何度だってその手を取ってみせるから01


※転生
 ほんのりしの←カナ要素あり


「炭治郎……?」
「…ッカナヲ…!?」
 その日炭治郎は、前世というものが確かに存在することの確証を得たのだ。

 竈門炭治郎には物心ついたときから自分ではないもう一人の『竈門炭治郎』の記憶があった。記憶の中の炭治郎は日輪刀と呼ばれる特殊な刀を持つ剣士で、鬼にされてしまった妹を人間に戻す為に悪鬼と戦っていた。最終決戦では何人もの仲間たちが死んでいった。それでもひたすら前に前に進み続けるしかなくて。歯を食いしばって悲しみに耐え、ようやく始祖である鬼舞辻無惨の元へ辿り着いた。炭治郎たち鬼殺隊は決死の覚悟で挑み、ついに日の光に焼かれて骨も残らず消えていった無惨をこの目で見たのだ。千年にも及んだ悲願が叶った瞬間、炭治郎含め生き残った仲間たちは咆哮をあげた。それは歓喜からくるものよりも、悲しみからの方が大きかったように思う。無惨を倒しても死んだ者は生き返らない。この手からこぼれ落ちててしまったしあわせはもう戻らないのだ。
 皆ひどい怪我を負った。だがそれだけではない。強大な力の代償は大きく、痣が発現した者たちは余命幾許も残されていなかった。もちろん炭治郎も例外ではなく、むしろ一番早くに痣が発現し身体を酷使したせいで最初に病床に伏したのが炭治郎であった。仲間たちや妹、師に看取られて迎えた最期は、自身としては存外満足なものだったと言えた。心残りがあるとすれば禰豆子の晴れ姿が見れなかったことと、兄弟子に想いを告げられなかったことだ。
 炭治郎は自分と妹の命を救い守ってくれていた冨岡義勇を密かに慕っていた。けれど想いを伝えることなく生涯を終えてしまった。本当は、死ぬ前に炭治郎に会いに来てくれた際に告げようとしたのだ。けれどもし今伝えて何になるのかと思いとどまった。義勇に負担をかけてしまうだけではないか。あの人は優しいから、きっと炭治郎の想いを抱えたまま余生を過ごしてしまうかもしれない。そう思うととてもじゃないが言えなかった。
 そういう未練があったからなのか、平和な現世に生まれ直した今の炭治郎に流れ込んできた記憶の数々。だがこの記憶は本当のものなのか、炭治郎は確かめる術を持たなかった。
 だって、記憶を持っていたのは炭治郎ただ一人だったから。
 禰豆子も他の家族にもまったくそんな様子は見られなかった。入学したキメツ学園の中等部で再び出会えた前世の友人たちも、炭治郎が声をかけて、ようやく“はじめまして“だった。
 だからもしかすると、この記憶は炭治郎が生み出した妄想なのかもしれないと思いかけたときであった。栗花落カナヲと今世で再会を果たしたのは。
 彼女は二年生だった為、入学して数日経ってようやくカナヲがいることを知った。ひと目見ることができて良かった、と微笑んだ炭治郎と目が合ったカナヲが、信じられないものを前にしたかのように目を瞠って、ぽろぽろと涙をこぼした。炭治郎は慌てて駆け寄りカナヲの手を引いた。周りがざわついているのも構わず人気ない場所に行くと、本当にカナヲなのかと尋ねた。
「うん……うん……!!炭治郎も、炭治郎なんだよね…っ?」
「ああ、…っ、ああ…!!」
 カナヲも炭治郎と同じなのだとすぐに理解した。目頭が熱くなって耐えきれず、炭治郎はわんわんとみっともなく泣いてしまった。カナヲもそれにつられてしまい、二人して瞼が腫れるまで泣き続けた。
 ようやく落ち着いたときには、とっくに授業が始まっている時間で。けれどとても教室に戻れそうにない顔をしている自覚のあった二人はその場にとどまって、色んなことを話そうと決めた。
 炭治郎が死んでからの前世のこと、今世で彼女が胡蝶姉妹と再会して再び家族になれたこと、炭治郎も今は家族と暮らしていること。堰を切ったように話題は尽きなかった。
 初めて出会えた同じ境遇の人間は、想像以上に心強く、孤独感から救われる思いであった。その日から炭治郎にとってカナヲは唯一無二の存在になったのだった。

 高等部に上がったカナヲから、教師陣に元柱の面々がいることを聞いた。けれどやはり、誰も記憶を持った人はおらず、なんとなく予想できていたことだけれど少なからず二人は肩を落とした。
