人間の脳には容量というものがあって、記憶に残しておける事象には限界が存在する。


学生時代の試験前にはもっと記憶量が増やせればいいのに、となんともご都合主義なことをよく考えていたものだ。無論たった数日で記憶量が増大するわけもなく、付け焼刃の知識など例えば水を手で掬うようなもので。留めることが出来るのは一瞬で、後には指の間からすり抜けては流れ落ちるのだろう。それが、忘れるということ。



忘れる。



前兆はあった。三日前の夕食が何だか思い出せないのは不規則な生活が理由だと思い込んでいたし、部屋の鍵をかけ忘れたのもただうっかりしていただけと結論づけた。今思えばその頃からぽたりぽたりと記憶と名づけられた溶液は俺の知らぬうちに零れ落ちていたのだ。気づかなかったのはその液体が滴り落ちる程些細だったから。


その日は清々しいくらいの良い天気で、穏やかな陽射しがアスファルトの上で漂っていた。休日に図書館に赴くのは何年も前から日課になっていて、その日も当然のように目的地へと向かっていた。お目当ては絶版になり、今まで探し当てることの出来なかった古書。先週違う本を借りた後に見つけてしまって、だから今日こそはと意気込んだ。


見慣れた本棚に腕を伸ばす。目当ての本が見つからない。きっと誰かが先に借りてしまったのだろう。無いものが突如出現するわけもなく、時間を経ても無論不存在のままで。期待をしすぎた為か他の本を借りるという選択肢もなく、すごすごと帰路についた。


自覚をしたのはその直後だ。相変わらず散らかった部屋。お気に入りのソファーの上。読みかけの本。それが自分の求めていた本だと知った時、冷たいものが背筋を通った。借りてきたことを忘れていた。言葉にすれば簡単で、それ以外の何でもなかった。けれど慄いたには理由があって、栞から読み進められた形跡があるのにも関わらず本の内容を俺は全く覚えていなかったのだ。文字を追いかけてみても、登場人物の名前すら記憶に無い。嫌な汗が体中に湧き上がり、心臓が急激に冷えていく。縋るように目を閉じて考える。どうかこの胸騒ぎが気のせいでありますようにと祈りながら。


隣人の扉を激しく叩いたのは数分後。手にした本どころか今まで借りてきた全ての本の記憶が存在しないことに気づいた瞬間のことだった。





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