土産の品を沢山購入して家に帰って見れば、木佐さんはそれに素晴らしい反応を見せて、荷物を降ろしたと同時に俺に飛びついてきた。


「今日の夕御飯は何?」
「秋刀魚が安かったので、焼こうかと。大根おろしも添えて」
「わお!デザートは?」
「生チョコ入りどら焼き」
「今日は素晴らしい夜になるな」


答えに満足したらしい木佐さんは、するりと力を緩めて俺の体から離れていく。以前は料理をする度にまとわりついて困っていたものだが、一度注意をしてみれば大人しく出来上がるまで待つようになった。その間はテレビを見ていることもあるが、大体は本を読んでいる方が多い。大学の図書館から本を借りられることが判明し、適当な本を持っていけば一人で家にいる退屈な時間をこれで何とか過ごせると彼は喜んでいた。


部屋の中に去っていく木佐さんを、慌てて呼び止める。


「あの、木佐さん」
「ん?」
「ありがとうございます」
「何が?」
「…その、絵のことを助けてくれて」
「よく分かんないけど、あの絵を描いたのはお前だろ?それは俺のじゃなくて、お前の力だよ。だからもう少し自信を持ってもいいんじゃないの?」


一体何処から仕組まれていたのだろうと魚を捌きながら考えこむ。絵を破った時点から?ううん、もっとずっと前の様な気がする。眠る前に木佐さんが告げた台詞。あの時から、と考えたほうが懸命だ。つまらない夢に落ちる寸前に引き留められ、性欲を満たすことでしばらくぶりに安心して眠れた。冴えた頭と怒りに狂った感情のまま描き終えた絵は、今見れば乱雑な場所は多々あったけれど、破られた絵よりはかなり上出来だった。感情が篭っていた。


全てはあの絵を描かせる為。それが木佐さんから張り巡らされていた罠。


木佐さんはもしかすると只者ではないのかもしれない。いや、猫が人間に変わるというだけで既に飛び抜けた存在ではあるけれど。


ちらりと視線を彼にやりながら、もう一度改めて考えてみる。


一体何処から仕組まれていた?もっとずっと前のような気がするのは、何故?


早くお風呂に入れと告げてもうちょっとと返事をする木佐さんに、明日のおやつは無くしますよと脅せば、渋々と彼はバスタオルを手にして浴室へと向かう。放り出された本達を片付けながら、その中に俺が買ってあげた文庫本を見つける。一体何度読めば気が済むのか、と思いつつ、そこまで好きなのはなにか理由があるのではないかと思い当たる。最後にはけらけらと大笑いするのを見て、何がそんなに面白いのか気になっていたし。短編小説のようなので、そう時間もかからずに読めるだろう。思わず、ぱらぱらとその頁を捲っていた。


物語の主人公は男で、ある日目を覚ましたら巨大な虫になっていたというところから話は始まる。突然の現象に驚きながらも、その男は虫になった姿を誰にも見せまいと心に決め、けれどあっさりとその正体が家族や上司に発覚してしまう。おおよそ受け付けられない気持ちの悪い容姿に加え仕事にも行けなくなった男は、その日を境に家族から厄介者扱いされるようになってしまった。けれど最後にはどうせ人間の姿に戻るのだろうと思いきや、主人公は間接的にではあるが虫の姿のままに家族に殺されてしまい、家族はその事実を後悔することもなくやっと肩の荷が降りたとばかりに輝かしい未来へと再出発するという最後を迎える。


何だこれ、と顔をしかめた。ここまで救いようのない話を今までに読んだこともない。家族は当然のように虫になった男を虐げているし、死んでしまったことを悲しみもしない。意味が分からなければ理解も出来ない。最も気にかかることは、木佐さんがこの物語を読んで大笑いを繰り返していたということだ。


「それが分からないってことは、まだそれを理解出来る時じゃないってことだよ」
「それならいつ理解出来るっていうんです?」
「さあ?明日かもしれないし十年後かもしれないし、もしかしたらそんな日が永遠にこないかもしれないさ」
「柔軟な思考回路が必要ってことですか?」
「違う。そうならなければ分からないってことだよ。個人的には、お前にはそんなふうになって欲しくはないけどな」