 そして教師陣の中には義勇もいるのだと聞かされたとき、炭治郎は静かにはらはらと大粒の涙を流した。我に返って涙を止めようとするもちっともままならない。そんな炭治郎に、カナヲは何も言わずただそばに居てくれた。
 記憶はなくとも、また義勇に会えることが嬉しかった。その気持ちが雫となって溢れてしまったのだ。
 突然泣いてしまったことを詫びると、カナヲは首を横に振った。
「ううん、私も同じ…だったから…」
「同じ…?」
 伏し目がちに答えた彼女に炭治郎はつい聞き返した。カナヲは前世を思い出すように遠くを見つめながら口を開く。
「あの頃、師範のことが好きだったの……もしかしたらあれは崇拝に近かったのかもしれないけれど…」
「……そう、か」
「でもね、今は幸せ。師範たちとまた暮らせるなんて思わなかった」
 そう言ってこちらを向いたカナヲの表情は晴れやかで、本当に幸せだと感じているのが窺えた。炭治郎は心の底からほっとする。彼女は自分の想いをきちんと昇華して今を生きているのだ。
「強いなぁ、カナヲは……」
「そんな顔しないで。…私の師範への想いよりも、炭治郎が水柱様へ向ける想いの方がずっと大きかったからだと思うの」
 ──だから、諦めないでね。
 緩やかに口角を上げて、カナヲはそう締めくくった。その気持ちを無下にはできなくて、炭治郎は義勇へと想いを馳せる。無愛想に見えてその内は優しい心の持ち主だった。きっとそれは今世でも変わらないのだろう。早く彼の姿が見たくて、炭治郎は胸を膨らませた。たとえ記憶がなくとも仲良くなれるのは今の善逸や伊之助、玄弥が証明している。ならば義勇だって、教師と生徒という立場であるとはいえ打ち解けることができるだろう。
 そう自分を奮い立たせると、未だ中等部の生徒であることがもどかしくて仕方なかった。





 高等部に上がった炭治郎は想像とは違う形であったものの、思ったよりも義勇と接する機会には恵まれた。
 というのも、中等部では父の形見と弁明すれば見逃されていたピアスを、毎朝外せと迫られているからだ。スパルタ教師である男は竹刀を持って追いかけてくるのだから炭治郎は必死の形相で逃げ回った。普通に怖い。もはや打ち解けるどころの話ではなかった。
「善逸!ぎ、…冨岡先生は俺と仲良くしてくれるだろうか!?」
「はぁ?え?なんて?なんで俺に聞くの?」
「だって善逸は風紀委員じゃないか。いいなぁ、俺も入りたい」
「まっっっじで言ってる!!?代われるモンなら代わりてぇよぉ……!!」
 朝、服装チェックの為に校門に立った善逸からチェックを受けながら話しかけると、唾をとばす勢いで怒鳴られてしまった。しょんぼりと項垂れると奇異の目を向けられてしまう。
「えぇ…?炭治郎お前本当に変わったヤツだな……?あの人誰に対してもあの調子だから人と仲良くするとか全然想像つかないよ…」
「む、そうなのか…ありがとう善逸」
「おい、何を喋っている」
「ゲッ」
「冨岡先生!おはようございますっ!」
 噂をすればなんとやら。お喋りに興じていた善逸を咎める為か、反対側でチェックを行っていた義勇がこちらへやってきた。善逸は口元を引き攣らせた一方、炭治郎はにこにこと笑顔を浮かべて挨拶をする。義勇は炭治郎に一瞥をくれただけで、あとは隣の友人へと注意は逸れてしまった。
 善逸はああ言うけれど、やはり炭治郎にとっては羨ましい限りだった。風紀委員であれば話すこともあるだろうし、話せなくても毎朝ここで義勇の姿を見続けることができる。掃除が趣味だからと美化委員に入ったのが今更ながらに悔やまれる。いいなぁ、ともう一度心からの本音が口からこぼれ出たのは無意識であった。
「……」
「…え?何が?」
 それが聞こえていたらしい二人が困惑を隠せない表情で炭治郎を見つめていた。二つの視線を受けて首を傾げた炭治郎だったが、傍から見た己の姿が注意を受けている者へ羨むもののそれだと気づき、あっと声をあげた。
「いや、違うんだ!ちが…わないこともないけれど!違うんだ!」
「炭治郎……その、悩みとかあるなら聞くから……」
「…疲れているのか」
「いえ!元気です!」
