何度だってその手を取ってみせるから02



 義勇を見るあの赫灼の瞳は、いつも義勇を見ているようで違う遠くの誰かを写している。だから、あの少年から向けられる視線は嫌いだった。

「竈門くん、うちのカナヲととっても仲が良いんですよ」
「……」
 度々義勇を揶揄してくる女子生徒の胡蝶しのぶは、今日もまた突拍子のないことを発言した。
 義勇と胡蝶の視線の先には、中庭のベンチに座り談笑している件の二人。職員室への移動中にふと目にした、なんてことない穏やかな光景だった。
「でも付き合っているのかと聞いてもそういうのじゃないから、って…。あのカナヲがすぐに名前で呼ぶものだからてっきり恋人だと思っていたんですけど、冨岡先生はどう思います?」
「………知らん。何故俺に聞いた」
「先生もあの二人を気にしているようでしたから」
 義勇は眉根を寄せると、くるりと踵を返した。生徒同士の健全な異性交遊に首を突っ込むなど無粋な真似をする教師が何処にいるというのだ。義勇が二人の関係を気にしているなど馬鹿げたことあるはずがない。近頃の竈門は義勇の言葉を受けて、寄り付かなくなっただけだ。この現状が義勇の求めていた平穏なのだ。それを今更恋しく思うなど、有り得ない。
 そう、どの面下げて隣にあの少年がいないことが寂しいなどと宣うことができようか。そんな虫のいい話は何処にもないのだった。

 やけに義勇に喋りかけてくる生徒だった。校則違反をしながらも生徒指導を担当する義勇に笑顔で接してくる様は図々しいとも言える性格をしていた。そんな、無愛想な義勇にも懐いてくれていた生徒を邪険にした。
『もう、必要以上に話し掛けるな』
 心無いことを言って遠ざけたのは義勇の方だ。
 言い過ぎたと気がついたのは竈門が生徒指導室を出て数分後のことだった。扉を開けて辺りを見回しても当然少年の姿は見当たらず、何も弁解しないまま一週間以上が過ぎていた。
 あの日以降竈門は登校時にピアスを外すようになり、義勇が声をかける理由はなくなった。ピアスをつけること以外何も校則を破っていない竈門は優等生であるのだ。担任でもないのでこれでもう関わりはほぼ途絶えたことになる。
 けれど義勇は、ふとした瞬間いつも赤みがかったふわふわと揺れる頭を、からからと音を立てるピアスの音を探している。
 そもそもどうして竈門に苛立ちをぶつけてしまったのか、その理由が自身でもよく分からなかった。確か、そう。竈門が義勇に恩があると言ったことがきっかけだった気がする。あの言葉で、やはり少年は義勇を見ていなかったのだと確信が持てた。だって義勇は少年が入学するまで竈門に会ったことはない。だから竈門の言う人物とは、人違いであるはずなのだ。間違いは早々に正してやる方が良いに決まっている。思い違いをして義勇にかける時間など無駄だ。早くその恩人とやらを見つければいい。
 そう思っているのに義勇を見つめる真摯な目を思い出すと、つきりと胸が痛んだ。竈門は本当に義勇と会っていて、忘れているのは義勇の方なのではないかと、そう思わせられる。しかしだったら何故義勇の記憶には全くあの少年の姿がないのか、説明がつかない。
 竈門と関わりがなくなってから、義勇の日常は平穏どころかずっともやもやとした燻りを抱えたままであった。





 そんな日々を過ごしていたとき、竈門が倒れたと聞いた。職員室で同僚の煉獄と宇髄が話しているのをたまたま耳にしたのだ。胸がざわつき居てもたってもいられなくなった。次の時間は授業が入っていないことを確認すると、義勇は職員室を出て早足で保健室へと向かった。
 そろりと音を立てないように室内に入ると、養護教諭の珠世は不在のようで静かだった。
 閉じられたカーテンの向こうからかすかに人の気配がする。義勇はどうして自分がこんなことをしているのかも分からず戸惑いながらもそっとカーテンを開けた。
「…っ、」
 すやすやと穏やかな表情で眠る少年の姿を目にした瞬間、背筋がヒヤリとした。鼓動が早くなり呼吸が乱れていく。ずきり、と頭痛が走った。刹那、義勇の思考は暗闇の中に放り出された。

