忘れもしないあの日のこと。


大学から家へと帰る際に、自分の油絵具が一つ欠けていたことを思い出した。授業の際に使い切って買おう買おうと考えていたくせに、課題やらバイトやらに追われていてすっかり忘れてしまっていたのだ。頭の中で今月のスケジュールを並べ比べ、今日しか購入する暇がないことに気づきしかめ面を浮かべる。もう自分の部屋の目の前まで来ていたというのに渋々とUターン。小さな物忘れを思い出して良かったのか、それでも気づかない方が幸せだったか。


電車を乗り換えて駅から出たところで、ぽつりぽつりと雨が降り始めた。初めはこれくらいなら平気だろうと思えた天候も、途中洒落にならなくらいの大雨に変化。最近こういった不安定な天気が多いなと呟き、コンビニで買った傘をばさりと広げる。


辿り着いた画材屋で難なく目的の絵の具を手に取り、ついでにその他使用が限界に来ているものも買ってしまった。画材屋の中というのは美術学生からしてみれば宝の山で、長居すればするほど余計な物を購入してしまうから危険だ。しかもその道具が各々滅法高いので、酷い時には金欠状態に陥ってしまう。


後ろ髪をひかれつつも画材屋の魔物から逃げるようにそそくさと店を出た。雨は弱くなるどころか、先程よりもえらく豪快に降り注いでいる。天空からひっきりなしに落ちる矢の様な白い雨を呆然と眺め、遠くでごおおと地鳴りのような音を耳にする。その嵐にさらわれたであろう傘がこちらに向かってふっとんできた。一瞬ひやりとしたが、何とか避け切る。


大変な時間に来てしまったなあ。やっぱり戻るんじゃなかったと胸中で嘆き、でも自然の力というものは自分個人でどうにか出来るものでもないから、と言い聞かせてさっさと諦める。歩くのにも困難なこの豪雨では電車が止まっている可能性が非常に高く、最悪タクシーかもしくは近くの友人の家に泊めてもらうかしか方法がない。と偶然見つけた喫茶店にてコーヒーを啜りながら冷静に考える


大体一時間を経過した頃、ようやくその雨音が弱々しいものとなった。


あ、この状態なら帰れるかも、と意気揚々と会計を済ませ、腕に画材道具を抱える。空にはまだ鉛色の空がどっさり浮かんでいるが、その切れ端からは光が漏れている。けれどこの天気はきっと一時的なものにすぎない。また雨が降り出す前に走ってでも帰ってしまおう。心に決めていそいそと足を進める。


と同時に凄まじいエンジン音が街中に鳴り響いた。


雨に濡れた地面の上を、猛スピードの車が自分の横を通り過ぎていく。危ない、と眉間に皺を寄せながら振り向き、小さくなったその車を見やってため息をつく。なんて無謀な運転だと思いつつ背を向け歩くこと数分後、後方から雷でも落ちたかのような轟音が空気を伝った。驚きに体を固め何事かと思いつつ、もしかすると先程の車がガードレールにでも突っ込んでしまったのだろうと大体の検討はついた。現場を興味本位でわざわざ見に行くのも野次馬根性丸出しみたいで気が引けるし、なんせ早く家に帰って休んでしまいたいという欲求の方がその時には強かった。


なるべく意識しない様にと逆方向を歩き、素直に自宅を目指す。後に聞こえたのは、けたたましいサイレンの音。その悲鳴に何故だか交じりあっていた、みゃあ、という子猫のような鳴き声。


何とか無事に家に帰り、安堵した面持ちで風呂上がりの濡れた髪をガシガシと乾かしていた。ずぶ濡れになったわけではないが、雨のせいでそれなりに冷えてしまった為に一度湯に浸かったのだ。お陰さまで帰宅出来ないかもという不安によるストレスがかなり和らいだ。ふと、窓の外を見上げればまたさめざめと雨が降り始めている。故に自分の考えがいかに正しかったことかを確認し、その答え合わせに酷く満足していた。


簡単な夕食を作り、さほど面白くもないテレビを見ながらそれを食す。芸術雜誌を読んだり、バイト先の同僚に借りた漫画を捲ったりしていて、気づけば午後十時。うーん、今日はもうそろそろ寝るか。そう思いつつ飲み干したマグカップをキッチンに持っていく。流し台にそれをまさに置こうとした瞬間だった。


カリ。


奇妙な音が聞こえ始めたのは。


カリ?え?何今の音。雨の音でもないし、この部屋に住んでからはもう三年になるが、こんな音を聞いたのは初めてだった。水道管とかガス管の故障かな?とは思いつつも、それにしては音が小さすぎるような気もする。


カリ、カリ、カリ。


まるで何かを引っ掻いているような音だった。………人間?ではないよなあ、と一人結論づけながら音の発生源である玄関へと向かって、そろりそろりと足を進める。息を殺して扉に耳をくっつけながら外の様子を探る。カリ、とその音はいつまでも続き、なのにドアスコープを確かめても勿論誰もいやしない。


意を決して豪快に扉を開けてみる。視線を何度も交互に彷徨わせてみるも、そこに自分以外の人間など確認出来る訳も無かった。一つ嘆息してドアを締めようとして、足元に何かおかしな感触があることに気づいた。……というか、つい最近似たようなことがあった気が。