 炭治郎は大声を張り上げると慌ててその場から逃げだした。
 二人に誤解を受けるような真似をしてしまった。特に義勇からは校則を破るうえに変人というイメージを植え付けたかもしれない。盛大にやらかした。炭治郎は情けなさで泣きそうになった。長男だからなんとか耐えたけれども。
 これではおかしい奴だと避けられて、ますます義勇と顔を合わせるチャンスはなくなるだろう。それともピアスを外せば多少は口を利いてくれるだろうか。しかしそれで接点が切れてしまえばただの一生徒としてで終わる気がした。
 今の炭治郎と記憶のない義勇との繋がりは、とてもちっぽけなものなのだと分かってしまった。
(父さん…、ごめんなさい…)
 ピアスに触れると、からん、と耳慣れた音が鳴った。これがあれば義勇は炭治郎を気にかけてくれる。歪だけれど今はそれに縋るしかない。善逸が言うにはどうやら他の教師ともあまり交流がないようで、まるであの頃と同じではないかと前世の義勇を思い出してしまう。
 自分は柱に相応しくないと告げた義勇は、水の呼吸を極めなかった炭治郎を突っぱねた。あんなに実力があったのに、それでも炭治郎が水柱になるべきだったと言われたときにはひどく驚いたものだ。その後ひたすらに義勇の後ろをついてまわって、ようやく口を開いた義勇から聞いたのは錆兎とのこと。まさか錆兎が義勇の友人だとは思わなかった。けれど、だからこそどうして錆兎から託されたものを繋いでいかないのかと尋ねたのだ。
 だって彼は義勇の後ろ向きな思いなど一蹴してしまうに違いないから。義勇には負けるだろうが、炭治郎だって半年の時を錆兎と過ごした時間があるのだ。義勇のことをよく知らない炭治郎が唯一言えるひとことだった。ピクリともしなかった間に義勇が何を思ったのか。それを炭治郎が知る機会は終ぞ訪れなかったが、元気づけようとしてざるそばの早食い競争を持ち掛け一緒に食べに行ったし、そのあと義勇が柱稽古に参加すると言ってくれたのは嬉しかった。
 炭治郎にとって前世の記憶はつらいものもあるが、楽しいこともたくさんあった。周囲に不審な目を向けられないようこっそりと笑いをこぼす。
(あっ!そうか、前みたいに根気強く話しかければいいんじゃないか…!?)
 名案だと思った。前だって諦めずにいたおかげで心を開いてくれたのだ。今回も炭治郎が折れなければ好機はあるかもしれない。
 むん、と意気込んで拳を握る。そうと決まれば早速行動あるのみだった。
 その日の昼休みから、炭治郎はひたすらに義勇に話しかけるようになった。何か手伝うことはないかとしきりに尋ねたり、自慢の自家製のパンを持ち寄ってすすめたり。周囲にはそんなことしてもピアスは見逃してもらえないぞと苦笑気味に提言されたが、アプローチに見えていないことに安堵しながら笑って誤魔化した。
 しかしそんな炭治郎の努力も虚しく、毎回校則を破る生徒とは話さないの一言でバッサリと切り捨てられ、昔とは違う立場の差を前にすっかり参ってしまった。義勇の言うことは尤もで反論の余地がない。どう考えてもピアスを外さない炭治郎が悪く、前のようにはいかないなあと落ち込む日々だった。





「炭治郎はさ、どうしてそんなにあの人にこだわるわけ?」
「…え?」
 心底理解に苦しむといった表情でこちらを見る善逸に、どう説明したものかと炭治郎は天井を仰ぎ見た。
 前世から好きな人だから。それを知っているのは当然カナヲだけだ。記憶のない皆には何故あのスパルタ教師に構うのか不思議に思えてならないだろう。けれど炭治郎にとって義勇の存在は特別なので、こればかりは譲れない。このまま何もせずに卒業して離れてしまうくらいならば、精一杯足掻いてみたかった。
「ったく、炭治郎にはカナヲちゃんがいるのにさ!あんな美人な彼女を放っておいてお前は…」
「ま、待ってくれ!何だそれは!?」
「えっ……そのままの意味だけど、」
 聞けば炭治郎とカナヲの仲はかなりの噂になっていたらしい。最初に再会したときに炭治郎がカナヲを何処かへ連れて行ったことから始まり、よく二人でいるところを見られていたりといつの間にか炭治郎の知らないところでとんでもない話になっていたそうだ。
