小野寺は病気だった。


ある休日の日に突然我が家にやってきたと思えば、真っ青な表情で小野寺はこう言ったのだ。高野さん、俺、思い出せないんです。小野寺は酷く混乱していたようで、そう言ったきり訳の分からないことを玄関口でぶつぶつと呟き始めては茫然とするように俺を見上げて。彼は喜怒哀楽が激しくくるくると表情が変わる類の人間だったが、その時ばかりは今まで見たことのないような不安や恐怖が入り混じった面持ちをしていた。流石に今の事態は異常だと感づき、部屋に強引に連れ込んで何とか彼を落ち着かせ。もう一度小野寺に順を追って説明させる。一体何があったのかと。


「思い出せないって、何が?」
「俺先週図書館から本を借りたのに、それすら忘れていて。読んだ痕跡もあるのに、内容を全然覚えていなくて」
「ただの記憶違いじゃねーの?」
「…あの図書館で借りた本が何だったか、全部思い出せないんです。こんなこと、今まで一度も無かったのに」


彼が冗談を言っているようには思えなかった。小野寺は冗談で人を騙すような人間ではないことはとうに既知のことであったし、そもそもここまで上手い演技も出来るわけもなかった。とすれば彼の言葉は真実なのは確定事項に違いないのだが。疑っているわけではない。ただ、どうにもこうにも小野寺の言っていることを理解はしているのだが、納得出来ないのだ。


「他には?」
「え?」
「本以外に何か思い出せないこと、他にはないの?」
「…どこまで覚えているのが正しくて、どこまで忘れているのがおかしいのか。記憶を失くしている当の本人にそれを聞くんですか?」
「…じゃあ、俺とお前が通ってた中高校の名前は?」
「………」


小野寺は目を泳がせた後、ゆっくりと瞼を下ろした。思考を巡らせるように沈黙が訪れ、浅い呼吸音だけが耳に響いた。彼の握りこぶしが小刻みに振動する。愕然としたように光彩を失った瞳で俺を見上げて、高野さん、と震えた声で呼ぶ。


それが決定打だった。


幾つかの病院にすぐさま駆け込み、最後の場所でようやく小野寺の病名が発覚した。聴き慣れない長い横文字の言葉。簡単に説明すると記憶喪失の一種だ、と医師は説明する。


「一般的に周知されている記憶喪失とは、大体が何らかの影響で脳にダメージがあった時に発生します。交通事故で頭を打って、事後前後の記憶がないというのも脳のダメージが直接の原因です。よく耳にする認知症による記憶障害もほとんどは脳の萎縮によるものですから」
「俺、自分が覚えていないだけで、頭を打っていたのでしょうか?」
「いいえ、小野寺さんにはそのような脳の損傷は確認出来ませんでした」
「それでは何故。どうして俺の記憶は失われているのですか?」
「…それが小野寺さんの病気です。直接的な原因も無いにも関わらず、忘れてしまう。先程お伝えした病名によく現れる症状です」
「治療すれば、治るんですよね」
「…申し上げにくいのですが…」


小野寺の質問に、医師は歯切れ悪く言い渡す。


「何故この病気が発症するのか。原因もメカニズムも今現在はまだ解明されておりません。つまりこれといった明確な治療法は残念ながら存在していない状況です」


思わず絶句した。


「新しい物事を覚えられないということではありません。今見たこと、感じたこと、考えたことは全て記憶としては一応は残ります。但し、記憶よりも忘却のスピードの方が遥かに速いのです。特に病気を自覚した後にその傾向は顕著になりまして…」
「もういい!」


遮るように大きく息を吐いた。直後勢いよく立ち上がり、体を支えていた椅子が大きく傾く。突然の俺の奇行に驚いたように、四つの眼が此方を注視する。あっけに取られた小野寺の腕を強く引き、行くぞと声をかけた。


「行くって何処にですか?」
「別の病院。もしかしたら違う病気かもしれないだろ」
「…俺は、何となくですけど、自分でもこの病気じゃないかなって…」
「行こう、小野寺。こんな所さっさと帰ろう」
「…高野さん…」


最早動揺を隠しきれてはいなかった。鼓動は先ほどから耳障りなくらいに内側から激しく叩いていたし、脳内は大量の蜘蛛の巣が張られたように朦朧としていた。荒い呼吸を繰り返す俺の腕を、小野寺は左手でそっと触れて。


「高野さんは、外で煙草でも吸って待っててください」
「…っ、だから、他の病院に」
「俺は、一人でも平気ですから」


迷いなく言い切る小野寺に、それ以上言葉が出なかった。


+++
「先生が言うには、日常的習慣みたいなものは最後まで覚えているんだそうです」


マンションへ帰る途中に、小野寺があっけらかんとした表情で言った。


「だから食事をするだとか歯を磨くとか顔を洗う行為は無意識にやってしまようで。記憶は無くなるのに体はいつもと同じように動くだなんて、何だかロボットみたいですよね」


けらけらと屈託なく小野寺が笑う。


「お前、怖くないの?」


水をさすように言えば、途端小野寺は顔を曇らせて。


「…”怖い”というより、今は病名が分かってほっとしています。やっぱり知らないのと知っているのとでは全然違いますから」
「お前、全部忘れるんだぞ」
「全て忘れても、別に死ぬわけではないですよね」


