最近機嫌が良さそうだけど、何か嬉しいことでもあったの?


使用済みのエプロンを脱ぎ捨ててハンガーをかけようとした際、にやにやと笑う先輩に捕まった。既に帰り支度の済んだその人は、挨拶でもするかのような気軽さで俺に尋ねる。とうとう本命の彼女でも出来た?と。彼女なんて出来ませんよ、と冷静に答えた。勿論表情は笑顔のままでだ。途端、えー、つまんないーと不服の声が上がる。大変残念ではありますが、つまる話などこれっぽっちもございません。


「いつもそうなんだけどさ。いつも以上に笑顔が眩しいから、絶対そうだと思ってたのに」


ちぇっと舌打ち。



それは作り笑顔です。指摘するのも面倒で、またもや曖昧に笑って誤魔化す。それ以上追求する気も無かったのか、そっか、じゃあお疲れーと労いの言葉を口にしながら先輩はあっさりと引き下がる。その姿を見送りながら思う。良いことではなく、どちらかといえば悪いことが起こったんですよ。浮かべる表情とは相反するように、心情は強風波浪警報が出るくらいの大荒れだ。まさか、言えはしない。断ることがないと言い切った先輩を信じて木佐さんを誘ってみれば、断られました、だなんて。見栄とかプライドの問題ではなく、あまりにもショックすぎて自分の心の中でうまく整理がついていないのだ。


当の木佐さんはと言えば、特にこれといって変わった様子は無い。気持ち悪いくらい、いつも通りだ。少しは気まずさなどが間に流れてもいいはずなのに、彼からは悪気さえ感じられらない。至って普通に挨拶もするし、話しかけてもくるものだから。こちらばかりが気にしていると自覚するもの癪で、悟られまいと普段以上の対他人への営業スタイルを持って接すれば、ご覧の有様。第三者からは、上機嫌にしか見えないのだろう。


上着を取り出して、ロッカーの扉を力任せに閉めた。ガタンと大きく音が響いた。


+++
葡萄というのは一般的に、枝に近い房から熟していくのだという。故に下の部分よりも上の部分の方が糖度は高い。だから下から上にという順番で食するのだ。味の濃いスープの後に薄いスープを飲めば、味が無くなるのと等しく、本来の味を感じられない味覚障害の一種。最高の甘味を前に、通常程度の甘さなど歯が立たないし、不味くて不味くてとても食べられない。そういう理屈だ。

甘いもの好きな木佐さんだからこそ、使えた理論。それが何を意味するか、今の俺にはまだ分からない。


とぼとぼと夕暮れ時の帰り道を歩く。見上げれば紅の空。その赤の色に何故だか胸が締め付けられた。

ぽり、と頭を掻いた。何で俺、あの人にここまでされて、それでも考えてしまうのかな。ずっとずっと考えていたことだ。何故?何で、どうして?の繰り返し。答えなんて本当は分かっているくせに、それを敢えて見ないようにしているだけで。

薄々ながら気づいている。相手の言葉や態度に一喜一憂して、毎日毎日気づけばその人のことを考えていて。思い通りにならない現実に躍起になって。それでも想わずにはいられなくて。そんなの、だって。これでは、まるで。


ふと、芳しい香が鼻腔を掠めた。自宅まで徒歩五分の場所。木佐さんを誘おうとしたケーキ店だった。夕刻を迎えるというのに、この匂い。閉店の時間も間もないくせに、店内には人だかり。吸い込まれるように視線をそちらに移せば、見慣れた顔が一人、いや、二人。


最初の一人は、副店長の遊佐さんだった。へえ、あの人もこんな女性ばかりが集まるような店に来るんだ、と僅かに驚く。知人への土産か、はたまた彼女へのプレゼントか。いずれにせよ気にも留めることでは無いよと納得して一旦は視線を戻して。もう一度振り返った。


副店長の隣で微笑む人間。


あの人は、木佐さんだ。


「…なんで?」


思わず声が漏れた。ああ、そうえいば先輩も言っていたっけ。あの人、こういった甘い誘いを断ったことが無いって。今日は二人とも本社に出かけていて。その帰り道に寄ったという可能性だってある。話の流れで、たまたま偶然この場所を訪れたのかもしれない。冷静な判断を下す一方で、ふつふつと腹の底から怒りが込み上げる。


