「おーい、皇!もう一緒に休憩入っても大丈夫だってさ」
「ああ、里緒。もうそんな時間?」
「えー…、何それ。予定より休憩時間一時間もずれてるんだけど」
「夢中になってて気づかなかった」
「仕事熱心なのは良いけれど、休むときに休まないと。倒れたりしたら本末転倒なんだからね!」
「重々承知しております」


そんな会話を二人交わし合いながら、ホール会場から休憩室へと入る。途中、里緒が窓の外を眺めながら、うわぁ、凄い人だなあ、と諦めたように呟き、全部皇目当てならまだマシだったのにと不吉なことを言ってのける。


「俺目当てな訳ないだろ。文化祭とは違うんだから、俺が確実にいるって訳でもないんだし」
「あ、そっか」


美術生の作品を集めて展示会なるものを開こう。意気揚々に言い出したのは俺で、当初は他の誰もが、里緒ですら、そんなことが出来るわけないだろうと呆れていた。学生のうちは大学内で開催される美術展で自分の作品を披露するのが当然のことで、ましてや外部の場所を借りてというのは中々に難しい。大体の原因は主に金銭面だ。美術関係の作品はえらく大きいものが多く、その分広いスペースの確保が必要になる。広い場所というものはつまりそれだけ費用が嵩むというわけで、何十万単位の出費は覚悟しておかなければならない。


がしかし、実は本屋で培った人脈を元に、その場所は破格の値段で押さえ済みだ。それを里緒に言えば、え?私、やらないとか言ったっけ?とすっとぼけて、そのまま全面協力を申し出る。資金不足も赤字も大丈夫!皇の秘蔵写真を女共に売りつければオッケー!という彼女流のよくわからない理論を繰り広げ、けれどそのお陰で協力者が現れ始めた。友人の友人、友人の知人へとその目論見を広げれば、あっという間に人が集まり。しかも大学のOBが力を貸してくれるということにもなり、予想以上の規模になってしまったのは嬉しい誤算だった。


そして、開催一日目の今日を迎える。


「でもさー、驚いちゃった」
「何が?」


遅すぎる昼食にと、コンビニで買ったサンドイッチを冷たいお茶で流し込みながら、里緒が言った。


「何か皇の元気がないなーと心配してたけれど、急に元気になったと思えば、突然展示会を開こうとか言い出すし。一時はとうとう気が狂ったのかと思った」
「でも、実現しただろ?」
「うん。最初は絶対無理だと思ってたけど、人間ってやれば出来るもんなんだね」
「里緒のおかげだよ。賛同第一人者になってくれなかったら、ここまで出来なかったと思うし」
「馬鹿言わないでよ。皇が言い出さなかったら出来なかったことよ?周りに感謝することも良い事だけど、少しは自分に自信を持ったら?」
「………そっか」


彼女の言葉に今はもう消えてしまった大好きな人のことを思い出す。あの人と何一つ異ならない言葉。自信を持て、ね。だからこんな時にいつも思ってしまうのだ。彼の言葉は、本当に正しかったのだと。


唐突にメール用の着信音が響き、鞄の中から携帯電話を取り出そうとする。おそらくは知人がこの場所にやって来たという連絡だろうと、ある程度予想をつける。目的の物が不運にも鞄の奥底に沈んでいたので、仕方なしに上層部の物を取り出してテーブルの上に並べた。そこに目ざとく里緒が突っ込みを入れる。


「…何これ」
「ああ。お守り」


彼女が手にしたのは、言わば彼の遺品だ。他の物は全て箱の中に収めてしまったが、それだけはどうしても仕舞い込むのが嫌だった。結局その一つのみは俺の元で大切に取っておくことにした。つまり、これは俺と彼を繋ぐ唯一の絆でもあったから。


「文庫本がお守り?変なの。あ、これカフカの変身じゃん」
「知ってるんだ?」
「本ぐらいは私だって読むわよ。まあ、お先真っ暗なこの話はあまり好きじゃなかったけどね」


