一瞬の感情の気まぐれ。実行に移すには淡すぎる感情。だから勿論講義が終わりその人物が眠りから目覚めた時に自分から話しかけることは無かった。自らの意思を貫くには、誠意ある行動を。人を信用出来ぬなら、君子危うきに近寄らず。イレギュラーな出来事も過ぎ去ってしまえば昔事。幾重の日々に塗り重ねられ、消え去ってしまうはずの記憶。けれどその鮮明な光景は、もう一度彼に接した時に蘇り。


自販機で購入した缶コーヒーを片手に講堂内をぶらぶらと歩いている時だった。今日受講している全ての授業が終わり、これからどうしようかと悩みなからの徘徊。図書館に立ち寄って読書をするもいいし、それよりも本屋にふらっと入ってみるのもいい。自宅に直行すればネットで予約した本が届いているかもしれないし。さて、どれを選ぼう。うつろうつろ考えながら、辿りついた場所はエントランスの掲示板。大学で電子掲示板なるものが採用されて久しいが、どちらかと言えば旧式の壁に貼り付ける物の方が俺は好きだった。テレビのような大きな画面は、自分の求む情報を見つけるまでには順番待ちがほぼ強制。画鋲で貼り付けるだけの掲示板は探す手間こそかかるが、受身でただ我慢して待つよりは十分マシだった。視線を泳がし該当しそうな情報源を検索する。意識が寄せられた二枚の書類。

見つけた一つは講義休講のお知らせ。もう一つはこの間のテストの結果。

講義における主な評価方法といえばレポート提出またはテストが主流だが、後者を選ぶ教授にはこうしてその詳細を掲示することが格段に多い。用紙の上位には成績優秀者を、下位には単位の取得が危ぶまれる者を。掲げられた紙一枚はまさに天国と地獄が微妙な均衡を保って成立している。


個人情報がある故に記載されているのは専ら振り分けられた学籍番号だ。諳んじた我が番号を上方に見つけ、良かったいつも通りだとほっと胸を撫で下ろす。そんな安堵も束の間、自分の番号と等しく見慣れた数字を紙の中に発見し、思わず顔をしかめた。う、またコイツと一緒だ。


テストの上位者というものは、おおよそ他の講義でも優秀な成績を飾っているものなのだろう。案に自分がそうだ。苦手な科目が僅かにあるにしろ、それは最悪でも及第点だ。こうやって優秀者として名を連ねることの方が多い。紙の中に必死で自分の番号を探す故に気づく、同じく勉学の得意な者。目にする回数が自分より断然多く、おそらく俺以上の頭脳明晰天才人間。顔を見たこともないその人物に、心の中でぶつぶつと悪態をつく。


別に自分の成績が悪いというわけではなく、むしろ上位であるならばわざわざ気にすることでもないだろう。しかしこれといった理由もなくイライラするのは、自分が一番であるのなら誰にも頼る必要がないという誇示が出来ないからかもしれない。想像の中で、こいつはきっと勉強ばかりしてきた面白みの無い人間だなという言い訳を作り、自分自身を慰める。それすらも自己の象徴だと分かりきったうえで。


気を取り直して壁から離れる。後ずさること一歩二歩三歩。ぼすりと自分の体が誰かのそれに埋めこまれた。しまった、紙面に集中しすぎて後ろをよく見ていなかった。完全なる自分の過失に、慌てて離れ振り返る。そうして背後にいる人物の顔をようやく確認出来た時、あ、と思わず声が出そうになった。見上げた視線の先には先日見かけた居眠り男。特に反応もなく無機質な面持ちでじいっと俺を見つめている。


自分を優に超える身長とがっしりとした肉付きのいい体格。体に対比するかの様な端正な顔立ちと見開かれた瞳。あの時には見えなかった漆黒の眼は何処までも深く、何もかもを見透かしてしまうような純粋な色だった。そら恐ろしいくらいの美しい人。


謝罪も忘れてぽかんと見惚れていると、今の出来事なんてまるで無かったかのように、さも親しい友人に語るみたいに彼は俺に声をかける。


「あのさー、ちょっと聞いていい?」
「…はっ、はい!」
「お前、この講義出てんの?」
「…えっ?」


人差し指で円を作り、彼はコンコンと壁を叩く。指し示すは、先程見ていた掲示物。訳も分からぬままこくこくと兎に角頷く。頭が状況に追いつかずに大混乱中だ。何普通に返事をしているんだ俺は。それよりもまずはぶつかったことに対して謝罪するのが先だろ?というかこの人もこの人だ。何で何事も無かったように俺に話かけてくるんだ?


そもそもこいつは、一体何処のどいつだ?


「じゃー、今日の午前中のも出席した?」
「…ええ、まあ…」
「丁度良い。少し付き合え」
「は?」


最後の言葉を聞き終えた瞬間、がしりと掴まれた腕。状況を把握出来ないまま、ずるずると体を一方的に引きずられる。ちょ、ちょっと!と慌てて声を掛けてみるものの、五月蝿いと一喝され押し黙り。ろくな抵抗も出来ずにそのまま強制連行される。


何?何なの?一体何が起きてんの?


パニックを起こしかける頭を抱えて思考してみるものの、確認出来たのは掲示板の傍で知らない人に誘拐されたという事実のみ。は?つかここ大学だから。人さらいとか無理だから。いやいやいやいや。違う、そうじゃなくて。大体何でこんなことになってんの?

「お前、名前何て言うの?」
「……お…小野寺律です」
「俺は、高野。高野政宗。これからよろしくな」

どさくさに紛れてとうとう名前まで訪ねてくる奴から意識を取り戻し逃げようとして、でも出来なかった。

その理由は彼が自身の名を告げ終えた時に、俺の前で初めて笑って見せたから。





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