ビジネスホテルに泊まるのも限界なので、住む部屋を探そうと思う。毎日図書館に入り浸りながら本を読む日々も楽しかったけれど、そろそろ現実を見なければ。新しい携帯電話も購入したし、次の就職先のことも視野にいれよう。ぼんやり考えながら外の夕日を眺める。


親からは小野寺出版に戻ってこいと言われているが、どうしようかな。もし編集者になればまたあの二人に会う可能性は確実に高くなる。それはちょっと嫌だな。いっそのこと全く見知らぬ職業に挑戦してみるのも良いかもしれない。とりあえずは部屋探しから始めよう。


部屋は未定だが、場所は既に決めてある。潜伏期間のほとんどを過ごしたこの地に。夕焼けを追うように帰路につく学生の中に混じり歩けば、昔に戻れたような気がして。人影の中、無意識に高野さんの姿を探している自分に気づいてふと笑う。諦めることは決めたけれど、まだあの人のことが好きだから。


夜になればあの丘に散歩することが最近の日課になっていた。美しい夜空に向かって語るは、昔々の物語。彼と出会った始まりから、終わりまで。丁寧に言葉を紡ぎ空に贈る。話した物語から、高野さんとの思い出を一つ一つ忘れていこう。


ばたり、と草むらの中に寝転ぶ。買ってきた缶コーヒーを掌に転がしながら暖を取る。


高野さん、今頃どうしてるかな。俺が急にいなくなって、仕事が大変になって怒っているかもしれない。それとも中途半端な仕事をしたことに呆れているかな?うん、でもそれでいい。どうせ彼が俺を思い出す最後の機会になるだろうから。どうかそのまま、俺のことなど忘れてください。


横澤さんにも悪いことをしちゃったな。高野さんが好きになった人だから、きっと素敵な人に違いないのに。嫉妬というフィルターを通して見ていたから、俺はそれを知らなかっただけなのだろうね。彼にだけでも謝罪の手紙を送ってみようかな、と考える。結局高野さんにも見られてしまうと思うけど、どうせ最初で最後だから。


最近良く昔の夢を見るんだ。でもその夢は現実のそれよりもかなり脚色が入っていて、だって横澤さんの姿が何故か大学生の自分達の傍にあったのだから。横澤さんと高野さんは恋人同士で、俺がそんな二人に出会う話。人前で堂々といちゃつく彼らに場所を考えろと怒りながら、呆れながらも三人で一緒に笑う夢。妬ましいなんて一切思わない。ただ二人が幸せになれば良いと友人らしく願っている。そう告げる自分に、小野寺が幸せにならなくちゃ俺達だって幸せになれないだろと二人は少し怒った顔で言うのだ。きょとんとして、照れて、そして笑顔でありがとうと自分は二人に笑って見せるのだ。嬉しくて幸せで少し泣きそうになりながらも。


本当に都合の良い夢だなあと思った。どうしてこうならなかったのかな。本当は横澤さんが高野さんの前に現れたとき、俺は高野さんを引き止めるのではなく背中を押してやるべきだったのに。そしたら、あの夢がいつかは現実になったのかもしれないのにね。


目尻にじわ、と涙が浮かぶ。まずい、また泣いてしまうところだった。


いい加減立ち直ろうと自分でも思うのだけれど、中々上手くいかないね。


一段と大きく風が舞きく風が舞う。ざわざわと草の葉が揺れる音が耳に響いた。何とはなしに目を閉じて、聴覚を研ぎ澄ます。カサリカサリと何処からか人の歩く足音が聞こえた。こんな時間に誰だ?しばし考え込む。今の今まで自分はここで他の人間に出会ったことなどないのに。時間が遅いということもあるが、この場所はつまりは秘密基地のようなもので、皆が皆訪れることが出来るというものでもないから。


草むらに隠れたまま、息を呑む。もしかすると大学の警備員かもしれない。一応は敷地内にこの場所はあるわけで。夜な夜なやってくる不審者の噂を聞き警戒を高めているのかも、と割と適当な妄想に浸る。人の気配を感じるのは確か。でも見つかったら見つかったで事情を説明すれば、多少の時間は取られるものの事実無根の拘留を強いられるわけでもない。自分に安心させるように言い聞かせて、けれどとりあえずはじっと動かぬようしばらくの間耐える。遠ざかる足音に、固まっていた体が弛緩した。


ほっと安堵の息をつきながら、また夜空を見上げた。小さな笑い声がくぐもる。ここ最近毎日同じような出来事の繰り返しだったから、こういったアクシデントがちょっと楽しい。浅い呼吸を繰り返して再び目を瞑る。冷たい夜風が気持良い。


