それは偶然と呼べる出来事であった訳で、つまりその後の行為も偶発的であると判断出来る。たまたまのことだった。そりゃあ同じクラスなんだもの、同じタイミングで教室以外の何処かで彼と鉢合わせるのは有り得ることだ。演技することにもようやく慣れた数週間後。当然のことだが、トリと俺との関係がこれ以上変化することも無かった。


現実からの逃げ道として一心に漫画を描いてみたりもした。漫画の中の世界は素晴らしかった。自分の思い通りに登場人物は動くし、この虚像の世界で何が起こるかは自分の掌の上なのだから。世界を作ることが出来る人物は、神様と呼ばれるに違いなく。そうやって夢中なって絵を描いて、ある瞬間にふと我に返るのだ。例えばそれは旅先から自宅へ帰る侘しさであるように、夢から現実の世界に引き戻された感覚に似ていて。胸がキリキリと痛んだ。けれどそれは当たり前のことだった。自分が見ていたのは自らの望みが全て叶う夢物語。もし醒めてしまったら、何一つ自分の思い通りにならない事実をこれでもかと突きつけられるのだから。


その痛みが怖くて、しばらく漫画を描くことは止めようと思った。読むことはまだ平気だと思ったけれど、実際は主人公達にトリとナオくんが重なって見えてしまって駄目だった。無理をする必要もこれといって無く、その空白の時間は結局は勉強だのに費やされることになる。ひたすら参考書と問題集を机の上で見比べる俺を見て、家族は明日雪が降ってきたらどうしようと茶化したが、それ以上息子の変化に追求することも無かった。


有意義な時間の使い方。それは些細すぎる過去との相違。


けれど、相も変わらずトリの前ではだらしのない人間で有り続けた。


自分が成長するということがトリから離れるという意味なら、自分を落とすことなんて簡単なことだった。何年も経てば幼馴染だという関係も、きっと最後には遠のいてしまう運命にある。けれどそれは何十年も後のことで、今じゃない。俺はトリを、手放せない。今はまだ。


例えトリが未だナオくんを見つめることを止めていなくても。


やたらめったら天気の良い午後のことだった。新緑が柔らかな風に揺れていて、その隙間から優しい太陽の日差しが溢れる。窓ガラスに光があちこちに反射して、その場所を通りすぎる生徒達が濃い影を断続的に落としていった。テスト期間も今日で終了し、皆が皆背中を伸ばしあくびを繰り返していて。俺、家に帰ったら永遠の眠りにつくんだ、と死亡フラグらしきものを立てる同級生を流し見、さて、俺も帰るかと帰宅の準備をする。


トリはどうやら先生に職員室に呼び出されているらしく、しばらく待っていたのだが。きっともうしばらくは帰って来ないだろうと諦めた。クラス委員長であり優等生であるトリは、先生達のお気に入りだ。頼りにされている故に引き止められていることは簡単に予想がついた。個人的にはあと一時間程度は平気で待てるのだが、“親友”であった頃の自分なら多分待ちくたびれて先に下校していただろうから。今の俺は昔の自分を演出する必要があるので、こういう選択となる。一見簡単そうに思えるが、これが結構難しい。どちらも自分だというのに、今までどうやって過ごしていたかちょっとした瞬間に忘れそうになってしまうのだから。


教室を出たところで、タイミング良く戻ってきたらしい羽鳥と会った。


「帰るのか?俺も今帰るから、一緒に帰ろう」


自分が言わんとしていたことを先に言われて、こくりと頷くしかない。無表情を装ってはいたが、内心では喜びの余りに踊りそうになっていた。


トリと一緒に帰ることが好きだった。理由は簡単だった。その時ばかりは、羽鳥は自分のことを見てくれるから。教室という第三者が、ナオくんさえいなければ、羽鳥は自分のことだけを考えてくれる。酷いことを言っているようだが、それは真実だ。いいじゃないか。ナオくんは羽鳥に四六時中想って貰える。けれど、俺の方はどうだ?こんな僅かな時間でしか羽鳥の意識を向けることが出来ない。羽鳥の恋を邪魔するつもりはないが、これくらいはどうか許してもらいたい。


「なあ、トリ。ちょっと公園寄っていかない?」
「まさか遊びたいのか?その年になって」
「漫画の資料に使いたいの〜。あ、トリに遊具に乗ってもらって、それを写生したい」
「俺が遊ぶのか?この年になって」


渋る羽鳥に拝み倒せば、結局は彼の方が折れてしまう。やれやれと眉間に皺を作りながら、それでも家とは遠回りの進路を選ぶ。羽鳥の、こういう優しいところが好きなんだよなーと目を細めて俺は思うのだ。本当は、ただこうやって二人きりの時間を作りたかっただけなのに、ね。


最初にその違和感を気づいたのはやっぱり羽鳥の方で、何処かに鞄を置く場所がないかと視線で探している時だった。きょろきょろと動かしていた彼のその視線が、ある一点に注がれた。何だ、随分早く見つかったな〜と何気なく振り向けば、そこに意外な人物が居ることに気づき、驚いた。


草の茂みに隠れた場所に佇んでいたのはナオくんで、そこには他の高校の制服を着た可愛らしい少女。


頭をガツンと殴られたような衝撃だった。俯きながら顔を赤らめる見知らぬ少女に、今まで見たこともない神妙な面持ちで構えるナオくんの姿。目を瞑ったまま少女が勢いよく何かを語れば、ナオくんは今まで頑なだった表情を綻ばせて笑って。ああ、と思った。こんなの、良くある光景じゃないか。少女が一人の少年を呼び出し、重大なことを伝える場面なんて。愛の告白以外に有り得なくて。


言葉を失くして呆然としている羽鳥の手を取り、逃げるようにその公園から飛び出した。


強制的に家に帰るしかなく、けれどその途中は二人とも何も話さなかった。否、何を語れば良いのか分からなかった。あの二人の反応を見るに、告白の行く末はどう考えても実ったように思える。つまりそれは、ナオくんのことを好きな羽鳥にとっては、失恋以外の何ものでもなくて。普段ハッピーエンドな漫画ばかり読んでいるから、こういう時に気の聞いたことが言えないんだと普段の行動を悔いた。


ちらりと羽鳥の表情を盗み見た。そこにあったのは悲しそうに目を伏せて、傷ついたように唇を歪める男の姿。トリのこんな顔を見るのは今までで初めてだった。


途端に目頭が熱くなって、涙が溢れそうになった。それを唇を噛み締めることで我慢して、どうにか飲み込む。大丈夫。ちょっと悔しかっただけだ。羽鳥の心にはもうナオくんの存在が占めていて、俺の居座る空間がこれっぽっちも残っていないこと。その表情を見て分かってしまったから。


最初から知っていたじゃないか。この恋が叶わないなんて。


そう思ったら、色々なことがどうでも良くなった。別に良いんだ、羽鳥が誰を好きであっても、それでも俺は羽鳥のことが好きだから。この想いが届かなくても良いんだ。ただ、こんなに悲しそうな羽鳥を見ることが自分には耐えられなくて、だから今から俺がすることは友人として彼を慰めるだけの為だ。そこに情なんてない。愛なんか存在しない。


「トリ…。俺のこと抱いても良いよ?」


一つの恋が実って、二つの恋が散ったこの日に。


俺は、愛する人の身代わりになることを決めたのだ。




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