僕は化物だ。


想像というものは時に真実に勝ると教えてくれたのは、一番目の飼い主で。言われた台詞の意味をその当時の僕は全くもって分からなかった。黒猫は不吉だという伝説は有名だけれど、それはあるホラー小説から生まれたものだとその飼い主は言う。本を読んだ人々は黒猫を不吉なものだと信じ込み、そしてそれをあたかも事実のように周囲の人に広め、いつしかそれが噂となり。人々は虚実を真実と認識するようになってしまった。人間の信じる基準って意外と適当なんだなあ、とか思いつつ、一人と一匹で笑いあったあの日々。今になって考えれば、あの頃が人生で一番楽しかった時期だ。


一番目の飼い主が、ある日突然病気にかかって亡くなって。僕は二番目の飼い主に引き取られた。


その家には夫婦と一人の赤ん坊がいて、僕はその子が凄く凄く好きだった。意思疎通が出来るようになりたいとその子と一緒に文字を覚え、なんとか人間の言葉を話せるようになった。これで会話が出来ると僕は大いに喜んで、けれど猫が人の言葉を話すだなんてと気味悪がった夫婦によって結局は捨てられることになってしまった。


三番目の飼い主は、人形を作る人だった。


人間と瓜二つの品を作る素晴らしい手。まるで魔法のような彼の手さばきに驚いて、人間ってこんなに簡単に作れるのだと思った。それならば、僕も簡単に人間になれるんじゃないかと考えて。強く念じたら案の定人間になることが出来、でもそれを活かすことなくまた僕は一人になってしまった。


雨に濡れたダンボール箱の中、もうこのまま死んでしまっても良いかなと思った。何一つ良い事が無かった人生だ。もう、朽ち果てても構わない。遠のく意識の中、それでも感じた温かさをくれた人は、木佐翔太という僕の最後の飼い主だった。


風邪を引いた僕の看病中、どうやらその人に僕は自分の力の全てを見せてしまったらしい。けれど、猫が人間になれるんだったなら余裕で留守番頼めるなと、とんでもないことを彼は言い出し、けれど自分が化物であるにも関わらず追い出すことなく受け入れて。だから僕は彼のことが一瞬で好きになった。この人についていこうと心に決めた。


その人は本を読むのはとても好きで、けれど読書の最中にあーだこーだと言う人だった。話を聞くに、彼は本を作る会社で働いているのだという。編集者というのがよく分からなかった僕は、いつもどんなお話だったか教えてくれる彼を、きっと評論家みたいなものだと信じた。


僕はフランツ・カフカの「変身」という本が好きだった。だって猫は人間になれるけれど、虫が人間になるだなんて。ありもしないおとぎ話は僕の大好物で、だから木佐さんが同じ小説を好きだと聞いて、とてもとても嬉しかった。


木佐さんも、その本を読んでは大笑いを繰り返す。


でも、それが自分の笑いの種類と全く違うことだと知った。何をやっても上手くいかず、どう努力してもそれが報われることがない最低の結末。その主人公に、自分と重ねながら笑っていたのだと。


例えば、ほら。


ある日晴れた日に学校に行けば、途中酷い雨が降り始め。電車に乗り遅れまいと濡れながら走って駅につけば、大雨の為に運転見合わせ。辛うじてバスが動いていたものだから、それに乗って学校につけば、大雨の為に休校。帰ろうとしたら、今度はバスが運休。


誰がどう見ても散々な一日。想像してみて。どう、笑えてくるでしょう?


辛いことがありすぎると、人は呆れを通り越して笑ってしまう。不幸の連続は滑稽すぎる自分を笑いに誘う。悲劇は、繰り返せば喜劇となるように。


それは無限の袋小路みたいなみので、だからいつまで経っても抜け出せない。化物は化物で、どうあがいたって報われるわけはないのだから。


ある晴れた日に木佐さんと公園に散歩に出かけた。広い敷地の中を駆け巡って遊んでいたら、いつの間にか彼とはぐれてしまって。しかも動き回ったせいでお腹が減って、どうしようかと悩んでいると、美味しそうなおにぎりを食べている人を見つけた。だからその餌を少し分けて貰おうと思った。本当にそれだけで、何の意図も無くその人に近寄った。


その後、迎えに来てくれた僕の飼い主はとうに去ってしまった彼の姿を目で追いかけて、そしてその頬を赤らめていた。後から聞けば、彼は僕に餌を与えてくれた人に一目惚れしてしまったのだと教えてくれた。


顔だけは知っていても、名前も住所も分からないその人。接点なんかあるはずもなくて、だからそのまま一生赤の他人のままに過ごすと僕は思っていた。


けれどあの雨の日に、その考えは覆された。


画材屋で偶然彼の姿を見かけた木佐さんは、一旦はそのまま通りすぎてしまった。その途中に雨が降って、少しの間雨宿りし、さあ帰ろうかという所で、逆方向の道を歩き始め。それが何を意味するか、僕は瞬間的に気づいてしまった。あの人を追いかけているのだと。分かってしまった。


いつもいつも後ろ向きなことしか考えなかった彼が、それでも踏み出した一歩。


途端今までずっと見てきた木佐さんが、全然違う人のように思えた。それにちょっと感動してしまった。人ってたった数秒の時間でも、変わることが出来るんだって。変身するんだって、僕は初めてその瞬間を目の当たりにしたのだから。


それが、猫としての僕の最後の記憶だった。


気づけば僕は、木佐さんを庇うために車に飛び込んでいたのだから。


僕の能力というものは厄介で、どんな力があるのかはその力を使った後にしか分からない。失くした僕の体と、存在する魂。それが一つとなってあの、不思議な子猫を生み出した。それも、僕の力だった。


この力のせいで化物と呼ばれたことは何度もあった。飼い主を喰らうことで長くを生きる妖怪だと。けれど、それは違う。僕は飼い主の命を代わりにして生きながらえたのではない。長く生きたから飼い主の命を看取ったというだけの話。噂というものは時に真実に勝るけれど、でも僕の中のたった一つの真実は揺ぎはしない。傷ついたこともあったけれど、もう迷わない。


二人が抱き合っているのを空から眺めながら思うのだ。


僕は、この二人を繋いだ言わば恋のキューピットみたいなもので、だから化物なんかじゃなかった。僕は飼い主をこよなく愛し、そして愛されたただの子猫に戻った。そうやって僕はようやく化物という名から解放されたのだ。


最後の瞬間に、やっと僕も変われた。


彼ら二人の思い出の中に、僕は永遠に生きるだろう。それだけでもう十分だ。だって猫でしか無かった僕が、この世界に何かを残せたのだから。


永遠の時の中に僕は眠る。


そしてもしもう一度目覚めることがあったなら、


僕も彼らの絵を見つけたい、と。強く思った。



大きな美術館にある少年が訪れた。静謐な空気の中、何十年も前の有名な画家の絵をずらりと連ねる壁。その中の、たった一枚の絵を少年は目に留める。それは何処にでもあるような絵だった。


ソファーの上に青年が二人座り、繋がる膝の間に黒猫が眠っている。


絵の中にあったのは、ありふれた幸せだった。愛に溢れた絵だった。少年がずっとずっと探し求めていたものだった。


「見つけた」


少年は呟きながらその絵に向かって微笑み、そして泣いた。


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