その日を境にして、木佐さんの元気が無くなっていったのは目に見えて分かることだった。食欲がない、と言うわけではないが、前みたいに帰るなり夕食のメニューを抱きついて尋ねることもしない。ご飯は残さないが、大好きなデザートは要らないと言い始め。何事かと思いつつも、原因は一つしかなくしかも俺にですら分かりきっているものだ。


木佐さんの飼い主が生きていると。


それは彼にとって朗報であったはずだが、逆に落ち込ませてしまった気もするのだ。それが自分と会えなくなる寂しさのせいかと思ったけれど、それにしたって今の彼の状況はおかしすぎる。一緒に住むことは叶わないかもしれないが、でも会いにはゆける。自分にとってその生き方すら明確に教えてくれた人だから。そう簡単に自分から縁を切るつもりは一切ない。


説得しても、彼は違う、違うんだよとでもいうように首を振る。


俺には、木佐さんの考えていることが理解出来ないのか。


部屋の中で絵を描く機会が圧倒的に増えたのは、何も大学での課題のせいではない。最近気づいたことではあるが、木佐さんは俺が絵を描くところを見ているのがどうやらかなり好きなようだ。じいっと後ろから視線を感じたと思えば、彼は自分よりもその絵を凝視している。そこまであけすけに見られるのはやや恥ずかしくもあるが、彼の表情が穏やかなものであることを知って、だからそれを咎めはしなかった。


最初は、木佐さんを喜ばせる為に。けれど、いつの間にかその目的は掏り替わり。


「木佐さん、お願いがあるんですけれど」
「うん、何?」
「絵のモデルになってくれませんか?」
「は?俺なんか描いてもつまんないと思うけど…」
「俺が木佐さんを描きたいんですよ。駄目ですか?」
「猫と人間、どっちの姿?」
「両方です」
「随分欲張りな絵描きだな、おい」


久し振りに見た木佐さんの笑顔だった。嬉しくて、思わず胸がつまってしまった。


ベッドの上に自由な格好でというわりとラフな形式で、お前に見られるって結構緊張するなと木佐さんはくすりと笑う。最初は軽い会話を繰り返し、自分が集中し始めると同時に声は途切れ、真剣な雰囲気の中二人だけの世界に落ちる。木佐さんの髪ってやっぱり綺麗だな、とか。こぼれ落ちそうな大きな瞳にはどうしてかいつも吸い込まれてしまいそうになる、とか。音に出さずして手を動かし、絵の中に彼を閉じ込める。


「俺が絵になるのか…、何か変な感じ」
「上手く出来てるでしょう?」
「それなりにな。ま、頑張って俺がいなくなるまでには完成させろよ」
「何ですか、それ」
「何って、事実だろ?」


言葉を捉えるのならそれはそうなのだけれど。飼い主が生きているのなら、そこに彼は戻るべきで。でも、会えないわけではないのだ。それなのに彼は、まるで今生の別れみたいに言うものだから。


「会いに行きますよ」
「来なくていい」
「飼い主の元に戻ったからとはいえ、会えないわけじゃないでしょう?」
「俺はお前に会いたくない。だから、来なくて良いよ」


俺に対する初めての拒絶だった。驚いて思わず絶句していると、それに気づいたらしい木佐さんが仕方ないなあ、というように笑った。けれどその言葉を撤回する気はないようで。それが無理に作った笑顔であることを理解したと同時に、彼はこう呟いた。


俺は俺の道を。お前はお前の道を。選ぶ、ただそれだけのことだと。



仕事をしなくてはならないというのに、考えるのは木佐さんのことばかりだ。少女漫画の陳列作業をしながら、それでも彼の言葉が頭から離れない。一体何なのだろう、あの言葉は。木佐さんは一体どうしてしまったのだろう。いくら頭を使ってみても、到底答えには辿り着けそうもない。絵を切り裂いた一件以来分かったことだが、彼は相当に頭が良いい。それは人間と比較しても確かなことで、だから彼にしか知りえない未来の予測図というのがあるのかもしれない。それは、俺と木佐さんの永久の別離を意味するのか、けれどそうはさせまいという絶対の意思には俺にはあり、だから彼の告げた台詞が心底理解出来ない。


俺、何で木佐さんのことがこんなに気になって仕方ないのだろう。一緒に暮らしたとはいえ、この執着っぷりは何なのだろう。こんなのは、まるで…。嫌、違う。相手は猫で、しかも男だ。種別も違えば性別も異なる。一度だけ体を重ねたことはあるが、あれは単なる性欲処理で、木佐さんが俺に良い絵を描かせるためだけの行為だった。………そうでなくては困る。


何の解決も見いだせないまま考えに没頭していると、遠くから、おーい、雪名くん、という声が耳に届いた。


やってきたのは前に絵を褒めてくれた同僚だった。販促用のポスターを数本抱えながら、やっと見つけたよーと嬉しそうに微笑む。見つけたって、俺ですか?俺なら店にいるに決っているじゃないですか、と返せば、彼女はさもおかしそうにくすくすと笑う。


「雪名くんが頼んだんじゃない。事故に会った人、見つかったわよ」
「え、本当ですか?」
「うん。何だかね、私の友人の知り合いだったみたい」
「そうなんですか」
「まだ意識は戻らないみたいなんだけど、順調に回復してるってさ。でも、流石に家族の連絡先は知らないみたい。今いる病院だけは分かるんだけど。ごめんね、あまり役に立たなくて」
「いえ、それだけ分かれば十分です」
「もし目を覚ましたなら、友人に雪名くんと会えるように頼んでみるって」
「本当にありがとうございます。俺、こういうのってどうやって調べればいいか見当もつかなかったから、とても助かりました」


安心するのは早いし、まだまだ油断が出来ない状態ではあるのだと思う。けれど手がかりが見つかっただけでその心持ちは随分と楽になる。何故だか酷く気を落としている木佐さんではあるけれど、実際に飼い主の姿を見たら、元気になるに違いないと確信して。


「そういえばさ、何でその人を探しているか理由をまだ聞いていなかったよね。成果も出ないまま突っ込むのもどうかと思ってたけど、今なら大丈夫よね?もし可能であれば、訳を聞かせてくれない?」
「ああ、そうでしたね。実はその人の、飼い猫を今家で預かっていて…」


俺の台詞を聞いた途端、彼女の顔が強張った。俺、何か変なことでも言ってしまったのだろうか?考えてみても、思い当たる節がない。


「それって、雪名くんの勘違いじゃない?」


瞬間的に嫌な予感がした。原因は分からぬまま全身の毛がぞわりとよだつ。聞いてはならぬことだと直感が伝え、けれど逃げようも体が硬直して動けない。口が開かない。声が出せない。聞いてはいけない。嫌だ、やめてくれ!俺は聞けない、聞きたくない!


俺の祈るような声なき叫びは届かずに、彼女は残酷な真実を告げる。


「その事故で死んだのは確か、猫の方だよ?」


事故を起こした運転手の気をそらすために、飼い主を庇って。




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