断言した後、ちらりと里緒が横目で俺を見る。何か言いたげな表情だった。


「何?」
「実は私、昔は皇のこと嫌いだったの」
「……爆弾発言だな」


はっきり言って聞き捨てならない。突然どういうつもりかと問い詰めるような視線を向ければ、それに鼻で笑った彼女は、だってね、と言いながら詳しく説明を始める。


「何もかも恵まれているくせに、絵の才能がないとか唐突に言い始めて。その割に出来上がった絵は結構良いものだったりして。色々むかついていた。私は画家になりたいという夢の為に頑張っている。でも皇は?理想すら決めあぐねて、ただ絵を描いているお人形。願えば叶うはずの夢に手を伸ばそうともしない、怠惰な人間。私の言っていること、何か間違っている?」
「異論なし」


見事なまでにご名答だ。全くもって否定出来ない彼女の観察評価に、純粋に感動してしまう。随分と酷い言われようだが、全て本当のことだから仕方ない。だって自分のことは自分が一番よく分かっているから。けれど、ただ一つ彼女に違うと言えるものがあるとするならそれは、人物評価に該当するのは“昔”の俺であって“今”の俺じゃないということ。



“変身”という言葉が、自分の身を変えるという意味なら。



「でもね、今の皇を見ていると」



変わったのは、一体誰?



「良い男になったと思うよ」


私のタイプじゃないけどねと、彼女はぺろりと可愛らしく舌を出して笑った。


学生による宣伝効果もあった為か、駅から大分離れているのにも関わらず有難いことに満員御礼の状態だ。主催者権スタッフである自分はその休憩こそままならないが、同士達の作品の中に包まれているというだけで満足してしまう。えらく安上がりな幸せだ。


「雪名くーん!やっと見つけた」


そう言ってやって来たのは本屋の同僚であり、先程メールをくれた人でもあった。学生作品をかき集めて展示会をやることにしたと仕事中に彼女に報告すれば、私も何かやりたい!と自ら協力してくれることになった。彼女自身作品を作ることは不可能で、だからパンフレットやチラシのデザイン等をお願いすれば予想以上の素晴らしいものが出来上がり。内心これくらい作れるのであれば、諦めた彼女の夢だって実は叶うんじゃないかな、とも思った。


「凄い規模だね」
「お陰様で」
「作品も見たけどとっても素敵だった。プロの作品と比べればまだまだなんだろうけどさ。こう、愛が篭っているっていうか。本当に作ることが大好きなんだなって見てるこっちも分かって、凄く幸せな気持ちになれるから。あー、なんかもう一度私も絵を描きたくなってきた!」
「描きたいなら、描けばいいじゃないですか」
「そんなに簡単に言わないでよう。でも、誰かに認めてもらうために描かなくても、自分が好きだから描くっていうのも有りかなって。そんなのも良いかなって、ちょっと思った」


彼女の視線が俺から外れ、会場から流れ出る人達に注がれる。その中の一人がこちらの姿を見つけたように、軽く会釈しながら近づいてくる。品の良さそうなその男性は、きっと彼女の知り合いだろう。今日はとある知人を連れてくると、彼女から前もって聞いていたから。


「あ、雪名くん。紹介するね?この人が私の知り合いの小野寺さん」
「小野寺です。宜しくお願いします」
「雪名です。こちらこそ宜しくお願いします」


ぺこりと先にお辞儀され、それに合わせるように腰を折る。そんなに敬語は使わなくていいからね、と告げてくるあたり気さくな人だという好感を持つ。


「小野寺さんのご友人が、雪名くんが探してた人で。あれ?小野寺さん一緒じゃなかったっけ?」
「随分早くに到着してしまって、仕方ないから二人で何度か会場の中を行ったり来たりしていたんですけど。中に気に入った作品を見つけてしまったようで、そこからぴくりとも動かなくなってしまったんです」
「そうなんだ。それじゃ、しばらくしたら迎えに行こうか。まだ時間はあるからゆっくり待ってても良いし、辛い入院生活を終えた後だもの。これくらいの自由は許容範囲でしょう。あ、雪名くんへの紹介はその分遅くなるけど」
「構いませんよ。作品をじっくり見ていただけるなんて、大変有難いことですから」


