貴方達の言う「奇跡」とやらは随分馬鹿らしいのね。


本と未来と奇跡を一つ


高野政宗は兎に角急いでいた。彼の脳内は「早く急がなくては」という言葉のみが占めていた。何処に向かっているか、何のために足を動かしているのか、その目的すら分からなかった。見えない風に押されるように颯爽と歩く。彼の腕の中には、一冊の本が抱かれていた。


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「あら、珍しいお客様ね」



何故自分がそんな場所にいたのかは覚えていない。まるで眠りから目覚めるみたいに、気づいたらそこにいたという感覚だった。装飾だけが施された大聖堂。天井と呼べる厚い壁はなく、薄いステンドグラスが頭上を覆っていた。不思議な絵が描かれた紫色のガラスから、零れる光は少なく、けれど周囲を隈なく見渡せるのには理由があった。


ドミノのように連なる、てっぺんまで伸びた黒い本棚。百科事典のように分厚い本が整然とその中に収められている。巨大な迷路に巻き込まれたような錯覚だった。空中に浮遊するは無数の本。ぷかぷかと虚無の空間に浮かぶそれらは、誰もいないのにぱらぱらと勝手にページが捲れ、開かれた紙が白く発光していた。


川辺に漂う蛍のように、あるいは闇夜に瞬く星空のように。白光が散り散りに漂いそれが暗い空間を仄かに照らす。所々では重なった本達が強い光を発していて。それがライト代わりとして視界の支えになっていた。


此処は一体何処だろう。


突然に見知らぬ場所に放り出されたというのに、何故だかおかしいとか不思議だとかは思わなかった。現実味のない幻想的な光景は、何度目をこすっても消えはしない。主役ではない映画に巻き込まれたような、白昼夢でも見ているような。ああ、そうか。ぱたぱたと飛ぶ本を見ても、何も感じないのは、きっとこれが夢だから。


「夢じゃないわよ」


まただ。また、誰かの声が脳内に響く。どの方向から聞こえるということはなく、まるで自分のすぐ側にいる誰かが耳元で囁きかけるような距離感。夢でなければ、これは一体どう説明するのだ、と首を傾げた途端、貴方には知る必要がないの、とまたもや話しかけられた。


お前は誰だ。問いかけるよりも先に、コツリコツリと大理石の床を歩く足音が空間に響く。今度こそはっきりとした音源に向かって振り向けば。一人佇む少女の姿。ウエーブの掛かった髪がゆらゆらと揺れて、白いベストに掛かっている。短いスカートを翻しながら、唇だけでにやりと笑う。ようこそ、と口の動きだけで、そう言っているのが分かった。


どこかで見覚えのある顔だった。視線だけを上下に揺り動かし姿全体を確認する。あ、と単語が漏れた。この少女は、そうだ、確か。十年前に俺と小野寺が付き合い始めたときに「好きです」と告白していた人物に間違いない。けれど何故、彼女が此処にいる?十年という長い時が経過しているのにも関わらず、どうして昔と違わぬそのままの姿なのか?



「お前は…」
「人違いです!」


どーんと胸を張りながら、人の台詞を遮って彼女が宣言していた。いや、まだ何も言っていないんだけど、と語尾を繋ぐと、あからさまにしかめっ面を作りながら、何が聞きたいのか存分に分かっているからわざわざ言ってあげるのよ、と少女は憤慨する。


「どうせ私の顔が貴方の知り合いとそっくりで、本人かどうか確かめたいんでしょ?」
「…口調と内容から察するに、本人でないことは確かだな」
「…随分思考に柔軟性があるのね。でも、理解が早くて助かるわ」


見知らぬ宇宙人と初めての会話が通じて嬉しいというように、彼女の顔がほわりと綻ぶ。状況はよく分からないけれど、とりあえずこの回答で良かったらしい。ふふ、とその少女が静かに微笑んだ。笑う彼女の横に、登場を待ちわびたようにぱたりぱたりと本が集まる。俺の知り合いに、猫なら心当たりはあるけれど、本が寄ってくる様な摩訶不思議な人間などいない。一瞬忘れそうになってしまったが、問題は何一つ解決されてはいなくて。記憶の中の彼女でなければ、ますます目の前にいる存在に説明がつかなくなる。


「で?違う人間なら、お前は一体誰なんだ?」
「あ、そう言えば。ご挨拶がまだだったわね」


白光の中をくるりと一回転したかと思えば、少女は俺に向き直り。短いスカートの裾を指先で持ち上げて、ごぎげんよう、のポーズを作る。思い出の中にある姿とは全く違う表情を浮かべながら、ようやく彼女は自分の正体を明らかにする。


「ようこそいらっしゃいませ。お気に召す一冊の本。”未来”と”奇跡”をセットにして是非貴方にお譲りしましょう。初めまして。私はこの”本屋”の主です」


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