殻なんてそう簡単に破れやしない。


自分が初めて本格的な絵を見たのは、確か小学生頃の記憶だ。近所の美術館に両親と赴き、そこで自分の人生をひっくり返すような運命の出会いを果たすことになる。作品と画家の名前すらもう覚えていないが、その絵の前に立った時の衝撃は凄まじいものだった。ぽかんとまるで魂でも取られたかのように見蕩れ、母親からどうしたのと声をかけられるまでその絵を眺めていたのだから。


自分達が見ている世界をこんなふうに見えている人間がいるのか。幼かった頃の自分は、一人一人見ているもの、見えるものが違うなんてことは知らなかったし、知ろうともしなかった。それを非常に歯がゆく悔しく思えたのも、思えばあの日が最初だった。


客観性という言葉がある。物事を理解するために主観を出来るだけ排除した目で見たもの、という意味であるがそれは事実不可能なことなんじゃないかなと俺は思っている。第三者の意見というものがあるが、それを発言する人間が一つの個体だったらそれは主観による考えだ。客観性なんていわば主観の集まりであって、だから皆が皆固定観念というものに囚われていればそこから抜けだせず、一つの林檎は一つの林檎にしか見えない。


けれどかの有名なピカソは世界を記号と捕らえ、シャガールは青の幻想と解釈した。


だから歴史に残るような画家達は全て自分たちと異なる目を持っていたのだろうと考えた。自分の目はその世界をそのままにしか映さないが、大人になれば見えないものが見えてくるようになるだろう。そんな期待を胸に抱いて、一生筆を取ることをその時心に決意した。世界とはこんなにも美しく素晴らしい色に満ち溢れているのなら、自分がそうした世界観を見出すのも難しいことではないはずだと。今思えば子供らしくそれでも随分楽観的な考えを自分はしていたものだと肩をすくめて笑ってしまう。


人は皆、特別な人間になりたいと切望している。何もそれが悪いというわけじゃないんだ。例えばスポーツで世界一になりたいと願う人間が、長年の努力を経てそれを叶えるという瞬間は自分も見てきたことだから。でも、それは良く考えれば分かることだろう。世界で一番という称号を得られるのは勿論この世でただ一人で。だとしたらその他の人間は?神様の掌から溢れた人は一体どうしてる?


特別になりたくてでも出来なくて、渋々と普通の人間を演じている。ただ、それだけだ。


若かりし頃は自分は特別な人間になれると信じていた。大人になればもっと色んなものが見ることが出来ると考えていた。でもそれはおそらく幻で、俺は何一つ特別な人間じゃなかった。当たり前だ。特別な人間とは自分が特別であるという意識がないのだから。そうなりたいと思う時点で、もう自分はただの普通の人間だと証明しているようなものだ。大人になって見えた世界というものは、余りにも大きすぎて。子供の頃に世界が大きく見えたと等しく、いかに自分がちっぽけな存在であるかを嫌という程教えてくれたのだから。


俺は俺が作り上げた世界の殻を破れない。


白き世界に筆を滑らし、塗りつぶすは絶望の黒。





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