最後の一振りを終えて、筆を置く。瞬きを繰り返しては眺め、まあ、こんなものかな、と一人納得する。もう日付変更の時刻をとっくに超えてしまったようで、流石にそろそろ眠らなくては明日の講義に影響する。提出しなくてはならないこの絵を持っていくことだけ忘れなければ、とりあえず何とかなるだろう。


画材を仕舞いこみ寝支度を整える。欠伸を噛み殺しながらベッドに行けば、猫の姿の木佐さんがベッドの上で気持ち良さそうに眠っていた。


一応彼専用のベッドは作ってあるのだ。木佐さんが手触りが気に入ったと主張する布団と同じ生地の物を柔らかなクッションの上に置いて。けれどそれでも奴は寝る度に俺の布団へと潜りこんでくる。こういった場面を目撃した場合、速やかに元の寝床に返してやるのだが。朝になればいつの間にか隣で眠っているものだから、最近はもう諦めてしまった。


少しだけ猫を奥へ奥へと追いやって、ついには抱きしめながら眠りにつく。


人の体よりあたたかなその体温を感じながら、意識がずぶずぶと沈んでいった。


まるで海の奥底へと招かれるようなイメージ。息を吐けばそれが泡沫となって、海面へと浮かんでいく。見えたはずの光はぐんぐんと遠のき、それでも幻の中で自分は消えてしまうそれを手で追うのだ。分かりやすい夢の例えだと思う。人がもし溺れて、それが水面近くだったら助かる可能性があると信じてもがき抗うのだろう。一方、水面が遠のいて深く沈んでしまえば、絶望し何をしても無駄だと考える。それは将来の夢や希望に対してだって同じで、それらが遠のけば遠のくほど何もかも諦めてしまいたくなるのは当然のこと。


諦めることが出来たならどんなに楽だったろう。諦める苦しさと諦めることが出来ないそれ。一体どちらがより辛いのだろう。俺には、分からないことだけれど。


海底に舞う砂埃の中揺蕩いながら、もう届きもしない水面に想いを馳せ、死んだように眠る。自分が消えてしまっても、それでも無関係に世界は回る。


そんなちっぽけな存在の正体が、この俺だと。思い知らされて。


最初に気づいたのは体の熱さで、あれ?今日って熱帯夜だっけ?と間抜けにもそんなふうに呟きながら意識を覚醒していった。やがて外の気温が高いというわけではなく、自身の体が高揚していることが主な原因だと知った。は?何で?と思いながら先程からびくりとも動かない下半身に視線を投げる。と、そこには自分の中心に頭を埋める男が。何をされているかを理解する前に、ざらりとした舌が高ぶった熱に這わされていて。小さく息を詰めると同時に、自分のものが木佐さんの口に咥えられているのだとようやく気づく。拒む為にその髪を掴んで引き剥がそうとするも、既に限界まで張り詰めていたそれらは急ピッチの追い上げに無論間に合う訳が無かった。ごくり、と自身が吐き出した液を喉の奥に押し組む音が聞こえて、息も絶え絶えになりながら慌てて声を荒げた。


「な、何して……」
「うーん。何だろう。発情期?かな」
「発情期って…」
「ヤリたくて仕方ないの。ねえ、雪名。付き合ってよ。俺、上手いから絶対に気持ち良くなれるからさ」
「ていうか、俺もお前も男」
「だって今の良かったんでしょ?それに、非生産的な行為の方が純粋に楽しめるってもんだろ?」
「はあ?楽しむって…ちょっ」


何度か手で擦られただけで、理性とは裏腹に体は巧み技に翻弄されていく。いつの間にか全裸の木佐さんと下半身だけ露出している自分という滑稽さも忘れて、甘ったるい吐息だけが空間を満たしていく。


勃ちあがったそれに掌が添えられて、ずぶりと木佐さんの体内に進んでいった。燃えるように熱い内壁と、目をぎゅっとつぶり唇を噛み締めてふるふると震える彼の姿を見て、自分を冷静たらしめていた最後の一線とやらは、俺が木佐さんを下にして思わず突き上げた瞬間に飛び越えてしまった。


