桜が見たいと駄々をこねたのは吉野の方で、スケジュールを照らし合わせて仕事が終わったら行ってもいいぞと許可を出したのは俺だ。目の前にぶら下げられた人参はいつもより吉野の尻を叩いたようで、珍しく締切ぎりぎりでなんとか原稿を完成させた。それで?何処の名所の桜を見たいんだ?と尋ねれば、え?近所の公園で良いんだよ?と不思議そうな顔で彼は答える。そんなに近場なら、何も締切を守るという条件を出さなくても良かったのに、とは思ったが、本人もすっきりとした気分で出かけることが出来ると喜んでいるし、こちらとしても仕事に縛られることがないのは正直有難い。


行くのなら、夜桜。ライトアップされた桜が見たい。


おそらく人酔いをするからその時間帯を避けての発言だろうが、太陽の光と人工の光では見える範囲が大幅に狭まる。進言しても、俺は朝早く起きれないからいーんだよ、と返され、締切を守るという約束を果たしたのだから文句を言うなと逆に怒られる。


まあ、お前がそれで良いのなら俺だってそれでも良いけど。


近くのスーパーで缶ビールとつまみだけ買って、先に行って待っているという吉野の元へと急ぐ。平日の夜の方が人は少ないよな、と主張するのはいいが、生憎俺は仕事だ。出来れば一緒に出かけたいと言ってみたものの、子供じゃあるまいしいーよ、と一蹴され。


俺にとっては十分子供見えるのだがな。吉野がたまに俺を母親扱いすることがあるが、原因は吉野だけではなく、結局甘やかしてあれやこれやと世話をしてしまう自分にもあるのかもしれない。


待ち合わせに遅刻すると既に連絡をしておいた。遅れると言ってもものの数分で、其れくらい別に伝えなくても待っているのに、と呑気な声が電話越しに聞こえてくることにほっとする。


自分自身が原因となって吉野の時間を無駄にしてしまうことに、酷く罪悪感を覚えてしまうのは性格かそれとも職業柄か。多分どちらも正解で、きっとどちらも根本的には吉野のせいだろう。


公園にたどり着けば、吉野は街灯の真下にあるベンチに座りこみ視線を下に落としていた。何事かと思いじっくりと見れば、何のことはない。ただ持っていた少女漫画の単行本を黙読していただけだった。吉野、と声をかけると、睫を震わせて、あ、トリ、と唇を動かす。


「悪い、遅くなって」
「別にいーよ。気にしてないから。飲み物とか買ってきてくれたんだろ?」
「ああ」
「じゃー遅まきながら、夜のお花見といきましょう」


既に目当ての場所を見つけていたのか、大きな桜の木の下には既にレジャーシートが敷かれていた。大人四、五人位軽く座れそうな空間に腰を下ろす。缶ビールを吉野に手渡して、ぷしゅりと音を立て開けた。


大きな大きな桜の木だった。遠方の光源から照らされる光は僅かで、どうせならもっと明るい所を選べば良かったのにと思ったのは一時で。夜の青と桜の薄紅色が混じりあい美しい紫が暗闇の中浮かび、それが更に月の光に冴える。既に夜中と言える時間であるためか人の気配一つなく、ただお互いの呼吸音が聞こえる中、自らの体を包みこもうとする幻想花を眺めていた。


強く風が吹けば、それに流されるように花弁が散り散りに流れていく。はらりはらりと、いくつもの花びらが自分のそして吉野の体に引き込まれるように、落ちた。


「こうやって眺められるのが一瞬だなんて、勿体無いよなー」
「何十年生きていても、花を咲かせる時間は限られているからな」
「…どうせなら、散らない花だったら良かったのに」

にかりと、吉野が笑った。


昔のことを思い出す。そういえばいつだったか、こうやって吉野と一緒に桜を見に行った記憶がある。直後吉野が川に落ちた為、それが印象的になっていたけれど。若き頃に抱えていた感情すら鮮明に蘇り、口の中が知れずと苦くなった。


