元の生活に戻ったというだけの話だ。


木佐さんが自分の前から姿を消してから数週間。特にこれといったトラブルもなく日々を過ごしていた。朝起きて大学へ行って、講義が終わり次第バイトに向かう。用事を終えて家に帰り、食事を作り風呂に入って。あとは絵を描いて眠るだけ。恐ろしく穏やかで、平和な日々。彼というイレギュラーな存在を消し去った今、ありふれた日常だけが残されていて。


心にぽっかりと隙間が空いたような感覚だった。


寂しいとか悲しいとかいう感情は、木佐さんがいなくなった直後は凄まじいものだったけれど。流れ行く時間は忘却を誘い、いつの間にか酷く冷静になっていく自分が当然のように現れる。


死んでしまったはずの猫が生きた人間となって、一緒に暮らす。


まるで夢物語だと思った。本当に夢だったのかもしれないと考えた。だからそれが現実であると確かめる為に俺は、何度も何度も彼がこの部屋に存在していたという痕跡を辿る。


いつも使っていた食器。小さな彼の体を軽く包んでしまうくらいの大きなバスタオル。手触りが気に入ったと笑いながら教えてくれた毛布に、あの人がいつも大切にして離さなかった本。延々と未練がましくそれらを抱いている訳にもいかない。漸くその夢を閉じる準備を始める。大きめのダンボール箱に思い出の品々を確かめながら入れて。全て終わった頃には、もう二度と開かれることのないようにガムテープでその世界を厳重に閉じよう。


もう二度と帰らない彼への弔い。どうか少しでも安らかに眠れますように、と。


無表情のまま黙々と後始末を続け、最後の本を手にしたところで携帯が鳴った。待受画面には小嶋里緒の文字。着信拒否をしようとして、けれど後々何度もかけてきそうな面倒を嫌い、仕方なしに応答した。


「もしもし、皇?もー、やっと出た!今何処にいるの?」
「自宅だけど」
「ちょっと外に出てきなさいよ。最近会話らしい会話してなかったじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだっけって…。最近はぎりぎりまで顔を見せなかったと思えば、講義が終わればさっさと帰っちゃうし。バイトが忙しいのかなーと思って本屋に行けばほとんど休んでるって聞くし。本当にどうしたの?悩みがあったら聞くよ?私だけじゃなくて、皆も凄く心配してるんだから」
「…ごめん。悪いけど、そんな気分じゃない」
「えっ?あ、ちょっ、待って、皇ってば!」


一方的に会話を終わらせて、無言の携帯電話から聞こえてくるのは機械的な断続音だけ。電話を取る為に一旦離してしまった本を拾いあげる。と同時に本に挟まれていた栞のような紙がはらりと落ちた。以前この本を読んだ時は、こんなものは無かった気がする。訝しみながらその紙を確認すればどうやらそれはメッセージカードのようで、小さな空間に奇妙な文字が書かれていた。


“本棚の上”


自分にこのメモを書いた記憶がないということは、つまりこれは木佐さんが書いたと認識するのが妥当だった。脚立を床に固定し、年末の大掃除以外はめったに目にすることのない場所に顔を向ける。埃っぽい空気に咳き込みながら辺りを見渡せば、これまた置いた記憶のない白いビニール袋が目に入った。大きめなその袋の中に感じる重量。床に降りて中に何があるのだろう、と覗き込む。目を見張って驚いた。


どうしてこれが。


そこには、あの時木佐さんに引き裂かれたはずの絵がなんの傷もないままに存在していたのだから。


同じく袋の中に入っていたのは一枚の紙。メッセージカードと同じく、木佐さんの字だった。


雪名へ


この手紙を読む頃には、もう俺はお前の前にはいないと思う。…というありきたりな台詞、実はずっと使ってみたかったんだよね〜。こんな時にふざけんなってお前は思うかもしれないけれど、どうせ最初で最後の機会だろうから、どうか許してやってくれ。


そうそう。お前の絵、実は破いてなんかいなかったんだよ。つまりあれは催眠の一種で、お前に“俺が絵を破いた”と思わせただけ。雪名が破いた絵を見つけ出したらどうしようと不安だったけれど、そんな心配が不要で本当に良かった。


