面接をする前から本屋の店長に対し、あまりにも失礼な行為をしたため、この店で働くことはないだろうと一度は悲観した。けれど無駄に前向きな自分なので、次は何処を受けるかなあ、と後ろ髪をひかれつつ新たな道を考え始めたときに、あの本屋からまさかの採用の電話を貰った。悪戯電話か?と疑ってしまった気持ちも分かって欲しい。…何はともあれ、俺はあの店で働くことが出来るようだ。喜ぶ気持ちがある一方で、何故だか心が重い。…俺、あの店長とやっていけるのだろうか?全て自分が招いてしまったことだとはいえ、不安で不安で仕方ない。


「お前、好きな本のジャンルはあんの?」
「…えーと、よく読むのは少女漫画ですけど」
「…………」
「店長?どうかしました?」
「いや、男のくせにめずらしいな、と思って。あー、うん、でも」


少女漫画、と答えた途端、唇を薄く開いたまま呆然と見上げた彼の表情。一瞬置かれた間の理由を問いただそうとした瞬間、それを遮られ。くるくると丸めたポスターを振り回して、手をぽん、と叩きながら、俺に向かって店長は言う。


「お前、顔が良いから。顔で女子の客寄せしろ。そんで少女漫画を売れ!」
「はい?」
「だから、お前に少女漫画のコーナー任せるって言ってんの!今までそのコーナー担当してたバイト、数ヶ月前に卒業して辞めたから。補充しようにも、ずっと人手が足りなかったし。丁度いい。お前がやれ!」
「任せるって何をすればいいんですか?」
「何でも。本を売るためなら、何でもしろ」


白いテーブルに対して偉そうに足を組みながら言う店長は、俺の顔を見据えて。


「勿論、お前の好きな絵を描いてもいい」


意地悪そうに、にやりと笑う。履歴書内容とか面接の際にも、自分が美術学校の学生であることは伝えていたので、それを踏んでの言葉なのだろう。あれだけの失態を犯しておきながら、結果的にはこの店で働かせてもらえるし、自分の好きな少女漫画を担当させてもらえ、しかもある程度は自由にやらせてくれるという。…万々歳だ。


「おーい、遊佐」
「呼びましたか?店長」
「こいつ、副店長の遊佐。雪名を少女漫画コーナー担当にするから。お前、色々教えてやって」
「はい、分かりました」
「俺、今から本社に行って来るから、後はよろしく」


一つ隔てた壁の奥から出てきた副店長と名乗る人物は、あの日店長に店を手伝えと物申した店員だった。いや、店員であることは間違いないのだが、まさか副店長だったとは。仮にも美術の道を進もうとする人間であるくせに、この洞察力の無さはいかがなものか。ふと、ため息をつく。目の前にいた大黒柱は、副店長と入れ違いに部屋から出て行った。


「あの人の相手、大変でしょ?」
「…でも、悪い人ではないですよね」
「性格は悪くはないよ。意地が悪いだけで」
「あー、それは分かるかもしれません」


店長とは異なり、副店長の遊佐と名乗る人物は割と人当たりのいい性格だった。じゃあ、雪名くん。まずは仕事着に着替えてもらおうか、とクリーニングされた後の透明なビニール袋ごと店のエプロンを渡される。あっちがロッカールーム。これが雪名くんの鍵。番号ついているから、どれかはすぐに分かると思う。荷物を置いたら、一旦店に出てきてくれる?中、案内するから。

伝えるべきことを全て伝え終えると、副店長は売り場へと踵を返した。それを引き留めるように、あの、と声をかける。上半身だけ、彼が振り向いて、どうしたの?と尋ねた。


「…俺、なんでここ受かったんでしょう?」
「多分、顔かな」


あの人相当なメンクイだからねー、と苦笑いしながら彼は言った。そういえば、最初にこの本屋に訪れた際に見た店員の面持ちは、全員が揃ってと言っていいほど、丹精な造形だったと思い出す。顔。そうか、顔か。顔なのか。



あの店長に選ばれてもらえるのなら、この顔に生まれて良かった。



+++
本屋でのバイト生活は、大体にして順調極まりなかった。社員とバイトとの人間関係は良好であるし、いざこざなどほとんど起こった試しがない。売上げも悪くもなかったし、給料もそれなりだ。好き勝手にポップやポスターを描かせて展示させてくれることを考えたらお釣りがくる。

一度、好きな少女漫画で動く仕掛けのレイアウトを作ってみたいとぼやいたところ、運悪くたまたま通りすがった店長が現れ。俺、口先だけの奴って大嫌い!と笑顔で毒舌を吐いてすぐに、作るのに必要な材料を掻き集めて、ほら、さっさと作れ、と命令してきた。

