もう何年も前のことだ。


弟に最初の恋人が出来、彼がその事実を一番に報告した相手は俺だった。ずっとずっと気になっていた子から告白されて付き合うことになった、と何とも嬉しそうな表情を浮かべて伝えてきたとき、素直におめでとうという言葉が口から出ていた。当時は俺にもそれなりに彼女はいたが、すぐに別れてしまっていて。告白をするのも、振っていたのも俺ではなく彼女達で、最後の捨て台詞は皆同じく「そんなに弟くんが好きなら、弟と結婚すれば!」だった。偶然その様子を見かけた弟が「兄さん、俺と彼女とどっちが大事なの?」とお約束の質問をしてきたが「お前」と何のためらいもなく答えた自分に、弟はかなり呆れていたようだ。


十年以上も一緒に過ごしてきた家族と、ぱっと出てきた赤の他人を比べればどちらが大切なのかは一目瞭然だ。同意を求めるように聞けば、そういうことではない、と弟は反論する。


その大事な大事な弟に彼女が出来た時には、最初はそれなりにショックだった。自分が天塩に育ててきた娘を嫁にやる気分とはこういうものかと、擬似的苦痛にしばしのたうち回ったものだ。けれど当の本人は飄々としたもので、「これで兄さんも弟離れ出来るね」と実に悪意の無い笑顔で言い切っていた。


弟の彼女さんとやらは、同じクラスの同級生で大層可愛らしい人物だった。小柄な体格で容貌は中々の美人。口角を上げれば自然に産まれるえくぼがやや印象的で、人の話を楽しげにうんうんと頷きながら聞く姿は、好印象の何者でも無かった。弟に連れられて自宅にやってくることも多く、最初の頃に兄として紹介された自分も既に彼女のいうイレギュラーな存在にもすっかり慣れてしまった。弟と彼女がもし結婚して二人の子供が産まれたら、きっと可愛らしいだろう。そうか、俺は叔父さんになるのか、と今度は甥姪馬鹿を発症しつつも、それなりに平和で幸せな時間だった。


それはある雨が降る日のことで、学校から帰宅すると家の前で傘を指した彼女が一人ぽつんと立ちすくんでいた。この時間帯は両親は二人とも仕事中で、家に入る鍵は当然ながら兄弟のどちらかにしか委ねられていない。弟は確か今日は委員会があるから遅くなると聞いていて、それなのに彼女が来たということは何か急用でもあったのだろう。でなければこんな大雨の中わざわざ家に来たりしないよな、と心配になり、自分から家の中で待ちませんか?と彼女に声をかけた。思えば、それが全ての失敗だった。


不在の弟の部屋に勝手に通すのも気が引けたので、リビングで待っていてもらうことにした。ホットココアを作って彼女に渡してやり、後は適当に茶菓子と飲み物のセットを残す。面白くもないテレビをつけて、弟が来るまでここで待っていて、という言葉を残して俺は自分の部屋へと戻る。ベッドに転がりながら雜誌を見ているうちに、いつの間にか居眠りをしてしまった。軽く意識を飛ばしながら呼吸を繰り返していると、すぐ近くに誰かが息を殺して自分のことを見下ろしているような気配がした。


最初は家族のうちの誰かだろうと思ったものの、でも声もかけずに見つめているだけというのも気になった。異変に気づいたのは自分の体に重みを感じた時で、慌てて起きてみれば弟の彼女がのしかかっていて。驚き過ぎて声も出ずに唖然としていると、彼女は自分から胸元をはだけさせてゆく。露になっていく白い肌を見せつけるように俺に近づき、いやらしげににたりと笑って。


「私、お兄さんの方が好きなんです。だから、ね?」


何もかも理解出来ない彼女の言葉で唯一分かったことは、この女は弟ではなく最初から俺狙いであったのだと気づいた。弟を利用して自分と顔見知りにさせ、ずっとずっと二人きりになる時間をじっと待っていたのだ。今日、弟が不在であることを予め彼女は知っていたのだ。だからこそ家にやって来た。俺を手中に嵌める為に。