木佐さんの元飼い主が意識を取り戻したという朗報は、既に彼女から聞いていたものだ。けれど報告してくれたタイミングが悪く、展示会の準備やらで多忙になりつつあった時期で、その為に中々時間が合わなかった。………というのは表向きの理由で、本当は彼が死んでしまったという事実を認めたくないから避けていたというのが真実だった。でも、こんなマイナス思考を木佐さんに知られたら絶対怒られるよな。一転して、何が何でも会おうと決心したのはそんな理由。


思い出すのは辛いけれど、彼との思い出は悲しいものじゃない。


だから今は、あの奇妙な子猫について二人で語りあえればと思っている。


彼が確かに存在したという証を。失った痛みを分けあうように


「あ、そうだ。雪名くん聞いて!小野寺さんって、実は少女漫画の編集者さんなんだよ」
「本当ですか?凄いですね」
「いえいえ、そんな大それたものじゃないですよ」
「じゃあ益々描かなくちゃな、漫画」
「ああ、うん。そうだね〜。でも、どんな漫画にしよう。アイデアが浮かばない〜」
「あ、それなら。俺、良い話を知ってますよ」
「良い話?小野寺さんがそれ教えちゃって大丈夫なの?」
「当の本人が描いて欲しいと言い出したんですよ。出典はまあ、この会場にいる例のあの人ですが、アイデア…というよりは、実際に見た不思議な夢の話なんですけどね」
「夢?」


ああ、そう言えば似たような本がありましたね、と彼は呟いて笑う。その言葉に心が酷く波打った。何なんだろう、この強烈な違和感。否、違和感というよりは、予感?唐突な兆候に緊張して息を止める。それっぽく言ってみましょうか、と楽しげに彼は台詞を続けた。



「ある日目覚めたら、彼は自分の飼い猫の姿になっていた」




だからまだ夢を見ているのだと思った。つまりは自分が死ぬ前に見える幻覚みたいなもので、だから再度降り始めた雨が自分の体に当たった時は驚いた。だって、冷たくて思わず飛び跳ねてしまったから。冷たいと自分が思うことは、つまり感覚があるということで。何かを感じ取れるということは生きていることの証明だった。あんな酷い事故だったのに俺は生きていたんだと感動する一方、捨てられた手鏡の前を見て愕然とした。嘘だろうと思った。だって、人間だった俺が自分の飼い猫とそっくりそのままの姿をしていたのだから。


途方にくれたのは一時で、直後激しい雨が襲ってそれどころではなくなった。濡れてしまって保てぬ体温。凍えて無くなる手足の感覚。このまま死んでしまうのかと思った。一度ならず二度も死ぬなんてごめんだった。誰か助けてという言葉と同時に、子猫の記憶が体を巡り。ああ、あの人ならきっと助けてくれる、とこの猫に餌を与えてくれた心優しき人の顔を思い浮かべ。最後の力を振り絞って、彼の家へと押しかけた。


結局自分の判断はこれ以上なく正しく、何とか死ぬことだけは免れた。安心する一方で、やっぱり自分は死んでしまったのだと理解して。悲しくて泣いてしまった。


芸術家を目指す彼に説教をしたのも、つまりは単なる成り行きだった。


最初は励ましてやろうとか、元気が出るようにとか、そんなつもりは全く無かった。だた自分の目の前で愚痴愚痴と悩まれるのが嫌だっただけだ。「描くのなら、十年残る作品を」とか「誰もが理解できる物語を」というのは、編集者である自分がいつも口癖のように言っていた台詞で。それを思わずぽろっと告げてしまったというだけのこと。


