バイトを難なく終えて外に出ると、当然のように木佐さんがガードレールに座りながら俺を待っていた。慣れなのかは知らないが、彼が隣にいることを何ら不自然に思わない自分も不思議だった。このまま真っ直ぐ帰るの?と聞かれ、本を買って帰ると答える。働いてるんだったら、買ってから出てくればいいのに。馬鹿言わないでください。仕事中に職務放棄が出来るわけがないでしょう。そりゃそうだ。軽口を交わして、二人本屋に入っていく。木佐さんは猫なので入店が些か危ぶまれるものの、今は人間の姿なのでおそらく大丈夫だろう。


「ねー、雪名」
「何ですか?」
「本買ってもらっても良い?俺も何か読みたい。文庫本でいいから」
「字を読めるんですか?」
「前の飼い主に教えてもらった。…といっても、子供みたいに読み聞かせしてもらっただけだけど」
「見つけたら、レジに来てください。待ってますから」
「分かった。ありがとう」


というか本を読む猫の話など聞いたことがないぞと思う。けれど、百聞は一見に如かず。実際に目の前で本を所望する猫男もとい妖怪がいるのだから。二手に別れてその姿を見送って。猫って何の本を読むんだろう、と考える。やっぱり魚の本、なのだろうか。想像にくすりと笑って、自分の目的とする本の場所へと歩く。自分が働いている店だ。何処に置いてあるかなんて簡単に分かる。


何の問題もなく本を手にして少しの間待っていると、俺の姿に気づいた木佐さんは歩く速度を早めてこちらに辿り着いた。猫の特徴通り、足音はほとんど聞こえないまま。


「何にしたんです?」
「ん?これ。パラパラと見たら面白そうだったから」


それは他の文庫本に比べたら酷く薄っぺらいもので、おそらく作者のそれであろう顔がぼかされた表紙が印象的だった。手渡された本を受け取り、再度表紙の中にタイトルと著者の名前を確認する。


小説を執筆したのは、フランツ・カフカという人物。中央部に見つけた題目は、“変身”



猫は人の視線を感じての食事は、ストレスを感じるからしない、ということを何処かで聞いた覚えがある。けれど自分の手料理を美味しそうに食べている様子を隣で眺めていると、こういった部分は人間に近いのかなと思う。ご飯を食べきったらしい彼が、おかわり、と茶碗を差し出してくる。それくらい自分でやれよと考えつつ、結局言いなりになってしまうのだから始末に終えない。


木佐さんと暮らし始めて数日、ようやくその生活にお互い慣れてきたように思える。彼が猫の姿に戻るのはほとんど家の中だけだ。外に出る時は大体が人間の姿。時折外でも猫の姿に戻ることがあるが、それは餌を求める時だけなのだという。


「人間が唐突に“ご飯ちょーだい”と言っても、変人扱いされて逃げられるだけだろ。猫の場合だと食べ物を持っている人間は、大抵何かくれたりするから」
「………」
「何じろじろ見てんの?」
「いえ。ええと、鮭のおにぎりについての記憶はありますか?」
「あ、あれ美味かった。いつかお礼を言おうと思ってたんだよな〜」


そういうことかとドライヤーを持つ手をせっせと動かしながら納得する。あの夜以来、木佐さんは俺に髪を乾かしてもらうことをいたく気にいってしまったらしい。温風で彼の黒髪を撫で梳き、水分を払うようにタオルを押し付ける。じわ、と染み込むのを掌の中に感じながらも、彼との会話をそのまま続けた。


「木佐さんの、」
「え、何?音が五月蝿くて聞こえない」
「木佐さんの前の飼い主って、どんな人だったんですか?」
「何でそんなこと聞くの?」
「何となく」


まさか飼い主が木佐さんに食われていないかを確認する為、とは言えない。あまりしつこくすると返って疑われてしまう可能性もあるので、深く追求する気はないそぶりを見せる。


「………優しい人ではあったかな。少なくとも俺にとっては」
「へえ」
「仕事人間で、いつも忙しそうにしてたな」
「どんな仕事ですか?」
「雪名を芸術家とするなら、評論家…かな。絵とか本を読んではぶつぶつ言ってたから」
「だから、木佐さんは本が好きなんですね」
「まあね〜。でも、事故で死んじゃったけど」
「事故…」
「雪名もその場所にいただろ?あの、大雨の日に」


そう彼に指摘されて、はっと思い当たった。始めて木佐さんをこの家に招き入れた日の記憶。勢いよく走る車と、直後に聞こえたサイレンの音。混じりあった、子猫の声。


「そんな時に餌くれたお前を見つけて、匂いを辿って追っかけてきたってわけ」
「何か、すみません。変なことを聞いてしまって」
「別に良いよ。それより、もう終わった?」
「あ、はい」


髪が乾ききったのを見計らって、木佐さんはべったりと床に張り付く。どうも一休みのポーズらしいが、場所を考えずにこの体勢になるために踏みそうになったことが何度かあった。ほふく前進をして床に放り投げていた本を手にとり、文字を追いかけ読んではけらけらと笑う。購入してから大分経ち、もうすでに何度か読み終えているというのに。飽きもせずに繰り返し目を通し、本の中の世界に浸る。


「それ、そんなに面白いですか」
「うん。すげー笑える。雪名も後で読んでみればいいよ」


美術学校というものは、基本課題との戦いなのだ。次から次へと容赦なく提出を求められる。それでも描けるだけまだ幸せなのだと言い聞かせて、キャンバスに向かう。世界には自分の望む道を歩むことが出来ない人間だっている。それに比べれば、自分の身は何と恵まれていることか。


中途半端に描いていた絵の続きの準備をする。と、隣でぐでっと横になっていた木佐さんが体を起こした。絵を描くんなら俺邪魔だよね、と素直に言うあたり、もしかすると彼は眠いのかもしれない。それを証明するように、ふああ、と大きく口を開けて欠伸をする。


「先に寝ててください」
「…ん…分かった」


布団に潜り込もうとする彼の背中を流し見ながら、おやすみ、と小さく声をかける。その音に気づいた木佐さんは、足を止めくるりと振り返る。見えた顔は何か言いたげな表情だった。


視線を送った先は、俺ではなく描きかけの絵。


「なあ雪名」
「何」
「お前、今何描いてるの?」
「課題提出用の絵ですが」
「そうじゃなくて。その絵で、お前は何を伝えようとしてんの?」
「…何って」


木佐さんの指摘にぎくりと体が強張った。お前の絵は綺麗だけれど、それだけだよなという教授に言われた言葉を思い出して。


「小説ではなく絵なんですし、見ている人がそれぞれに心に受取ったものがあればそれで」「自分が何を描いているか理解してなきゃ、見た人間も何を描いたのか理解出来るわきゃないだろ。それだったら、まだ子供の絵の方がマシだな。見てるだけで、その感情がありありと分かるから。それに比べて雪名は、」
「分かってますよ、そんなことくらい」


言い放って、彼を拒絶するように背を向けた。はあ、と小さなため息が聞こえてきたが、それを無視していると背後からおやすみという声が届く。気配が無くなって、でも振り返らずに筆を手に取る。パレットで色を作り、べたりと筆先につけた。


自分は何を描きたいのか。何を描いているのか。


分かりませんよ、そんなこと。





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