目線を足元に下ろせば、案の定そこには小さな子猫がみゃあみゃあと鳴きながらまとわりついていた。は?何で?どうして子猫がこんな所にいるの?何で俺に懐いてんの?というか、何処から来たんだこの猫。


その小さな体を抱きとめて、じたばたと足を動かす猫の姿をじっと観察をする。まさか、だよなあ。疑問に首を傾げたのはその猫が偶然か否か、あの時に触れた猫と同じ色をしていたから。


よくよく見てみれば、その子猫の体は小刻みに震えていた。雨に濡れたせいか、その全身が酷く湿っぽい。考える間もなく部屋の中へと引き入れて、急いで乾いたタオルで包んでやる。確か人間のドライヤーを使って体を乾かすことが出来るっけ、と思い当たり、直後ドライヤーを片手にその猫に向かって低めの温風を当てる。嫌がるかも、と一瞬心配になったが、どうやら苦手どころか猫は温かな風が気に入ったらしい。うっとりと目を細めながら自分の掌を受け止めている。その様子があんまりにも可愛らしくて、思わずくすりと笑ってしまった。


さて、これからどうしよう。


思わず部屋に引き入れてしまったが、果たしてこれで良かったのだろうかとしばし悩む。実の所、このアパートはペットを飼うことを禁止されている。ルールは守るためにあることは知っているが、かと言って凍えている小動物を放置しておくほど自分は薄情でもない。まあ、数日程度で明るみに出るようなものではないだろうけれど、ずっとこのままにしておくわけにもいかないだろう。野良猫ならまだしも、迷い猫かもしれない。それならばしかるべき飼い主を探すなり、それなりに手は打たなくてはならないから。


考えながら、ふああ、と大きく欠伸をする。


今日は何故だか予想外の展開が色々多かったような気がする。これといったトラブルは無かったにしろ、兎に角疲れた。今日はこのまま寝てしまおう。考えるべきことは全て明日に。大丈夫、後回しをしようとも遅すぎることなんてない。


ふわふわに乾いた毛並みを撫でながら、この子猫は何処に寝かせようと考える。とりあえずは余っていた籠の中にタオルを丸めて下に敷き、簡易ベットなるものを作ってみた。良い出来だと自画自賛した自分とは裏腹に、子猫は頑なに嫌がって籠の中に入ろうともしない。色々考えた結果、風邪をひかれたら困るという理由で一緒に寝ることにした。押し潰してしまわないよう、長い距離を保って。


「お前が人間だったら良いのにね」


そしたら、何の心配もなく暮らせるのに。飼ってあげられたかも知れないのに。


その日の記憶は、この言葉を最後に途切れた。


窓からすり抜けた朝陽が、真っ直ぐに自分の顔に向かってくる。寝ぼけ眼で朦朧としていると、そこにこんもりとした小さな黒い丘のようなものを見つけた。うつろうつろしながら過去の記憶を辿り、ああ、そういえば昨日は子猫と一緒に寝床についたんだっけと思い出す。いつの間にかその距離空間は縮んでいて、顔に猫の毛があたりくすぐったい。あたたかな温もりを確かめる様に、その子猫を抱きしめる。………腕を伸ばしたのは、すぐ近くに存在する動物に、のはずだった。なのにその体をぎゅっと掴んでから、はた、と気づく。あ、れ?昨日の子猫の体って、こんなに大きかったっけ?いや、大きいなんていうもんじゃない、この形は猫じゃなくて、まるで人間の……。


急速に覚醒し、がばりと布団を剥ぎ取りながら慌てて起き上がる。恐る恐る隣にいるだろう子猫の姿を探せば、案の定そこにいたのは一人の男。しかも理由は不明だが何と素っ裸で。口をぱくぱくとさせながら目を見張れば、寒さの為に目覚めたらしい男がぶるりと体を震わせ、ふぁあと欠伸をする。ぽりぽりと呑気に頭を掻きながら目を細め、おはよーと実に呑気に俺に語りかける。


「……おはよー、じゃない!お前、何処から入ってきた?!」
「やだなあ。入れてくれたのは雪名の方だろ」
「何で俺の名前…。ああ、違う!それよりも!お前一体何処のどいつだ?!」


尋ねた途端目前の黒髪の男は、その台詞を予想していたとでもいうようにさも可笑しそうににやりと笑って。


「お前、俺が人間だったら良い、とか言いやがっただろ?」


ぽん!という軽い衝撃音がしたか思えばすぐにもくもくと白い煙が立ち上がり、身元不明な男がいた場所にいつの間にか黒猫がいる。え?何の手品?と呆然とその光景を眺めていると、その子猫がまるで人間みたくけたけたと笑い始めた。もう一度白煙が頭上に昇り、猫の代わり存在したのは例の男。にわかに、自分が今目撃したことが信じられない。


男が猫に、猫が男にその身を変えた?


いやいやいや!そんなこと有り得ない!そんな魔法みたいなことを信じられる訳がないと呟きながら、けれど現実に起こった事実を否定出来ない。理解出来ない。見てはいけない物を見てしまった子供の様に、さあっと背筋が凍っていく感覚が分かる。


自分のことをようやく認めたかとでもいうように彼は踏ん反りかえり、そして人差し指を俺の両目の間に突きつけた。


「俺が人間だったら、俺のことを飼ってくれるんだろう?だからこれで問題解決だ。これからしばらく宜しくな、少年」


………はい?







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