珍しく誘ったのは吉野の方で、約束を破るつもりも毛頭無かった。昼間からはきっと混むだろうから、早朝に花見に行きたいと。むしろ寝汚いのは吉野の方で、小学生の頃からラジオ体操に一緒に行くのも自分が起こしていたし、それはお互いが高校生になった今もほとんど変化を見せない。


早朝という約束はしたが、何時という具体的な数字は出てこなかった。どうせこれまでと同じく自分の方が早く起きて、寝ている吉野を起こす羽目になるのだろう。その考えが覆されたのは、眠りから半ば無理やりに起こされた今朝の事。墓石に押し潰されるような重さを体に感じ、目を覚ましてみれば、何のことはない。吉野が自分の体の上に馬乗りに跨っていただけだった。まじまじと見つめる彼の視線を受け止めて、何をしているんだ?と掠れた声で吉野に尋ねる。


「何してるんだはこっちの台詞!一緒に花見に行く約束だろっ!」


部屋の時計を見れば、指し示す数字は五の時間。


そうだった。千秋の場合自分が楽しみにしているイベントごとには、誰よりも早く起きるんだった。うっかり忘れていた事実に、彼に聞こえぬように小さく舌打ちした。


++絶えて桜の++


時間帯も時間帯なので、花ざかりの公園には誰一人見当たらなかった。長い冬を終えたからとは言え、外気はまだまだ肌身に凍みる。息を吐けばそれは直ぐ様白色に変化し、空に溶ける。散歩に連れてきた犬のように、吉野と言えば、わーい!と声を張り上げながら公園の中を走り回っている。


一応は都会と呼ばれる場所にも、僅かながら自然は存在する。いや、建物ばかりで成り立つ場所だからこそ、敢えてこういう空間を作り上げているかもしれないが。広い公園の奥へ奥へと進んでいけば、小さな森林が目に入る。木々の傍には水が浅い川となって流れていて、時折その飛沫が耳に届いた。


「トリ、早く早く」


興奮を隠しきれないのか、吉野の声のトーンが高まる。追いかけるように、歩く速度を早めた。目に入る吉野の背中。


少し歩けば、桜の木々が立ち並ぶ場所へと到着する。


薄桃色の花が咲き乱れる空間。群れなすようにその花びらが風にさらわれ、空中に舞い狂う。雲一つない空に流れる花の海の美しさに、思わず目を細めた。短い間、同じく見とれていたらしい吉野が、息を吹き返したように綺麗だな、と言葉を零す。上に向かってあげていた顔を下に下ろして、吉野を見やる。未だ空を見上げたままの吉野は、桜の世界に溶け込んでいるように見えて。思わず、吉野、とその存在を確かめるように名前を呼んだ。


「何?どうしたの」
「…いや、なんでもない」
「変なトリ。そだ、お団子食べよ!」


吉野が持ってきた鞄の中から、ピクニック用のレジャーシートを取り出す。小学生の頃に親に買ってもらったアニメ柄のそれは、どうやら吉野のお気に入りらしい。流石にこれは、と眉間の皺を作ると、誰も見てないって、と吉野は屈託なく笑う。しぶしぶながら腰を下ろすと、吉野も同じように座りこむ。小学生の体型に合わせて作られたそのシートは、成長を遂げた自分達にとっては若干小さくなっていて。知らないうちに体は随分大きくなっていたのだな、と感慨にふけると同時に、そのせいで肩が触れそうなほど近くにいる吉野との距離に一瞬胸が跳ねた。


二十四時間営業のコンビニには今やなんでも揃っていて。早朝だというのに、団子を売っているような店はここしか思いつかなくて、そこで温かいお茶といくつか朝食になるようなものを購入した。起きてから何も食べていなかったので、吉野から渡された団子を一串受け取り、すきっぱらの胃の中に押し込む。うん、ちょっと重い。


「桜、綺麗だなー」
「…とっとと写真取るなり、写生するなりしておけよ。どーせ漫画の資料に使いたいとかそんな理由だろ」
「えっ!何で分かんの!」
「お前の考えそうなことくらいお見通しだ」


告げて、ごろりと残された空間に横になる。え、何、寝る気?という声が横から聞こえて早めに宿題を終わせる為に昨日の夜少し夜更かしをしたのだ、と答える。お前、俺と花見に行く約束してたのに何でそんなことしたんだよ、という反応。休み後半になって宿題を終わらせることが出来なかったお前がどうせ俺に泣きついてくるのが分かってるからだよ、という言葉は飲み込んだ。


俺にとっては吉野の考えなんて、手に取るようにわかる。けれど、吉野は俺の考えなんてちっとも分からないのだろう。俺が吉野に幼馴染みの親友以上のものを、実は心の内に秘めていることが。


俺に文句を言うのに飽きたのか、吉野が空を見上げる気配を感じる。寝返りを打つように、彼から背をそむけて。桜の一欠片が、放り出していた自分の掌の中に落ちた。


どうせ散ってしまうのなら、咲かなければ良かったのに。


昔々、まだ月日という感覚が無かった頃の時代、人々は春の到来を桜の開花によって認識していたのだという。寒冷の冬の時代を耐え忍んで、ようやく迎えた暖かな世界。桜という木々がもしその為だけに生まれたというのなら、時間の認識が完了した今の時代にとってはもう不必要なものなのだろう。……だったら、根こそぎ切り取ってもいいのではないか。


桜の花を視界に入れて喜べるのは、きっと幸せな人間の特権だ。心に陰りのある人間が、夢のような幻想的な世界を、直視出来るわけがない。芽吹かなければ良かった、伸びなければ良かった。咲かなければ良かった。そうしたら、自分が不幸だと気づかされることも無かったのに。


何故、俺は吉野のことを好きになってしまったのだろう。知らなければ、傷つくことだってなかったはずなのに。芽吹いたはずの恋心は、きっと永遠に咲くことはないだろうに。


手で拳を作って、額に当てる。刹那、吉野が自分の元から離れていく音が聞こえた。ああ、うん、それでいい。そうやってお前は俺から離れていって、永遠に俺の想いなんて気づかなければいい。会わなければ、触れなければ、見えなければ、どうせ俺のことなんか忘れてしまえる。


ばしゃーんと豪快な音がしたのはその直後だ。


足を滑らせ川に落ちた吉野をひっぱりあげて、とりあえずはハンカチで顔を拭ってやる。と同時にくしゃみをする彼を連れて、すぐに自宅に戻ることにした。


「えー、もう帰るの?」
「えー、じゃない。風邪でも引いたらどうする気だ」
「大丈夫だって」
「お前に風邪を引かれたら、俺がどうにかなるんだよ」
「……俺、トリのそーゆー優しいところすげー好き」


掴んだ掌は熱くなる一方で、でも冷たさを感じている吉野はそれに気づかない。ずっと気づかない、気づかせないのは俺で、なのに気づいて欲しいという矛盾した感情を胸の中で弄ぶ。どうせ咲かないのなら、切り取ってしまえばいい。そのまま死んでしまえばいい。思うのに、こうしてまたお前を好きになってしまうから。


春は未だ訪れない。


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