世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし


世の中に一切、桜というものがなかったら、春をのどかな気持ちで過ごせるだろうに


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長年の付き合いだ。それくらいは分かる。


トリという人物は洞察力が鋭い、というわけではないが、対自分に対しては十分な威力を発する奴だ。少し風邪気味かなーとぼんやり思い始めた頃には、家に風邪薬だの氷枕が用意されている、なんてことは序の口で。少し嫌なことがあって、でも顔に出すのは大人げないと平静さを装っていても。他の誰かが気づかなくても、トリだけはそれを見抜く。見抜いて、お前は落ちると長いんだから、さっさと話せ。解決出来そうな悩みは手を貸してやるから、と。渋々とした表情に対し、その掌はいつだって優しかったことをよく覚えている。


俺に手を差し伸べる理由は、数十年に及ぶ幼馴染だから。その言葉だけで片付けていたのは、一年と少し前で。今もその事実が大半の原因であることは間違いないのだろうけれど。恋人という関係になった故に生まれたもう一つの理由が、トリと一緒に無理矢理外出するという状況を誘発した。


トリは自分の前では一切弱音を吐かない。おそらく彼の友人や職場の人間はトリから愚痴一つ聞いたことは無いのだろう。自分への文句は別として。負の感情を余り口にしないトリは、何も言わずにそれを飲み込む。飲み込んで口に出来なかった言葉は石の様に重くなり、それがトリを包む鎧となるのだ。長い時間をかけて出来たその鎧は、だから誰も剥ぎ取ることは出来ない。彼自身が、脱ぎたい。そう思わなければ。


自分に出来ることは漫画を書くことくらいで、他の何かを完璧に出来ることなんて永遠に無いと自覚はしている。でもやらないことと諦めることは違うのだ。その鎧は無理には引き剥がせないけれど、だからこそその疲れた体を休ませることは出来ないかと。


故に花見に誘った。確か昔もそうだった。


ポーカーフェイスなトリだから、普段鈍感な俺がその些細な違いに気づくことは無い。それでもふとした瞬間に視える時があるのだ。あれ、ちょっと疲れているのかな?何かあったのかな?と。不器用な俺がトリの力になれるわけなどないと最初から分かっていて、だからこういう行動をとるしかなくなる。少しでもトリが安らげますように。薄闇に見上げたトリの表情は暗くて良く分からなかったけれど、唇だけは笑っているような気がした。


どきり、と胸が鳴った。幼馴染が少し笑みを浮かべたというだけで、何をどきまぎしているんだろう、と胸中で葛藤する。幼馴染以上の感情をトリに対して持つようになった。それ以外に理由が見つからない。


「千秋」
「…っ」


ふいに名前を呼ばれて顔が一気に高揚した。トリが自分の下の名前を呼ぶのはいつも二人きりの時で、だからこれは恋人として過ごす時間なんだよ、という彼からの宣告でもあるのだ。俺から逃げるなよ、と。


とは言っても濃密な甘ったるい空気にはとても耐えられそうになく、思わず立ち上がって大きな桜の木の下へと走り込む。いきなり体を動かしたせいか、それとも別のことが原因になってか。どきどきと早まる鼓動が止まらない。逃げ切れるわけがないなんて分かっていても、それでも、どうしても、トリのあの声を聞くのが恥ずかしくて恥ずかしくて耐えられないのだ。


「…えっと…、桜の木の表面って、凄いごつごつしてるよなー」
「俺にも触らせろ」
「…っ…ちょっ!どこ触って…」


胸の当たりを抱かれたかと思えば、するするとそれは下に落ちていく。衣を剥がされた肌に、トリの指が滑りこむ。


「…ばっ…ばかっ…こんな場所で」
「最後まではしないから」
「そういう問題じゃ…っ」


近づいた顔。自分の唇が噛み付かれ、そこから舌を差し込まれる。歯列を割り入り込んだぬるぬるとした羽鳥が自分の舌を見つけたとばかりに絡め、唾液ごと全てを吸い取ろうとする。途切れ途切れに溢れる自分のみっともない声に、体の熱はどんどん上昇していった。


「……んっ…、あ、や、…トリ…!」


秘めている場所に外気が触れ、ぴくりと体が震えた。はらりはらりと落ちる花びらを追うようにトリが自分の唇で吸い付いていく。やんわりと耳を噛まれ、掌で堪える嬌声。羽鳥のも自分のと一緒に上下に擦られ、あまりの気持ち良さに思わずトリの背中に手を回した。途端、手の動きは速度を増し、お互いに一気に絶頂を迎える。


「続きは帰ってからな?」
「…何が続きだよっ」


息も絶え絶えに言い返せば、トリは笑ってそのまま唇を押し付けてくる。文句の言葉は飲み込んで、ゆっくりと瞼を下ろした。


トリが、笑ってくれて良かった。


世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし


世界に桜なんて無かったら、人はその開花を今か今かと待ちわびなかっただろう。同じくその美しい花が散ることを悲しまなかっただろう。桜の不存在は、それこそ人々の心を穏やかにするだろうけれど。桜の消滅は焦燥や悲観と一緒に、眺めた幸福をも奪っていく。それらの感情はセットで、だから遠い昔から桜が生き続けたということが一種の回答なのだ。花開く一瞬の幸せの為に、人々は桜という存在を許してきたのだから。


もし世界にトリが存在しなかったら、自分はどうなっていただろうと想像する。きっと世話をしてくれる人なんて誰もいなくて、だからもっとずぼらな人間になっていただろう。それではトリが居ても居なくても同じではないかと思うけど、おそらく全然違うはずだ。


締切を守ることができなくて怒られて、嫌だなあと思う。仕事上のつきあいとはいえ、女の人の隣でトリが笑っていると、それこそむしゃくしゃする。その感情が嫉妬だと気づいた時、酷く恥ずかしくて穴があったら入りたいと思う。そんな自分に呆れ、でも全部トリが悪いと怒る。怒っていたはずなのに、手料理を出されたら怒りなんかふっとんで、美味しいと喜ぶ。トリが自分に好きだよと囁いて、いたたまれなくなりながらもポツリと本心を漏らすと、トリが子供みたいに嬉しそうに笑って。胸がきゅう、と苦しくなる。何故だか泣きたくなる。それが愛しさだと知った時、何だ自分の感情というものは、全てトリが原因じゃないかと笑って、それが幸せだと思えた。


トリにとっても、自分がそんな存在であればいい。


だから未来を約束する。また一緒に桜の花を見上げましょうと。


傍に、トリがいてくれて良かった。


待ちわびた春の訪れ。冬はもう戻らない。




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