言い切って、彼はとても大切なものを愛おしむように、寝転びながらその本を抱き締める。


「この話ってさ、もう百年近く前に書かれたものなんだって。凄いと思わない?」
「何がですか?」
「残っていることが。今も本屋に並んでいるっていうことは、それだけ人々に愛された証拠だろう?自分が手にとった本が、何年前から繋がれた物語で。あと何百年も続くって考えるだけでもぞくぞくする」
「絵画でも同じことが言えますよね」
「まあな。でも今はどんなに素晴らしい作品であっても、十年後に残っていないことがほとんどだから。けれど人の心を打つ作品は、何年だって何十年だって、何百年だって、例え作者が死んでも生き続ける。たまに流行に乗る人間がいるけれど、愚か以外の他にないよな。生物が淘汰されていくように、芸術だって研ぎ澄まされていく。そういった無意味な流行があるからこそ、残すべきものが見つかるってのもあるけれど。描くのなら、十年後も人の胸に響くような作品を。そういった物を、俺は残して欲しいと思ってる。勿論、雪名にも」


彼の言葉に、今までにない衝撃が全身に走った。


何故、自分は絵を描くことを夢にし始めたのか。その道筋を過去に辿ると、いつも一番最初に見えるのはあの美術館での光景だった。名前も作者も分からないその絵画は、けれど世界を写した繊細な色使いは強烈に胸に焼きついている。素晴らしい画家には世界がこんなにも美しく見えているのか、と。


心を打つもの、残すべき作品というものはああいったものなのだ。


自分は絵を描くというその行為のみに集中してばかりいて、夢の本質を忘れてしまっていたのではないかと思う。描くべきは、十年後にも残っていて欲しい絵。色あせずに継続する想い。最初から永久に存在する芸術なんてなくて、人々の愛する心がそれを永遠にするのだ。自分があの時の絵を、ずっとずっと忘れられなかったように。


特別になれなかった人間は、一つの林檎を一つにしか見えない。


けれど、それが全く同じものであるわけではない。百人が百個の林檎を描いて、その全てが同一であるわけではない。大きさ、色、光の反射、筆使い。全てが異なって、でも最終的に選ばれるのは、いかにその林檎が美味しそうに見えたのかという単純な区別だと。純粋な心が、いつだって最後まで残る。


俺が本当に描きたい絵。心の底から未来に残したいもの。


それが何であるかはまだ分からないけれど、それでも。暗闇の中ようやく一筋の光を見た気がする。


「木佐さんの元飼い主さんは、評論家みたいなもの、なんでしたっけ?」
「そうだけど、何?」
「いえ、木佐さんの中にもその人の考えが残っているんだなって、しみじみ思ってしまって」


素直に自分の心のうちを告げると、途端木佐さんは複雑そうな表情を浮かべる。流石に個人の存在を話題に出したのはやっぱり失敗だったかと焦るも、木佐さんはすぐに微笑みの顔を作る。


「いくら俺の中に残ってても、それを未来に繋げることは猫には出来ないからな」
「え?でも、木佐さんの言葉はちゃんと俺の心に残りましたよ?」
「…嘘」
「本当です」
「嘘付いたら針千本飲ますぞ」
「だから本当ですって」


疑いの目を向ける木佐さんに真っ直ぐな視線を送れば、納得したとでもいうように一つため息をついた。


「それなら、嬉しい」


心底幸せそうな感情を浮かべた彼の笑顔に、どうしてか胸が跳ねた。


木佐さんの飼い主とは一体どんな人だったのだろうと考え始めたのはその時だ。死んでしまった、と聞いた為に、その人物に関わる会話を避けていたというのは事実で。だからといって今更その尋ねて傷口を暴く訳にもいかない。木佐さんの思考や行動を考えるに、ものすごく博識な人だったのだろうという想像はつくが、けれどそれだけだ。


その延長で思いついたのだ。木佐さんの飼い主は果たして一人だったのかと。


木佐さんの口調からするに、人間一人と猫一匹の生活だったのは分かる。が、それが家族がいないという根拠にはならない。単身赴任とやらでもし遠方に家族がいるとするのなら、その形見として彼を大切に愛するのではないかと。その考えに至らなかった自分の浅はかさを少し呪う。


木佐さんに聞けないというのなら、他の人に聞けばいいだけの話だ。


あの事故が死亡事故ではないことに気づいたのは、里緒がそう教えてくれたからだ。無駄に情報通である彼女は、大雨の日の事故のことを良く覚えていて。知っているのは事故にあった人物は意識不明の重体であるということで、それから記事を見たことがないということは亡くなっていないということだと断言する。重体ということはそれなりに酷い状況であったわけで、木佐さんが死んでしまったと思い込んだのも仕方のないことだ。でも、生きている。


木佐さんの飼い主は生きている。


一緒に暮らせなくなるのは寂しいかも、という感情は押し殺し、木佐さんに飼い主の生存のみを伝えた。良かったですね、木佐さんの飼い主さんは生きていましたよ、と。


想像していたのは木佐さんが全身を使って喜ぶ姿であって、だからさもつまらなそうに、ああ、そう、とまるで興味がないみたいに告げたことが、酷く心に引っかかった。



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