というか、実はそういった力があることに気づいたのは、お前の絵を実際に引き裂こうとしたその時だったのだけどね。実は俺、今の自分にどんな力が眠っているか全然分かっていないんだ。それを理解するのはいつもその能力を使った後で、だから結果的にこの力の存在を教えてくれたのはお前ということになる。そのお礼に、俺はお前の中に眠る力を自覚させてやっただけ。つまり絵が褒められたことを俺に感謝するのは間違いで、前も言ったとは思うけれど、それはお前自身の力だ。その力を使ってどうか、これからも素晴らしい絵を描いて欲しい。


もう俺の嘘なんかとっく理解しているのだろうけど、それについては。


嘘をついてごめん。騙してごめんな。


本当はキリの良い所でお前から離れようとしたんだよ。自分が存在したという証をどうしてもこの世界に残したくて。でも俺の言葉がお前の心に残ったという台詞を聞いた瞬間に、俺の願いは叶ってしまった。だから他の飼い主が見つかったとか適当に言い逃げ、本当はお前から離れなければならなかったんだ。分かっていたけれど、出来なくて。もっとお前の傍にいたくて。


でも、それももう御終いだね。


俺の消滅がお前を傷つけたというのなら、それはすべて俺の責任だ。だから、恨んでくれても構わない。

前にお前を学校まで迎えに行った時の発言も、第三者に雪名の隣に自分がいたという記憶を焼き付けたかっただけなんだ。あの時は、どうやったらそれが出来るのか全然分からなくて、結果お前に迷惑をかけてしまった。それについては心から深く謝罪する。亡者の戯言だと思って流してくれても良いけれど。


凄く短い間だったけれど、俺は幸せだったよ。こんな終わり方しか出来なくて、本当にごめんな。


説明しにくい確信みたいなものがあって、もう一度俺はこの世界に戻ることが出来るんじゃないかと思っている。それが何年後か、何十年後か、何百年後かは分からないけれど、もしお前が俺に絵を残してくれただというなら。俺はずっとお前の絵を探し続け、必ずそれを見つけるよ。ああ、絶対だ。


その時にまた、ありがとうとお礼を言わせて欲しい。


お前のこの絵。何を描いているのか全然分かんねーし、お前の迷いそのものが現れているし。技術も何もかも未熟だったけどでも俺がこの絵を破れなかったのは、それが当身大のお前のように見えたから。だからこの絵、本当は大好きだったよ。心から。お前のことが、好きだった。


最後の瞬間にきちんと言える準備はしていたんだけど、きっとそれだけでは伝えきれないと思ったからこの手紙を書いてみた。長々とごめんな。そしてありがとう。それじゃ、またな。


それと


俺がいなくなったからって自暴自棄になったり、泣いたりするんじゃないぞ。少年。


手紙は、そこで終わっていた。


「…だから、その呼び方止めてくださいって…」


言ったじゃないですか。


言葉と同時に溢れた涙が紙の上に落ちる。じわ、と滲むそれを眺めて、これでは彼の思う壺じゃないかと笑って。最初から約束を破ってしまったけれど、どうか今日だけは。明日からは笑えるように頑張るから、どうか今だけは感情のままに泣かせてください。


ねえ、木佐さん。俺の方こそごめんなさい。


俺、自分ばかりが苦しいのだと思っていました。傷ついているのだと考えていました。でも本当は、木佐さんの方がもっとずっと辛かったのですね。今ならもう分かります。木佐さんが別れの時に泣きながらも最後まで笑顔でいてくれたことが、どれほど凄いことなのか。だって、今の俺は笑えません。涙がぼろぼろと溢れて、笑うことなど出来ません。


それでも、笑ってくれたのですね。俺の為に。この別離が、俺にとって悲しいものにならないようにと。


それなのに。


さよならも言えなかった馬鹿な俺を、どうかどうか許してください。


俺、絵を描き続けます。みんなに、そして木佐さんにも愛してもらえるような絵を描きます。届く宛もない途方のない夢ですが、きっと叶えてみせます。だから、ねえ木佐さん。俺の絵を絶対に見つけてくださいね。何年も、何十年も、何百年だって、ずっとずっと待っていますから。


ぐしゃぐしゃになった手紙を抱きしめながら泣き崩れる。


例え肉体が時を経て保てなくても、それでも絵の中に想いは残る。彼が教えてくれたことだ。二度と忘れはしないから。


言えば良かったという後悔はしない。ただもし神様の慈悲みたいな奇跡が、もう一度あるとするのなら。その時には俺からも言わせてください。種別とか、性別とか、生きているかどうかなんて関係なく。


きっと俺は、初めて出会った時からずっと


木佐さんのことが、好きでした。


さよなら。





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