あの時から十数年過ぎ、ようやく自分の吉野の関係に変化が起こったとは言え、それはまだ微妙で確かな礎もなく下手をすればすぐに壊れてしまいそうなほど脆いものだ。昔は自分の恋心を桜の花に例えていたが、そうやって何でもかんでも絶望するのは如何なものかと思う。けれど今の自分だってそれほど昔と変わっていないことに気づいて、思わず自嘲した。


これ以上何を望むというのだ。自分の感情を言葉よりも先に行為で暴露し、にも関わらず吉野は離れていこうとする自分を引き止めてくれた。最初は流されるままだった吉野も、月日を経るうちに自身の想いを自覚し、彼の未来の中へも自分の存在を許してくれたというのに。


これ以上ないくらい幸せなのに、どうしようもない程不安だ。


幸せだからこそいつかは一気に転がり落ちてしまうのではないかと、いつもいつも恐れている。期待すれば期待するほど、裏切られた時の苦痛は比例して大きくなる。もし吉野が俺から離れてしまったら、と不安に怯えて。それこそマリッジブルーみたいに、幸せが怖いう馬鹿馬鹿しい妄想だと自覚している。でも、それでも。


恋が実って、それが花を開かせたのなら、いつかは散ってしまうのではないかと。考える故に、至る。


どうせ散るくらいなら、咲かなければ良かったのに。


心の中で呟いたことが、どうやら口から漏れていたらしい。きょとん、と吉野が振り向きながらどうしたの?と訪ねてくる。何でもない、と小さく答えると、不審そうな表情を吉野は浮かべて、でも何も告げようとしない俺にため息をつきながらまた桜を見上げる。


「桜だって一生懸命咲いてるんだから、そういうことは言うなよ」
「………すまん…」
「トリが何考えてるのか知らねーけどさ、」
「吉野?」


「咲いちゃいけない花は無いんだよ」


それがどんなに儚くても。散る運命にあるとしても。


じわり、と胸の奥が熱くなる。吉野はいつだって、こうやって。自覚も無しに落ち込んでいる自分をいとも簡単に救いあげてくれるから。ああ、好きだと思う。何度も何度も叶わないと諦めて、それなのにそれ以上にお前は俺の心を揺り動かすから。花開くことなど無かったはずの恋。けれど未来の事実は過去の事実を覆す。開花を迎えてしまえばそれは、無かったはずの恋ではなく、咲くために許された恋となる。


咲いた花はいつかは散る。それは決められ運命だけれど、人の心から失われることは永遠に無い。花開く世界に酔い、溢れていく現実に嘆き、それでももう一度と未来を願う。種も想いも一つじゃないから。たとえ散ったとしても、二度と咲けないわけじゃない。


吉野への感情は、生まれては消え、そしてまた幾度なく生まれるのだから。


「お前と一緒に見れて良かった」「何だよ突然」
「少し言ってみたかっただけだよ」
「………俺も、ちょっとは嬉しいとか思ってるけど…」
「来年も一緒に見れるといいな」
「…あのさートリ、もしかして忘れてる?」
「何を?」


「俺の老後の夢は平屋を買って、漫画ばっかりのでっかい書庫を作って、縁側でごろごろしながら茶を啜りながら本を読むこと。冬はコタツに入って雪見しながらミカン食って漫画読んで、秋は紅葉狩りしながら漫画読んで、夏は縁側に寝っころがりながら漫画読んで、」


ふわりと、また桜の花々が二人を包んで。


「春は桜満開の下で漫画を読むこと。その隣に、トリに居てほしい」


語尾が以前聞いていたものと異なっていたのは、吉野の感情の変化なのか。真意は分からないけれど、思わず吉野を抱き寄せて言った。ずっとお前が好きだよ、と。分かってるよ、そんなことくらい。届いた声が、酷く嬉しかった。


捨てなくて良かった。散ることがなくて良かった。温め続けた冷たい心が、今、雪解けのようになって胸の中に溢れる。吉野の髪に絡む花びらを一枚取って、ようやく求めていたものに辿り着いたのだと自覚する。


気が遠くなるほど長かった冬の時代。春は今訪れた。



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