昔から思っていたことだ。自分は、どうして自らの作品を作り上げることが出来ないのだろうと。


編集者という職がいかに重要であるかは理解している。けれど、それだけなのだ。素晴らしい助言を与えることはいくらでも出来るけれど、けれど実際に作品を生み出すのは別の人間。歴史に刻まれるのは作家の名前と作品だけで、自分の名は永遠に残らない。


俺は、世界に何も残すことが出来ない。


だからその台詞は八つ当たりに近かった。夢を叶えられる位置にいる青年に、どうしても口を出さずにはいられなかった。あの言葉は、だから自分の無力さを皮肉った意味でもあったのだ。俺には、誰しもが理解できる物語は描けない。十年残る作品を作れない、と。ところが青年は与えた言葉をそのままに受取ってしまった。心に残りました、だなんて言うものだから、あーこいつ馬鹿だなあと思った。そんな意味じゃないのに。馬鹿だなと笑った。自分は誰かにずっとそう言って貰いたかったのだと気づいて。


死んでしまった猫の体。生きているはずの俺の魂。


そんなちぐはぐな状況が続くわけないと実は気づいていて、俺の体が生きていると知った時は、ああ、やっぱりと思ってしまった。生きていて嬉しいという感情より、彼と離れてしまう寂しさの方がずっとずっと強かった。


僅かすぎる可能性。けれど星を掴むようなその希望に、全てかけてみようと思った。


子猫の記憶が継承されるとも限らない。人間の俺が目を覚ましてしまえば、何もかも忘れているのかもしれない。でも、自分が残した言葉を彼が受け継ぎ、それがもう一度自分の手元に戻ったら。彼の絵を見たら全てを思い出せるはずだと。根拠なんて全く無かった。でも、俺は信じていた。


彼が自身の全てを込めた絵を残してくれれば、絶対に俺はそれを見つけ出せるって。





絵の前で、静かに佇む人がいた。


その姿を遠くに眺め、早る鼓動を無理に抑えて。深呼吸を繰り返しながらその足を進めた。見えるのは背だけで、だからその表情は俺には分からない。けれどどんな顔をしているのかを想像することは出来る。きっと絵の中の曲線を辿った黒い瞳は揺らめき、唇は真一文字に結ばれて今にも泣きそうになっているに違いない。


少し離れた彼の後ろで、立ち止まり。大きく息を吸い込んだ後に尋ねた。


探しものは見つかりましたか?


俺の問いかけに、あの黒猫の元飼い主である“木佐翔太”という名の人物が振り向く。それは先程同僚に教えてもらったばかりの名前。でも俺にとってはそうじゃない。ずっとずっと忘れることが出来ないその名。


「ゆき…な?」


会ったことも言葉を交わしたこともない彼が、俺の名前を呼ぶ。それがどんな意味を持つかなんて分かりきっていた。同意するように彼に微笑んで見せれば、途端堰を切ったように彼の瞳から涙が溢れる。


ああ、この人だ。俺がずっと探していた人。そして俺をずっと求めていた人。間違いなく、彼は俺がこの世界に一番に愛した人だった。泣きそうになりながらも、懸命にそれを堪える。今度は俺が、彼のために笑ってやる番だと思ったから。


「一方的に消えるなんて酷いじゃないですか」


人が猫に、猫が人に。


「…ごめん。でもちゃんと会いに来たんだから。それくらい許せよ、少年」


そうして、偽りの君は本当の君に。


感情のままに木佐さんに走り向かって、飛び込むように彼の小さな体を抱きしめた。お互い涙を零しながら、それでも回した腕はもう二度と離しはしない。額を当て、指を絡め、泣きながら笑って。そして一緒に、小さな声で呟いた。


見つけた。




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