冷たい鍵を差し込んで重い扉を開ければ、独特の音に気づいたらしい木佐さんが慌てたようにぱたぱたと足音を立ててこちらにやって来た。靴を脱ぎ終わると同時に、木佐さんの笑顔が目に入る。普段と同じ様な呑気な顔。何一つ変わらぬ屈託のない微笑み。それがあんまりにも平和で幸せ過ぎて。このまま、今のまま何も素知らぬふりをして過ごせたらという夢のような誘いに揺らぎ、けれど辛うじて冷たい現実に留まる。


「今日は随分早いね〜。バイトじゃなかったの?」
「ありましたけれど、早退させてもらったんです」
「……何で?もしかして、具合悪いとか?」
「………」
「馬鹿雪名。それならもっと早くに言え…何?痛っ!」


無言を答えだと受け取ったのか。急いで救急箱を取りに行こうとした木佐さんの両腕をあらん限りの力でぐ、と掴んだ。途端、痛いと彼はつかめ面を作る。はっとしてその手の抑えは緩めたものの、けれど離れようとする体を繋ぎ留めて逃がさない。いよいよ異様な空気を感じたのか木佐さんは、恐る恐るといったように俺の顔を見上げる。


「雪名。お前、顔真っ青じゃないか。そんなに苦しいのか?薬じゃなくて病院…」
「どうしてですか?」
「…は?どうしてって、何が」


「何で、俺を騙したんですか?嘘をついたんですか?」


睨むような視線で彼を射抜けば刹那、彼から感情の篭った表情がすうっと消えた。人形のように何も映すまいとする瞳と全くの無気力に陥ってしまった体に、瞬間的に力を込めていた手を離してしまった。途端だらりと振り下ろされた腕の動きが奇妙に思えて。同時に俯いてしまった顔からは、生気というものがまるで感じられなかった。


今までに見たこともない木佐さんの様子に驚いていると、漸く意識を取り戻したとでもいうように木佐さんが唇を歪めながら顔を上げた。じっとりと俺の視線を自らのそれに絡めて。


「何だ、やっぱりバレちゃったのか」
「………やっぱり、って」
「俺が本当は死んでしまったこと」


否定せずに隠す気もなくけらけらと笑いながら、いとも簡単に真実を認めてしまう彼に。うん、もうそろそろ気づかれることだと思っていたとあっさりと言い切った木佐さんに、今度は俺の方が固まって、思わず言葉を失ってしまった。



「最後の記憶ってのはあれかな。凄いスピードの車が、俺達に向かって突進してきた瞬間。あ、“達”っていうのは俺の飼い主と一緒だったからだよ。一緒に散歩に出かけたは良いものの途中雨が降ったから雨宿りして。さあ帰ろうっていう矢先のことだった。途中で雷みたいな轟音が聞こえて思わず振り向いたら、あっという間にやって来た車がそこにあって。間に残された距離は、とてもじゃないけど逃げられるものじゃなかった」


ベッドに深く腰をかけながら、木佐さんは記憶を辿るように語った。いつの間にか準備されたコーヒは、俺が落ち着けるようにと作ってくれたものだった。けれどそれを飲むような気分では無かった為、一切口をつけられることのなかった漆黒の液は白い湯気を黙々とたてるばかりだ。


一方木佐さんは自分とは対照的に酷くリラックスしている。話の折に手足を伸ばして、ぐっと背伸びをしながら、それでも真実を俺に語ろうとすることは止めない。


「走馬灯っていうのかなあ。あれ、猫にも存在するみたいだぞ?三十年生きてきた中の色んな場面が浮かんできやがんの。ああ、もう駄目なんだな。ここで死ぬんだなって。でもまあ猫にしては随分長く生きたから、もう良いかなって。死んじゃっても良いかなって。そんなことを考えていたら、飼い主が俺のこと咄嗟に逃がそうとしてることに気づいて。瞳だけでも理解できたよ。早く逃げなさいって。お前だけでも。生きなさいって」


一瞬だけ、木佐さんの唇が言葉を紡ぐのを止める。親馬鹿だよな、吐息のような声が空を伝った。


「後は簡単だったよ。ジャンプするのを繰り返して、あの人に車が触れる前に俺がフロントガラスにぶつかれば良いだけの話だったんだから。痛いとかは思わなかった。ただ無我夢中で慌てたようにハンドルを切る運転手を見たのが最後。多分居眠り運転だったんだろうな。で、気づいたら俺はこの姿で雪名の家の前にいた。お前が餌をくれた優しい人って覚えていたから、霊になっても無意識にお前についていったのかもしれないけど」