風の音を感じて瞼を上げて、唐突に訪れた一瞬の間。


………思わず目を見張った。


は?何?嘘でしょ?え?何で?どうしてここに。


瞬きをすることも忘れて呆然と目の前を見つめる。心臓がまるで全力疾走したかのように乱れ打ち、鼓動が止まらない。ぱかりと開いた唇をきゅっと閉じ、威嚇するように前方を睨む。それを眺めて何を思ったのか―自分の視界を覆っていたその人物―高野さんはふと頬を緩めて笑った。張り裂けそうな心臓を抱きながら、掠れた声で問いかける。


「………何で高野さんがここにいるんですか?」
「小野寺がここにいそうだったから」


未だばくばくと心拍はフルスロットルを続けたまま。投げた声が震えていなかっただけまだ良かった。冷静さを装って、草むらからむくりと起き上がる。誘われるように高野さんも一緒になって俺の隣に腰を下ろした。星空は相変わらずに美しいままで、しばらく自分達も押し黙ったまま空を見上げていた。否、お互いに何を話していいのか分からなかっただけかもしれないけれど。


というか、こうもあっさりと見つかってしまうと逃げた意味が無いよなと思う。今生の別れになる覚悟で離れたつもりなのに、長い間一緒にいた成果か自分の行動など彼にとってお見通しなのだろう。そういえば大学時代に俺は彼の前で、この場所が凄く好き、とか言ってたもんな。俺が行きそうな場所なんて限られているし、だから彼がここに来た理由など明白だった。考えれば先程まで襲っていた動揺も少し落ち着く。もしかしてこういった事態になることを自分は心の何処かで予想していたのかもしれない。


「突然いなくなって驚いた。電話しても繋がらないし、部屋はもぬけの殻で。挙句の果てには退職届が郵送で届きやがった。何考えてんの、お前」
「それは…、すみません」
「別に謝罪して欲しいんじゃなくて、理由が聞きてーの」
「………」

そもそもの原因は高野さんにあるのになあ、と一人苦笑いする。いや、そんな人に惚れてしまった自分も悪いのか、納得して口を開く。その彼の鈍感っぷりもどうせ今日で見納めだろうし。


そこまで考えて思い当たる。ああ、これはきっと輝く星が叶えてくれた自分の願いなのだと。あんな後味の悪い別れを実は今更ながらに後悔していて、もうちょっとマシには出来なかったのかなあといつもここで考えていたから。そうか、ここで俺は高野さんにちゃんとお別れを言えるわけか。まだ胸がすこしひりひりするけれど、こんなチャンスは二度とないだろうし。だから、彼に告げよう。自分の想いの全てを。そしてきちんと終わらせてしまおう。十年にも及んだ無意味なままの初恋を。


「多分、知っていると思いますけど。俺、高野さんが好きなんです。だから、自分のことを好きでもない人と一緒にいるのが、もう辛いんです。横澤さんと一緒にいるところを見るのが、嫌なんです」


報われない恋心を抱いたまま、貴方の傍にいることが苦しいのです。


だから、高野さんから離れました。


改めて高野さんの前で宣言すると、それがじわじわと自分の体の中に侵食していく。口にしているうちに、どんどん悲しくなって想いが込み上げたけれど、でも泣かない。だって俺が泣いてしまえば、高野さんが泣けなくなってしまうから。彼を支えようと初めて思った時に掲げた誓いは、友情を終えるその時まで。


唇を噛み締めて堪え、高野さんを見る。はあ、と困ったように息をついて、その目を細める。うん、やっぱり迷惑だったよね。ぎゅっと手を握り締めながら俯いた。やっぱりか。やっぱり駄目だったか。最初から分かっていたことだけど、きついなあ。ずっとずっと好きだったけど、何一つ報われなかったか。俺、精一杯頑張ったつもりなんだけどな。………悔しいな。俺の想いは、本当に何一つ高野さんに届かなかったんだね。


気づけば、堪えていたはずの涙がぼろぼろと溢れていた。少し焦ったけれど、一度流れ出てしまったものは仕方ない。それを留める方法さえ分からないから、ただ静かに泣き続けるしかない。最後の砦の誓いすら守れないのか俺は。情けなくて、悔しくて。閉じた瞼から湧き出る雫。それを手の甲で拭いながら、それでも無理矢理に笑ってみせる。高野さんの表情は涙で遮られ見えないけれど、でも。