「おまけに二人が一緒にいるときって、なんかこう、長年過ごしたみたいな空気が漂ってるし」
「まあ…そこはあながち間違いではないけど…俺とカナヲは恋人ではないよ。ちょっとした仲間、みたいな…」
「ふーん…?」
「カナヲには悪いことしちゃったなぁ……」
 前世ではしのぶが好きだったと告白した彼女。今は気持ちを整理したばかりでそのようなことは考えていないかもしれないが、カナヲには今度こそ好きな人と幸せになってほしいと願っている。だからもし炭治郎との噂が何かの妨げになっていたのならば申し訳ないことをしてしまっていた。自分のことばかりでちっとも周りを見れていなくて、炭治郎は自らの不甲斐なさを顧みて眉尻を下げた。
「あ、いや、炭治郎がそんなに落ち込むことはないと思うけどね!?」
「…ありがとう善逸」
 余程情けない顔をしていたのか、善逸が慌てて慰めてくれた。この友人は聴覚に優れているから、聞こえてくる音も合わせると見ていられなかったのかもしれない。その優しさが嬉しくて、炭治郎はへにゃりと相好を崩した。だが善逸からはどこか悲しみの匂いがして、炭治郎は首を傾げる。
「……ずっと言えなかったけどさ、炭治郎からはいつも切ない音がするんだよ。だからカナヲちゃんがいてくれて良かったって思ってたんだけど…違うん、だな…」
「善逸……」
「よく分かんないけど、あの人がその音の原因ってなら……頑張れよ」
「ああ…善逸は本当に優しいな」
「え!?そ、そんなんじゃないよ〜もぉ〜ウフフ」
 前世からそうだった。最後の最後まで、義勇に想いを伝えなくていいのかと物申したのが善逸と、そして禰豆子だった。炭治郎は義勇への気持ちを誰にも言っていなかったのだが、二人には見透かされていたらしい。善逸は音でバレバレだったと言っていたし、禰豆子は妹だから分かるよ、と笑っていた。
 二人はまるで自分のことのように泣きながら炭治郎の幸せを願ってくれた。けれどそれに力なく首を横に振ったのは他ならぬ炭治郎自身だった。結局炭治郎の意思を尊重して引き下がってくれたが、それでも表情からは納得がいかないと不満げな気持ちがありありと浮かんでいた。
 前世の記憶はないはずなのに、変わらず炭治郎の背中を押してくれる友人には頭が下がる思いだ。
 気分上々な善逸を微笑ましく見ながら、炭治郎は心の中でとある決意を固めていた。

 その日の放課後、炭治郎の姿は生徒指導室にあった。今日の追いかけっこは義勇に勝利を譲ってしまい、ピアスは没収されてしまっていたのだ。それを取りに来た炭治郎は現在義勇にため息混じりの小言を貰っている。彼の視線はどうせ明日もまたつけてくるんだろうと語っていて、炭治郎は後ろめたさに明後日の方向を見つめるしかなかった。
「お前は……ピアスをつけているということ以外は優等生なのにな」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
 せめてもの償いで学校を出てからつけ直そうと決め、ピアスをポケットに仕舞う。義勇も話は終わりだとでも言うようにくるりと椅子をまわして身体を背けたが、炭治郎はあの、と口を開いた。
「冨岡先生は…俺のことがお嫌いでしょうか」
「…………は?」
 突然何を言い出すのかと目を丸くする義勇を気にかける余裕もなく炭治郎は続ける。
「その、俺が頻繁に声をかけることをどう思っていらっしゃるのか知りたくて…」
「……どうして俺なのか、とは思っているが」
 少しの沈黙のあと、義勇はこちらを見ないままぽつりともらした。夕陽に照らされる室内で、場違いにも義勇の横顔に見惚れる。炭治郎は無意識に喉を鳴らしていた。
 意を決して口を開く。どうしてもこれだけは伝えようと思っていた。
「ぎっ…冨岡先生は覚えていないでしょうが、俺は…先生に恩があるんです」
「俺に…?」
 身に覚えのないであろう炭治郎の言い分に、義勇は怪訝な顔をした。
 義勇の記憶がなかろうと炭治郎の想いは変わらない。もし今世で恋が成就しなかったとしても、ずっと好きでいると断言できる。前世から積み重なった想いはそれ程大きくなって、とても炭治郎一人では抱えきれない。しかし恋人でもない、ましてや前世の記憶すらない彼にそれを打ち明けるなど論外であった。