「…うっ…あっ…ゆき、な」
「ここ、良いんですか?」
「…ばかっ!そんなこと聞く…あっ」
「っ…そんなに締め付けないでくださいよ」


律動を止めずに膝裏で押し上げて、白い液やら汗やらにまみれた木佐さんの姿を見下ろす。そうすることでどうしようもなく興奮している自分に気づいて、それを振り払うように何度も何度も無我夢中で動いて。感じすぎてか涙をぼろぼろと零す顔を拭うことが出来ない彼の代わりに舌で舐めとり口付け、そして同時に硬直し、弛緩する。


睡眠不足の体にはきつかったせいか、直ぐ様睡魔が押し寄せる。目を開けていられなくて息絶えるように彼の体に覆い被されば、くぐもった笑い声が耳に届いた。


「飼い主の気持ちはペットにも伝わるもんなんだよ。おやすみ。安心しろ、もう悪い夢は見ないから」


その日は、久し振りにぐっすりと眠れた。


朝目覚めて思い返し、あれは夢だ、夢だったんだと言い聞かせるも、状況証拠はベッドの上に山ほどあって。ああ、俺は何をやってんの?自己嫌悪に陥って頭を掻きむしりながらうなだれていると、先に目覚めていたらしい彼からおはよーといつも通りの呑気な声が聞こえてくる。猫とはいえ、一応は肌を重ねてしまったわけで。自分は断じてそんなつもりではなかったけれど、彼と寝たことは事実だ。事実は真実に等しい。どういう顔をしたらいいか分からずに狼狽えていると、雪名、こっちみてーと甘くねだるような声が耳に届いた。


声に引き寄せられるように視線をあげれば、彼の手には一つの絵。


それが昨晩自分が描きあげた絵で、しかも今日中には提出しなくてはならないものだった。きちんと仕舞いこんでいたはずなのに、どうやって探し出したのか。見知ったその物体を掲げた後、木佐さんは今までに見せたこともないような嬉々とした微笑みを浮かべる。瞬間的に嫌な予感が体を巡った。指先から鋭く剥き出した爪。嘘だろう、だって、そんな。


まさか。



バリバリバリバリ


何してんのこの人。



とりあえず木佐さんの好きなどら焼きのおやつはしばらく無しだな、と全速力で走りながら心に決める。今朝の彼のとんでもない行動のせいで、予定が全て狂ってしまった。単位の関係もあり、課題の絵を今日中に提出しなくていけないことは決定事項。溢れた水は戻らないし、割かれた紙はそのままだ。悪戯を咎めている時間すら惜しくて、結局は新しく描き直すことになってしまった。非常に焦っていたので完成した絵は酷く残念なクオリティ。低評価を覚悟しての提出だ。この際受け取ってもらえるだけで文句はない。


「まだ大丈夫よ、皇。教授に少し待ってもらったから」
「助かった。ありがとう里緒」
「この貸しは高いわよ。今度映画付き合って」
「分かった分かった、何でもするから」


乱れた呼吸を整えつつ、珍しく機嫌の良い教授に絵を手渡す。中身があんまりにも酷い内容なので、一気に不機嫌になってしまう可能性だって否定出来ない。また上っ面な絵を描きやがって、と酷評されるだろうことを覚悟していると、意外な台詞が聞こえてきた。


「まあ、いいんじゃね?」


俺の肩越しに里緒が自分の絵を眺めて、お、凄いじゃん!と率直な意見を述べる。二人の予想外の言葉に固まっていると、お前にもこんな情熱的な感情があったんだな、と嫌味っぽく教授が笑った。


「時間が無かったのか?所々雑だけど、一応は合格点だな」
「えっと、ありがとうございます」
「で、タイトルは?」


前に描いた絵とは雰囲気も全く異なる描写。まさか同じタイトルを付けるわけにもいかず、数秒間考え混む。と、一つの単語が頭に浮かんだ。家から、というか木佐さんが俺の絵を躊躇いもなく破ってから此処に来るまでに、ずっと自分の心を占めていたたった一つの感情。その絵は、だからその気持ちの代弁でもあるわけで。


「タイトルは、」


大きく息を吸った後に答えた。


「“怒り”、です」





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