最後の別れくらいはせめて、お互いに笑顔で。貴方に、さよならを。


刹那、視界が黒一面に染まる。夜闇の色かと思えば異なり、そこが高野さんの腕の中だと気づいた。冷え切った体に回された手が温かい。流れ落ちた水滴が黒いコートの中に沈んでいく。動揺と混乱の中、彼に抱かれたまま唖然と立ちすくんでいた。


どういうことだろう。自分達は一体何をしているんだろう。これから別れようとしているのに、何故二人でこうして抱き合っているのだろう。どうしてこの人の腕の中は、こんなにも優しさで満ち溢れているんだろう。考えたら、また胸に熱いものがこみあげてくる。


高野さんの、この優しさがいけないのだ。その片鱗を見せられるだけで、もしかしたら自分は許されるのではないかと錯覚してしまうから。このまま一緒にいてもいいんじゃないかと勘違いしてしまうから。ああ、本当に酷い人。諦めなくてはならないのに、これ以上好きにさせてどうするつもりなのだ。


決心して、彼の体を突き離そうとする。そうして高野さんの腕に手が触れた瞬間に、声が静かに振り落ちた。


「もう遅いか?」

その言葉に、我が耳を疑う。


急速に意識が遠のいて、ぐらりと眩暈がした。全身の血の気が引いて、思わず力づくで彼の体を引き剥がす。冷たい空気が肺に押し入った。


「何ですか、それ」


告げる声が無意識に震える。落ち着けと自身の体に言い聞かせるも、持ち主の意思に反してただおののくばかりだ。パニックになりつつある頭を何とか落ち着けようと息を吐く。


だって、そんなの。それでは、まるで。


「高野さんには横澤さんがいるじゃないですか」


自分にも言い聞かせる言葉だった。静かな草原を切り裂いて風が再び走る。夜空は不穏な空気とは裏腹に、相変わらずに美しく。髪が流れ終わる頃、高野さんの息遣いが耳に届いて。


「別れた」
「はあ!?な、なんでですか?」
「他に好きな人がいたから」
「…横澤さんに、ですか?」
「今の流れで何処をどーしたら横澤の話になるわけ?」
「……だって、そんなの…、嘘」
「うん、俺も最初は嘘だろうって思ったよ。けどな、どーしても駄目なの。横澤と一緒に過ごしてみても、思い出すのはいつもお前のこと。いつの間にか横澤が隣にいるのに、いなくなった小野寺のことばっかり考えてんの。そしたら、それ見透かされて横澤に別れようって言われた。お前は、小野寺のことが好きなんだろって」


………嘘だ。そんな言葉信じない。そんなに優しい顔で話しても、信じてやらない。そうやって俺を持ち上げて、またいつかは奈落の底に叩き落とす気なんでしょう?それとも一生、高野さんに縛られて生きろというの?愛する人に語るような声音を与えてくれても、絶対に俺は高野さんを信じない。だって、高野さんは俺のことを好きにならないって。


「一生好きにならないって言ってたじゃないですか」
「その時点で好きになってたら、矛盾はしないだろ」
「ふざけないでください!」


高野さん台詞を遮るように吠えた。突然大声を出して驚いたのか、彼は目を見張って俺を見つめるばかりだ。驚きと共に忘れていた涙が、再びぼろぼろと溢れた。嫌だ。もう、たくさんだ。


「高野さんに何が分かるんですか!ずっとずっと好きででも伝えられなくて、一緒にいた十年間まで全否定されて。そんな俺の気持ちを高野さんが分かるとでもいうんですか?俺がどんな思いで横澤さんと一緒にいる高野さんを見ていたのかも知らないくせに。俺がどんな気持ちで高野さんから離れたかも知らないくせに。高野さんに、俺の何が分かると言うんですか?」
「小野寺」
「分かるというなら教えてください。どうして俺は、こんなに酷いことをされていたのに」



それでもまだ、高野さんのことが好きなんですか?



もう辛い想いをするのは嫌なのに、それでもこの人が愛しい。


空に届くようにうわーんと大声で泣いて、そんな俺を高野さんがぎゅっと抱きしめた。優しげに俺の髪を一糸一糸撫でながら、ごめん、小野寺、ごめんなと小さな謝罪を繰り返す。今度こそ背中に手を回して、ぎゅっと高野さんの服を握り締めた。ずっと、もうずっとだ。ずっと前からこうしたかった。


「俺は、小野寺が好きなんだ」


空に響くは、彼の告白。


今更何?今までずっと俺のことを傷つけてきたくせに、苦しめていたくせに。素知らぬふりをして、俺の手を振り払ってきたくせに。それがどんなに辛かったのかもしらないくせに。そんなの今更、今更だ。いくら慰めるように優しく抱きしめてくれても、俺は高野さんなんて。高野さんなんて、






大好き。







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