敢えてはぐらかす小野寺に畳み掛ける様にすれば、彼は平然と何でも無いように答える。意思疎通が上手く出来ないことに苛立つ。そうじゃなくて、俺が言いたいのは。俺がお前に伝えたいことは。


「そんなに心配しなくても、俺は大丈夫ですよ」


数日後、この時既に病気に対する“恐怖”や“不安”すら忘れてしまっていた、と小野寺は語った。それを今更俺に伝えてどうする?と問い返したところ、俺、どうするつもりで高野さんに明かしたんでしょう、と泣きそうな表情で反対に聞かれ。小野寺は真実を言うまいとする決意や伝えようとした勇気すらも失ってしまったのだと気づいて、ただ震える彼の掌を優しく握りしめることしか出来なかった。


仕事を辞めると言い出したのは小野寺の方だった。とりあえずは有給休暇を使って仕事を休んでいたが、流石にこれ以上は無理だと考えたらしい。毎日毎日ぽろぽろと零れ落ちる記憶。これではいつになっても仕事は出来ません、と無邪気を装いながら小野寺は告げる。


「…何も今すぐ辞めることはないんじゃねーの?」
「中途半端な仕事が嫌いなのは高野さんの方でしょう?」
「…俺、言ったか?そんなこと」
「忘れてませんよ。ちゃんと覚えています。…高野さん、俺はですね。今まで本当に一生懸命に頑張ってきた仕事だから、それを絶対に中途半端にしたくないんです。俺、このまま仕事を続けてたら、きっと中途半端な自分を嫌いになってしまうから」


条件を出した。一つは、退社ではなく休職扱いにすること。もう一つは、その便宜を図った見返りに、しばらく俺の部屋で一緒に暮らすこと。


「何ですか?その条件。高野さんばっかり有利じゃないですか!」
「…じゃー、お前ももう一つ条件を付けていいぞ。ただし、俺に触るな、とかは無しな」
「何で先に言うんですか…」
「早く言わねえと締め切るぞ」
「あっ…えっと、じゃあ、…約束を必ず守ってください」
「約束?別にいいけど。つか、そんなんでいいの?」
「はい、それで十分です。絶対に破らないでくださいよ?」
「分かったって」


忘れる順序に規則性があると発見したのも、これまた小野寺だった。高野さん、俺凄いことを発見したんです、と人が気持ちよく眠っているのを強く叩いて彼は起こす。寝ぼけ眼で小野寺の腕をつかんで抱き寄せる。もぞもぞと少し動いてようやく自分の定位置を見つけた小野寺は、腕の中でくすくすと笑って。


自分にとってどうでもいいことから忘れていくんです。例えば一か月前の天気とか何を食べたかとか。聞き流した音楽とか。自分が覚えていなくて良い、と判断したものから先に記憶が失われていくんです。これって凄いですよね。病気って大体が科学的なのに、症状が心理的なものにも影響するだなんて。だから、今のうちに言っておきますね。一番最後に残る記憶が自分にとって一番大切な事柄なら、俺、それが何か知ってます。もし、俺が全ての記憶を失くした後にこの病気が治ったら、答え合わせをしましょうね。…ちょっと!高野さん、人の話を聞いてるんですか?


聞いてるよ、小野寺。その話、一週間前から毎日ずっと話していたから。


小野寺の記憶が次第に欠落していくことは第三者の目からも良く分かった。他人の俺でも気づく症状に、当の小野寺が気付かないわけもない。何かを得ても、それ以上に何かを失っていく毎日。コーヒーを淹れてやれば、これ、何ですっけ、と小野寺は首を傾げ。ああ、そうでしたコーヒーでした、と飲み込んで。さっき飲んだのは何ですっけ?と尋ねてくる。コーヒーの香り、白い光、広がる青空、焼き立てのパン。一つずつ、そうやって忘れていくだろう。確実に、すべて。


小野寺。お前は十年前と同じく、また俺のことを忘れてしまうのだね。


とある朝の日に、窓の外を見やる小野寺に気づいた。小野寺、と小さく名前を呼ぶ。振り返らない。もう一度今度は少し大きな声で呼ぶ。小野寺が驚いたように振り向いた。その仕草がまるで、唐突にクラクションを鳴らされ面食らった人間のようで。だから知った。彼は自分が呼ばれたと理解して振り向いたわけではなく、反射的に大きな声の出所を確かめただけだったのだと。ああ、そうか。お前は、


とうとう自分の名前すら忘れてしまったんだな。



「俺、高野さんのことが好きです」



笑いながら、こともなげに小野寺が言った。もう何もかも覚えてなんかいないくせに、それでも、昔小野寺が自分に告白してきた時にように何度も何度も好きだと繰り返す。お前が俺に繰り返し話していた“一番大切なこと”。その意味を今、ようやく理解する。


いつもいつも「俺は平気ですから」とか「一人でも大丈夫」だと、お前は言っていたけれど、俺が大丈夫じゃないんだよ。お前を失って、一人になって。俺が正気でいられるわけがないだろう?


小野寺の胸に自分の顔を押し当てた。目頭が熱くなって、そこから何かが滴り落ちる。ぽろぽろと、零れ落ちた彼の記憶のように。彼の白い服にそれは滲む。


十年前に恋をした人と偶然にも再会し、そうして俺はまた小野寺を好きになった。確かにさ、俺、もう一度俺を好きって言わせてやる、なんて言葉をお前に吐いたけど。けれど。



「好きです、高野さん」



そんな言葉、今はいらない。







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