そこから先はもはや三流ドラマの域だ。テレビの中で良くあるように、委員会が思ったよりも早く終わったという弟が帰宅して、玄関に彼女の靴を見つけるのだ。けれど家の中の何処にいる気配もなく、そうして辿り付いた場所が俺の部屋。運悪く鍵をかけていなかったせいで、扉の隙間から自分と彼女が重なり合う姿を目撃してしまった。


弟が部屋に入ってきた瞬間にその存在に気づき、思わず息を飲んだ。この状態をどうやって説明すればいい?果たしてそれを伝えたとしても弟はそれを信じてくれるだろうか。冷や汗をだらだらと流しながら一触即発の状態は続き、けれど最初にそれを打ち破ったのは彼女だった。


「ごめんね。私はお兄さんのことが好きで、貴方のことは好きじゃなかったの」


その台詞でブチ切れた。力のままに彼女を押し返し、ベッドの下へと突き落とした。痛い、何するの?と逆ギレをする女に、ふざけるなよ、と暴言を吐く。誰がお前みたいな女を相手にするかよ、と罵り始めた矢先、兄さん、と呼ぶ弟の声がそれを引き止めた。絶望的な気分で弟の表情を見れば、今までに見たこともない冷たい笑顔で笑っている。そんな弟の様子に流石の彼女も面食らったらしい。驚いた顔で、じっと弟の姿を見上げていた。


「こういうことになった以上、別れよう」
「………お兄さんが私を脅して言わせた、とかは考えないのね」
「ドラマの見すぎだろ。兄さんがそんなことをする訳ないじゃないか」
「子供を持つ親みたいなことを言うのね。盲目的に家族を信じるのはどうかと思うけど」
「信じるよ、家族だもの。少なくとも、君よりは」


ふん、と息を吐いて、彼女は悪態を付きながら部屋を去っていった。まさか二人の別れの瞬間が自分の部屋で訪れようとは。しかもその原因がよもや自分にあるとは。消えた彼女の姿を未だ目で追う弟に何か声をかけようとし、結局は言葉に詰まって何も言えなくなる。


嗚咽のようなものが聞こえたのは、その直後だ。


慌てて彼の姿を見やれば、弟ははらはらと涙を零していた。ごめん。ごめんね、兄さんと謝罪を口にしながら泣き崩れる。何を言っているんだ、お前のせいじゃない、と反論するも、彼は首をふるふると振ってはただ泣くばかりだった。憎かった。弟をこんな目に合わせた彼女が。許せなかった。それを防ぐことの出来なかった自分が。何一つ守れなかった自らが。


最早それはトラウマのような出来事に違いなかった。あれから弟は女の人を家に連れてくることは無かったし、自分に紹介するなどというのはもっての他だった。女の影がちらほらと弟に見えることはあったものの、いつの間にかすぐに消えていたし、弟の口からその事実も聞かなかった。まるでタブーのように兄弟の中で恋の話はせず、だからといって俺ではどうすることも出来なかった。今でも、あの弟の泣き顔を思い出すと胸が苦しくなる。今まで俺が弟を泣かせたことなんてほとんど無かったのに。あの鮮明な光景がどうにも脳裏に焼きついて離れやしない。弟の傍に自分はいるべきではないのかもしれない。そんな時に両親の離婚が決まった。チャンスだと思った。


考えても見れば弟が色恋沙汰を俺に話しかけてくるなど、例の事件以来始めてだった。相手が男という時点でちょっと躓いてしまったが、けれどそれが何だというのだ。弟があの悲劇を乗り越えてくれたと思えば、相手が誰であろうと構わない。弟が幸福だというなら、それで良い。


その弟が俺に救いの手を求めてきたのだ。助けないわけにはいかない。


弟の為ならなんでもする。それが俺なりの贖罪であり、誠意だ。





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