年末の仕事は残り一日だけで、だからこそ最後の最後まで自分の役目は果たした。高野さんとは顔を合わせたものの、業務以外のことは一言も話さず仕舞いだ。持ち帰った仕事は年末年始を潰してまでやり遂げた。だから俺のやることはこれで全てお仕舞い。


大掃除がわりに部屋の全ての私物をダンボール箱に詰める。長居をするつもりはないので、清掃は後で業者に頼んでおこう。大きい家具や大事な書物は全て実家に送っておいた。今俺が必要としているものは全てこの一つのトランクの中に詰め込まれている。


終えた仕事の書類とともに、封筒を一つ。中身は退職届。


何処へ行くかも決めていない。当てのない旅みたいなものだ。今日投函した郵便物は仕事始めの明日にも届くことだろう。自分がいなくなったら他の編集者が大変だろうとは思ったけれど、でも、後ろは振り向かない。今は高野さんから逃げられればそれで良かった。


夕方ごろに家を飛び出す。さようなら我が家。今までありがとう。挨拶は一礼。


ある程度のお金を引き落とし、とりあえず電車に乗り込む。紅い夕日の影を背負いながら、携帯電話の電源を切った。連絡されたら困るので明日にでも解約してしまおう。心に決めて、ぼうっと窓の外の移り変わる景色を眺める。


電車をいくつか乗り継ぎ、辿り着いたのは懐かしい場所。揺れ動く景色の中、唐突に行きたくなったのは高野さんと始めて出会ったあの大学。裏門をくぐる頃にはとっぷりと陽が暮れていた。冷たい空気の中、音もなく一人静かに歩く。


正月休みのせいか、それとも時間が時間だったからか。学生の姿は一人も見られない。研究熱心な教授だけが一心不乱に部屋にこもっているのか、建物の中からぽつぽつと光が仄かに見えた。


凍てつくような寒さに身を竦め、けれど動く足は止まらない。大学の建物を少し通り抜ければ、そこには小さな丘がある。石の地面は立ち消えて、変わりに広がる草の海。しゃり、しゃりと音を立てて踏み出せば、遠くから冷たい風が流れた。一斉に草の葉がしなる光景は、まるで水面に揺蕩う波の様。


掬われる髪を指先で掻きあげながら、ようやく足を止めた。生い茂る緑の草原の中、汚れることも気にせずにそのまま寝転ぶ。見上げた視線の先には、美しい星空が。昔よく暇さえあれば高野さんとこの場所に訪れたものだ。思い出しながら一つ微笑みをこぼす。


あの頃は楽しかったな。毎日毎日飽きることもなく高野さんの傍にいて、つまらないことを話してくだらないことに馬鹿みたいに笑って。そんな日々がどうしようもなく幸せだった。昔は良かったなんて過去を美化しているわけでもなく、心からそう思えたから。でも、今は。もうすでに何もかも失ってしまったけれど。


宝石箱をひっくり返したようにあちらこちらに煌く星は、空の中に瞬き続ける。その美しさに心を奪われながら、仕様のないことを考える。冷たい空気がふわりと頬を掠めていった。


俺、何処で何を間違っちゃったんだろう。本当は高野さんがずっと笑っていてくれたら嬉しいなって思っただけなのに。高野さんが微笑んでくれて、俺もその隣で笑っていたかった、それだけなのに。純粋な願いはいつの間にか醜い嫉妬に姿を変え、彼らに酷いことをしてしまった。なんでかな?俺、高野さんを守りたかっただけなのに、俺の行動はいつだって彼を傷つけてばかりいる。


本当は親友にあんなことを口にしたくなかったよね。でも、高野さんにそんな辛いことを言わせたのは俺だから。もう高野さんは二度と親愛の眼差しで俺に笑顔を向けてくれたりはしないよね。うん、分かってる。だからごめんね。


鼻の奥がつん、と痛む。


俺の十年って一体なんだったんだろう。


あの頃は幸せだったな。二人で当たり前のようにいることが出来て。俺、いつからこんなに欲張りになってしまったんだろう。手にした幸福で満足すればいいものを、もっともっとと際限なく傲慢に求めて。結局全てがこの掌からすり抜けていってしまった。大切なもの、全て。馬鹿らしくておかしくて、あんまりにも自分が滑稽すぎて思わず涙が出そうになる。堪えるようにその視界を腕で覆った。