 だったらせめてこれくらいは、となんとか絞り出した言葉だったが、義勇は目を伏せ首を横に振った。
「…人違いだ」
「っいえ、そんなことはっ…!」
「俺には全く覚えがない。そんなもの忘れろ」
「…っ、」
「もう、必要以上に話し掛けるな」
「と、」
 伸ばしかけた炭治郎の手は義勇に触れることなく不自然な位置で止まった。義勇は拒絶の匂いを纏っていて、炭治郎はこれ以上言葉を紡ぐことができなかった。今にも涙が溢れそうなのを俯くことで隠しながら踵を返して、震えそうになる声を必死に抑え、なんとか挨拶を告げて生徒指導室を出る。
 廊下に人の気配がないことを確認すると、もう駄目だった。ぽたりぽたりと床に滴る雫に、ぼんやりと滲む視界。声を押し殺して、炭治郎は泣いた。
 誰よりも義勇本人に否定され、炭治郎は胸が張り裂けそうな思いだった。
 間違いでなければ、炭治郎が前世への思いを募らせ言葉にした辺りから拒絶の匂いが強くなったように感じられた。一体何が彼の不興を買ったのか分からない。けれど義勇のあの、冷たい深海のような暗い青の瞳は炭治郎の心を怯ませた。
 ゆるりと足を動かす。このまま扉の前で立ち尽くしていても良いことはない。とにかくこの場から立ち去らなければいけなかった。
 教室に鞄を取りに戻ると、逃げるように校舎を飛び出した。



  ◇  ◇  ◇



「…ただいま」
「おかえり!お兄ちゃん…えっ!?顔!どうしたのっ!?」
「えっと、その、…砂が、目に入ってしまって、……ごめん、兄ちゃん今日はもう休むよ」
 帰宅した兄に声をかける為に振り返った禰豆子は、泣き腫らした顔をしている兄を見るなり狼狽して駆け寄った。だが兄は嘘なのが見え見えな誤魔化し方で、早々に部屋にこもってしまった。
「お姉ちゃん……お兄ちゃん、どうしちゃったの…?」
 とぼとぼと去っていく項垂れた背中を呆然としたまま見送った禰豆子は、不意に手を引かれ我に返った。禰豆子の手を不安げに握っていたのは花子で、その隣には弟たちも揃っていた。
 兄が大好きな弟妹たちはいつも帰宅するなり甘えにいっていたから今日もそのつもりだったはずだ。しかし見慣れぬ兄の姿に驚いて物陰から出てこれずにいたのだろう。
「もしかしたら風邪気味なのかも。私が様子を見てくるから、夕飯の支度あと任せてもいい?」
「うん!」
「はい、ホットミルク作ったから。兄ちゃんによろしく」
「わっ、竹雄気が利く…!ありがと!」
 マグカップを渡され禰豆子は兄の私室へ急いだ。
 父が亡くなったときでさえ気丈に振る舞っていたあの兄が、あそこまで憔悴してしまうなんて余程のことがあったに違いない。
 きっと兄は放っておいてほしいのだとは思う。けれどここで黙って見守っていたら何か取り返しのつかない事態になってしまう気がしていた。そんな記憶はないのに、前にも似たようなことでとても後悔した覚えがあるのだ。悲しくて悔しくて、けれどいくら願っても時は巻き戻ってくれなくて。せめて次があればと神に祈った。
 それは、突然蘇ってきた。
(………ああ、ああ……そうか、わたし、)
 ──鬼にされちゃったんだ。だけどお兄ちゃんが命懸けで私を人間に戻してくれて。それで、それで。
 鬼を倒して今度こそ幸せに暮らせると思ったのに、兄の余命は既にあとわずかだった。それでも兄はいつも笑顔を絶やさなかった。そんな兄には想い人がいて、相手は兄妹二人の恩人である人だった。
 名を冨岡義勇といって、兄は禰豆子が鬼であった間に過ごした日々のことを楽しそうに話してくれた。そのときの笑顔で兄の想いを悟ったのだ。
 嬉しかった。家族が殺され禰豆子が鬼になっていても、悲しいことばかりではなかったのだと知れたことが。兄を導いてくれた存在がいたことが。
 人間に戻ってから何度か会った際に、幸いにも彼も兄のことを少なからず想っていることが察せられ禰豆子の心は浮き立った。たとえ少ない時間だとしても、二人は結ばれてくれるのではないかと期待した。
 だが、兄は想いを伝えることを良しとせずそのまま逝ってしまった。