何だかなーと彼は苦笑いをしながら肩を竦める。飼い主を助けることができて本望だっていうのに、なんで俺はまだ生きてるんだろうって。


「もう死んだ方が楽だろうって。何度も考えただよ。でも、お前を見ていたら少し気が変わった」
「………俺を?」
「変なところで自分の人生を諦めてるっていうか、自分の実力はこんなものって勝手に限界を作っているところ。死んだ俺からすれば、生きているってそれだけでもの凄い幸運なことなのに、自分から不幸になりたがっている雪名を見て、正直腹が立った」
「………すみません」
「謝んなくていいよ。そのお陰で俺は、自分の未練に気づくことが出来たんだから」
「未練…ですか?」
「そう。ただの猫である俺が、ようやく今になって分かったんだよ。俺は誰かに、何かを残したいから今の今まで妖怪なんかになりながらも生きてきたんだって。人には至極簡単なことだろうけど、猫にとってそれは不可能に近いことだ。言葉も通じないし文字も書けない。絵を描けもしなければ、何一つ想いを伝える手段がない。どう考えても人の心に何かを届けることなんて絶望的だったけれど。でも、俺の願いはちゃんとお前が叶えてくれた。夢が全て実ってしまった。俺の未練は消えてしまった。………だから、」


だから?



「もうここでお別れだよ、雪名」


………今、何て?


どうせいつもの冗談だろう。嘘か誠か芸術家の卵なら見抜いてみせろよ、と意地悪く俺に語りかけてくるんだろう?けれどその言葉を期待して待っていても彼の唇は開かれず、代わりに真っ直ぐに俺を見つめていた瞳からぼろぼろと涙が溢れ始めた。その行為が、彼の言葉が嘘偽りのない真実だと教えてくれた。


「嫌です」
「ゆき、な」
「木佐さんと離れるなんて絶対に嫌です!今のまま、ずっとこのままで」
「……それは出来ないよ、雪名。だってお前はもう知ってしまった。俺がとっくの昔に死んでるって。一度起こった事実は覆らない。死んでしまった生物は生き返らない。当然のことだろ?だから、死んでしまった俺は生きているお前の前から消えるしかない」


涙を流しながらそれでも最後まで笑ってみせようとする木佐さんを、思わずそのままに抱きしめた。嘘だと思った。信じたく無かった。だって、腕の中の暖かさは確かなものだったし、指先で拭った涙は本物だった。それなのに、それが全部嘘だなんて。幻だなんて。


目に熱いものが込み上げて、いつの間にか雫となって溢れていた。


「馬鹿。お前まで泣いてどうすんだよ」
「…だって」
「ほら、笑え。お前はずっと笑っていろよ。この世界で俺が一番大好きなのは、雪名の笑顔なんだからな」
「………そんなの、急に言われたって」
「最後まで手間がかかる奴。ほら、涙が止まるお呪いをしてやるから。黙って目を閉じてろ。良いか?俺がもういいよって言うまで絶対目を開けるなよ。それまで、俺はお前から離れたりもしないから」


言われたままに瞳を閉じると、唇に何か柔らかいものが触れた感覚がした。


「本当は俺もお前とずっと一緒にいたかったよ。もっと生きていたかったよ。二人で一緒にいるだけでどんなに幸せだろう、って思ったよ。でも、俺にはきっと過ぎた夢だから。俺は俺の道を。お前はお前の道を。どうか雪名が選んだ道が、お前自身にとって幸福なものになるように祈っているから。だから、頑張れ。お前ならきっと出来る。今まで一緒にいてくれてありがとう。凄く嬉しかったよ。………ばいばい」


ゆっくりと瞼を開ければ、もうそこに木佐さんは居なかった。部屋中隈なく探した。それでも見つからなかった。叫ぶように彼の名前を呼んだ。返事は無かった。


途方にくれたように部屋の中心にぺたりと座りこみ、涙を零しながら彼の言葉を思い出す。


目を開けるまでは離れないって言ったくせに。


嘘つき。





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