瞼が熱い。胸に込み上げてきた感情がそのまま瞳に吸い込まれていく。頑なに閉じたはずの唇がふるふると震える。泣くな、と自分に言い聞かせた。涙を零してしまえば全てが終わりになってしまいそうで、それが怖くて。目元に力を入れながらゆっくりと瞳を開く。今にも零れ落ちてしまいそうな涙を堪えるように、零れないようにともう一度空を見上げた。


本当に偶然に一つの小さな星が、目の前をすう、と流れていった。僅かな命が消えていく瞬間に、もう我慢することが出来なかった。


地を踏みしめて立ち上がる。流れる風を切り裂いて、揺れる草を踏みしめて。その星が消える前にひたすらに追いかけて。ちっぽけな自分など吸い込まれてしまいそうな夜空に向かって祈るように、叫んだ。


どうか高野さんを救ってあげてください。


彼は本当に本当に優しい人なんです。人を信じられなくなった俺が、もう一度信じてみようと思えた人だったんです。いつもいつも傍にいて、俺を守ってくれた人なんです。辛い時も苦しい時も、自分だって泣いているくせに他人の心配ばかりしているような馬鹿みたいに心が美しい人なんです。そんな高野さんを、俺は心から愛していたんです。


そんな彼がもう二度と涙を零すことのないよう。


どうか高野さんを幸せにしてあげてください。


本当は知っていたんです。人は一人では生きてゆけない。その言葉が真実であることを。俺は人を信じられなくなったわけではなく、信じることで裏切られること、傷つけられることが怖かっただけ。信用出来ないという言葉が、相手を苦しめしてしまうのではないかと恐れただけ。俺は強い心の持ち主じゃなくて、本当は誰よりも弱い人間だった。だからいつも誰かが自分にその手を差し出してくれることを望んでいて、それを叶えてくれたのは高野さんだった。


弱い俺は強い高野さんを必要とした。だから高野さんが俺を必要としてくれるように、彼を弱い人間に仕立てあげて縋ろうとした。俺は高野さんを支えたいのではなく、支えて貰いたかっただけ。二人の関係は最初からいびつに歪んでいて、対等なんかじゃなかった。


熱い雫が、頬を伝って顔を濡らしていく。それでも一度堰を切ったように零れ落ちてしまった涙を、想いをもう自分ではくい止めることが出来なかった。地面にぺたりと座り込み、闇の中にとうに消えてしまった流れ星の軌跡を辿るように見上げて。震える体を両腕で抱き締めながら声を上げて、俺は泣いた。

美しい満天の星空の下。星々はたくさんの仲間に囲まれているのに、俺の隣には誰もいない。俺を愛してくれる人が存在しない。高野さんにはいるのに。十年前から彼が愛した人も、彼を愛した人も。心から愛する人間がいることは、たとえどんなに離れていたってどんなに時間の隔たりがあったとしても、それは一人とは言わない。


本当に一人ぼっちだったのは、俺の方だから。


ごめん、ごめんね、高野さん。苦しめてごめんなさい。傷つけてごめんなさい。本当はもっともっと高野さんの側にいたかった。高野さんが俺のことを親友だと言ってくれて、笑いかけてくれて本当に本当に嬉しかったのに。


もう俺には祈ることしか出来ないけれど、どうかどうか高野さんが大好きな人と一緒に笑っていられますように。彼を悲しませるものが本当に愛する人の手で守られますように。その幸福が、永遠に続きますように。たとえその隣に俺がいなくても。


伝う涙を振り払いもせずに、ぼたぼたと毀れたなみだが葉の上に落ちる。星明りに照らされながら、今はただ彼のために祈る。それが親友として最後に俺が出来ることだから。


好きだった。大切だった。愛していた。持つことさえ許されない感情で、けれど好きになってもらいたかった。彼の大切な人になりたかった。愛されたかった…けれど、全部叶わなかった。彼がそれを望まないから。


本当は自分の手で高野さんを幸せにしてあげたかった。


でも


俺では駄目でした。



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