随分と態度の大きい横暴な店長だ、と感じたのは最初だけ。実際に店で働いてみると、いかにあの店長…木佐さんがいかに慕われているかが分かる。あの高校生みたいな外面を自分でも認識しているのか、有効にそれを活用していて。若い学生には友達感覚、同年代には同僚、年上には、弟あるいは息子。それぞれの客に全て違った対応を見せている。少年漫画を担当してるバイトが、あの人は七変化どころかカメレオンな人みたいだよな、と言っていたのも頷ける。けれど、そんな面白い店長だからこそ、皆がついていくのだろう。横暴で、口は悪いけれど、それは親が子供を叱る様なもので。仕事を任せるくらいお前を信用しているのだから、お前も俺を信用しろ、と。彼の言葉は暗にそのことを伝えているし、ここにいる店員の全てはそれを理解しているのだろう。

木佐さんを店長として、俺は認めている。認めてはいるが、信用してはいない。仕事ぶりを見れば、彼がどんなにこの仕事が好きで、どんなに真剣に向かい合っているかは分かる。溢れるばかりの気持ち。まだ社会人にもなっていない自分だけれど、今まで出会ってきた大人というものは、気づけば仕事の愚痴ばかり言っているものだ。彼自身も勿論愚痴は言う。言うけれど、それは常に向上心とセットだ。くそ、今に見てろよ。ほら、お前らも笑ってないで考えろ。そして、手伝え、と。そんな店長だから、きっと皆が放ってはおけないのだろう。負けず嫌いな頑張り屋さんは、いつだって好感度が高いものだ。

店長が、そういう人間であることは知っている。でも、どうしてだろう。そこに薄気味の悪さを感じるのだ。ころころと変わる表情。ころころと変わる態度。七変化どころか、百変化くらいはあるのではないだろうか?とすら思える。変化が多いということは、そもそもの本質が見えないということ。皆に愛される店長。それすらも彼が演じている役の一つでは無いのか?と疑ってしまう。笑う笑顔の裏で、本当は何を考えているかが分からない。仮面を貼り付けた様にしか俺には見えないから。だから怖い。勿論王子様を演じている自分も、人のことは言えないのだけれど。正直、彼のことが苦手だった。


「あれ?」
「どーしたの?雪名くん」
「俺、今日買った新刊、休憩室に忘れてきたみたい」
「あー、朝涙ぐんでた少女漫画ね?私帰りがけ見た記憶があるから。確か、休憩室にそのまま置かれてあったと思うよ?」
「ありがとう。ちょっと戻って取ってくる。お疲れさま」
「うん、お疲れ様」


勤務時間を終えての帰宅の際。外に出て数十メートル歩いたところで、仕事場に忘れ物をしたことに気づく。明日にもバイトはあるのだから、その時に確保すれば言いだけの話なのだが。数ヶ月間の待機期間の果ての、待ちに待った新刊なのだ。冒頭を読んだだけでも、涙ぐむ。それぐらいに素晴らしい展開。仕事場で読むのは惜しすぎて、家に帰ったらじっくりと読み込もうと考えていたもので。それ程に熱を入れていたのを知っている同僚だから、ひらひらと手を振るだけで引きとめようとはしない。背を向けて、もう一度本屋に戻る。その日は、短い髪がぐいぐいと引かれるほど、風が強かった。


探し物は、予想通りに休憩室にあった。その上で想定外だったのは、その少女漫画を、あの店長が読んでいたから。しまった、あの人の休憩時間と重なってしまったのかと悔やんだものの、ここまで来てまさかのこのこ帰れはしない。ぱらぱらと人の漫画を勝手に捲り、読みふける彼。部屋の出入り口からちらちらとそれを眺めて、さて、どうやってこの均衡状態を打開するか、考えた矢先のことだった。



ほたり、と。一筋。彼の大きな黒い瞳から、涙が零れたのは。



気づけば、店の外。ごおごおと唸りをたてる空気が、すぐ横を通り過ぎていく。自分の体すら飛ばされそうな強い風に、耐えて、掌を口元覆った。俺、何してるんだ?忘れ物をして、取りにいったはずなのに。それを引き取りもしないで、逃げるように外に出て。俺、何を動揺しているんだ?別に漫画とかで泣くのなんて、珍しいことじゃないだろう?いつもは嫌味ったらしい笑顔しか浮かべない彼が、感情のままに涙を零す姿だって、普通のこと。待て、待て。おかしい、おかしいから。


相手は男で、俺よりも年上で、高校生に見えるくらいに童顔なくせに、本当は三十歳で。人によってころころと態度を変えるカタログ人間で、本性が掴めなくて、それが本当に気味が悪くて。なのに、なんで?なんで俺、あの人が泣いているのを見て、抱きしめたいとか思ってんの?


振り払おうとしても、あの白い肌に流れた涙が忘れられない。脳裏に浮かぶ度に、強烈に胸が締め付けられる。あの人の頬に触れて、涙を指先で拭って。唇で涙の後を辿って、無茶苦茶に抱きしめたい。


膨らむ自らの欲望に、呆然とする。俺は一体、何を考えている?意識だけでも冷静さを取り戻そうと努力してみるも、忘れられない。忘れられそうも、ない。胸に何かがこみ上げて、それが溢れてしまわないように、抑える。今はそれが精一杯なくらい。



…あの人の涙が。無性に気になって気になって仕方がない。



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