小野寺は苦しげな表情を見せもせずに微笑んだ。彼の見せた笑顔があまりにも美しすぎて。あれほど暴れ狂っていた怒りも忘れて、思わず見蕩れてしまった。


「でも、手を出してしまった以上、俺は最後まであの二人を見届けなくてはなりません。本当に自分の判断が正しかったのか、俺だって迷いがない訳じゃない。…でも、もう無理だと分かりました。だから俺はすっぱりと諦めた」
「…小野寺?お前、何言って…」

小野寺が震えた手で俺の両腕を掴み、俺の胸元にその小さな顔を埋めた。ぎゅう、と一瞬その掌に力を込めたかと思えば、彼は俺の体からそっと離れていく。もう、限界です。俺一人では、と囁きながら、小野寺は今にも泣き出しそうな表情で笑う。


「高野さん、お願いです。どうか俺を助けてください」





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