なんで、どうして。副店長なんかと一緒にこの店に来ているのか。どうして木佐さんの隣にいるのが俺ではないのか。そもそも何故自分と一緒には絶対行かない、なんて酷い言葉を投げつけたのか。俺にはそんな嬉しそうな笑顔を見せたこともないくせに。俺は、そんなに、本気で嫌がるくらいに。




木佐さんに、嫌われているのか。



自分の中にあったぴんと張り詰めていた何かが、ぶつりと切れた。


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荒い呼吸を繰り返し、自宅の玄関に座り込んでいた。はーはーと息が漏れる。顔からは汗がぽたぽたと滴り落ちた。心臓がどくどくと激しく振動して鳴り止まない。耳の裏にあるかと思えるほど、強すぎる鼓動。全力疾走をし終えた体は、休息を得るようにだらしなく弛緩しているた。


「お前さ、何してんの?」


今まで散々自問していた言葉を、抱きしめた腕の中にいる彼に奪われた。同じく小さく短い呼吸を繰り返す木佐さんは、力尽きたようにくったりと寄りかかっている。吐き出された息が、首元にかかる。生ぬるい吐息と熱い体温が、今木佐さんがここにいるとという現実を証明していた。


完全に正気を失っていた。


思い出せるのは記憶の断片ばかりで、全くもって繋がらない。ばらばらに分解した欠片から何とか情報を汲み取る。理性を失くしたまま店に押し入り、何故ここにいるんだと驚く二人を無視して、木佐さんの腕を掴んだ。この人お借りしますと吐き捨てて、静止の言葉すら無視して強引に攫った。そしてこの状態だ。何をしているのか?問われても、自分自身でも分からない故に答えることが出来ない。


胸に掌をのせられて、押しのけるように木佐さんが空間を作る。触れていた温かさを引き止めるように、名を呼んだ。木佐さん。


今までに見たことのない困った様な表情を浮かべて、はあ、と溜息をつく。俺の勘違いだったら悪いんだけど。小声で付け加えるように彼が言った。


「お前、俺のこと好きなの?」


瞬間、閉じていた視界が一気に開いたような気がした。ずっとずっと薄々は気づいて、それでも知らぬふりを続けてきたもの。胸の奥底に眠る、開けてはいけないよと無数の鍵でがらんじめに塞いだ箱が一瞬にして暴かれる。は、と獣のような息が毀れた。


「…そう、みたいです」
「…"みたい"じゃ困るんだけど」


呆然と深い黒眼を見つめれば、その言葉の通りに不安に揺らいだ顔を見せる。ちら、と視線を反らしたかと思えば、こうなるのを避けたかったのに、と小さく声を漏らした。

「俺、男なんだけど」
「知ってます」
「今年で三十路を迎えたんだけど」
「それも知ってます」
「性格も最悪だし…それに」
「知っていることも知らないこともどうでもいいくらい、木佐さんが好き、みたいです」
「だから"みたい"じゃ困るんだってば」


喉の奥でくつりと笑った。意地悪そうにという装飾も付かない、副店長と居た時とも全く違うその微笑に、胸が苦しくなった。


最初に動いたのは木佐さんで、気づけば自分の唇を彼が塞いでいた。驚きに声を発そうとした途端、するりと生温かい舌が入り込む。奥に逃げたぬめぬめとした物体を見つけたといわんばかりに絡め、ちゅく、と音を立てながらきつく吸い上げた。


「きちんとお前が決めろ」
「…木佐さん?」




「………続き、する?」



答えなんか決まっていた。



さらりと滑る白い肌に唇を落として、かぷとその皮膚を緩く噛んだ。指を絡めて白いシーツに縫い付けて、弓のように仰け反る体を何度も何度も貫いて。顔を蒸気させながら、きゅ、と閉じられた瞳に、ねだるように木佐さん、と掠れた声で呼ぶ。ゆっくりと開かれた全てを飲み込むような大きな瞳から、一瞬にして心を奪われたあの時みたいに、ほたりと涙が一筋毀れた。それを追って、ぬらぬらと光る唇に噛み付いた。浅く息づく呼吸すら飲み込んで、恍惚に満ちた顔を引き寄せて乱して。


「…っ…ゆきな…」


緩やかに誘うような甘い声。ぞくりと背筋に快感が走った。もっと名前を呼んで欲しい。もっともっと力強く求めて欲しい。その綺麗な瞳に何も映さないで、俺だけを見ていて欲しい。俺だけに本当の木佐さんを見せて欲しい。ああ、だから。俺は、




この人と、ずっとこうしたかったのか。





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