 まるで何も未練はないとでも言うような安らかな表情の兄の亡骸を見つめる藍色の瞳は、確かに悔恨の色が滲んでいたことを、禰豆子はその目で見ていた。
 もう、二人の悲しい顔は見たくなかった。
「お兄ちゃん……っ!!」
 扉を叩く禰豆子の声は震えていた。次から次へと溢れてくる前世の記憶に、先程から頭はズキズキと痛みを訴えている。しかしそれは些末なことに思えた。今はただ、兄の姿を見て安心したかった。
「……っ禰豆子……?」
「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ、お兄ちゃんっ!」
「ね、ずこ……?」
 異変を感じ取ったのか、そろりと開けてくれた扉を押しのけるようにして兄に抱きついた。マグカップを慌てて支えてくれた兄のシャツを涙で濡らしてしまった。わんわんと泣き止む様子のない禰豆子に、兄はおろおろと焦ってひたすら頭を撫でて続けてくれていた。
 ようやく落ち着いて顔を上げる。元気づけようとしていたのに逆に宥められてしまった。兄には果たして前世の記憶はあるのだろうか。中学三年生にもなって、突然兄の前で泣き出した妹に呆れてはいないだろうか。
 しかし兄の目を見た瞬間、その疑問はすぐに解けていった。
「……そう、か。禰豆子、思い出したんだな……」
「ぅ、ぁ……っ、…おにいちゃっ……」
「禰豆子…また、俺の妹になってくれてありがとう…っ!」
 涙が枯れるくらいに泣いたかもしれない。禰豆子は兄の部屋で二人、横に並んで座っていた。右手は強く兄の手を握りしめている。こうしていないと何処かへ行ってしまうような錯覚に陥ってしまって落ち着かないからだ。
 兄は幼い頃から記憶があったこと、今の世で前世のことを覚えているのはおそらく兄と兄の同期であったカナヲだけだということ、けれどあの頃の仲間たちは皆キメツ学園にいることを聞いた。
 同級生の錆兎と真菰は禰豆子の友人なのだが、前世では兄と同門の剣士であったらしい。さらに随分と世話になった覚えのある鱗滝は高等部で用務員をしているし、記憶はなくとも善逸や伊之助とも友人になったから今度会いに来るといい、と語る兄は本当に嬉しそうで、禰豆子もつられて笑った。
 しかしたくさんの人々の話題が出るなか、不自然にもある男の名が一向に出てこない。前世ではあれ程口にしていた名をまったく出そうとしない様に、禰豆子は兄の涙の理由を察してしまった。
 だから、禰豆子の方から口を開いた。
「……お兄ちゃん、冨岡さんと何かあったんでしょ」
「…………やっぱり、禰豆子にはお見通しかぁ」
「お兄ちゃんの嘘が下手なだけだよ」
「そ、そうか…」
 苦笑を浮かべながら頬をかく兄。ここで禰豆子が後押しするのは簡単だ。けれど兄のことを考えるととてもできそうになかった。
 幼い頃から前世の記憶があって、だがそれを共有できる者がいない世界はどれ程不安だっただろう。キメツ学園に入ってようやく仲間を見つけても、好きな人は兄のことを覚えていない。
 前向きで強靭な精神力を持つ兄はきっと、それでもめげずにあの人と関わろうとしたに違いない。しかし、多分、その結果が。
 一口も飲まずに冷めてしまったミルクの揺れる水面を見つめる。飲み物は温め直せばいい。では、冷めてしまった関係は。せっかく平和なこの世界で再会できたのにどうしてあの頃のようになれないのだろう。禰豆子も記憶が戻ったのだからあの人もそうならないのだろうか。禰豆子の祈りは神に届かなかったのか。
「私には軽々しく頑張って、なんて言えないけど、冨岡さんも記憶が戻るといいね…」
「どうだろうなぁ……カナヲも昔からあったようだから、最近戻ったっていうのは禰豆子が初めてだし」
 寂しげな横顔に堪らなくなって、禰豆子は声のトーンを上げて一つ提案をした。
「……私、明日は錆兎と真菰を連れて高等部に遊びに行くね!」
「それは…っ!嬉しい、なぁ」
 少しでも兄の気持ちを晴らす為にできることは極わずかだったけれども。真菰たちに会えるのだと思った兄は顔をほころばせてくれたから、禰豆子は少しだけ安堵したのだった。


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