『義勇さん』
 誰かが呼んでいる。義勇の名を紡ぐその口は、義勇がただ応えただけでゆるりと口角を上げるものだからいじらしいことこの上ない。もっと望んでくれればいいのにと思ったけれど、義勇から何か行動することはなかった。
『ぎゆうさん、』
 義勇を呼ぶ声は日に日に弱々しいものになっている。数日前に訪れたときには縁側で日向ぼっこをしながら会話をしたのに、もう布団から起き上がることすらも厳しいようだった。ここ最近で少年の身体は急激に弱っている気がする。
 この少年は義勇よりも若いまま先に逝ってしまうというのか。まだ、伝えていないことがあるのに。
『───』
 義勇が呼んでも少年から返ってくる言葉もなければ、ころころとよく変わる表情を浮かべていたその顔も、今はにこりともしない。
 虫の知らせに、義勇が屋敷へ駆けつけたときにはもう間に合わなかった。少年は眠るように息を引き取っており、囲うように座る少年の妹と友人たちが嗚咽をもらしていた。その光景を呆然として見やる義勇。とても現実を受け入れられず、目の前の出来事をまるで蚊帳の外から見ているような感覚に陥っていた。
 気を遣われたのか、皆が出て行き義勇と少年の二人きりにされた。そっと頬を撫でるとそこは既に体温が失われつつあり、少年の魂はもうここにいないことを悟ってしまった。
 少年のことを好いていた。少年は立ち止まることなくただひたすらに前へ進み続けた。妹を元に戻す為、鬼を滅する為、刀を振るった。その前向きさに救われた。少年がいなければ義勇は友の言葉を忘れたままだったから。
 なのに義勇はそれを口に出すことなく、伝える機会は失われた。
 臆病だったのだ。関係が変わってしまうことが恐ろしくて、ならば何も言わなければいいのだと思っていた。
 けれどそれは間違いだった。少年を喪って分かった。人は死ねば終わりなのだと、身をもって知っていたはずなのに。
 一言、たった一言だけでもいい。少年に想いを伝えることができていたのなら、今の義勇の気持ちはきっと随分違っていただろう。
 ぽとり、ぽとりと布団に染みができていく。いつしか義勇は泣いていた。声もなく涙をこぼしながら、冷たくなった少年の手をとった。そしてそのまま手の甲へと唇を落とす。
『───、愛している』
 最後に誰にも届かぬ想いを告げると、義勇はふらりと姿を消した。
 それから間もなく少年の後を追うように、人目につかない山奥の小屋でひっそりと世を去った。

 愛おしくて切ない夢を見ていた。目を覚まして次第に視界が明るくなる。最初に感じたのは温かさだった。それは義勇の頭を何度も往復している。だんだんと意識がはっきりしてくると、義勇は勢いよく上体を起こした。いつの間にかベッドに突っ伏していた眠ってしまっていたようだ。眼前には不自然な位置に右手を固まらせた竈門炭治郎がいた。
「お、おはようございます。起きたらぎ、…冨岡先生がいらっしゃったので驚きました」
 あれ程義勇から遠ざけるようなことを言ったのにそばにいることを笑って済ます竈門を、義勇は不可解に思った。
「……腹立たしくないのか」
「え?」
「自分から話しかけるなと言っておいて、俺はここに来ているだろう」
「ああ…確かにあれはショックでしたけど……そんな匂いをさせている先生を放っておけませんよ」
「匂い…?」
「冷たくて寂しい匂いがするんです」
 そう言って真っ直ぐに義勇を見つめる少年。間近で目にしてようやく、今までずっと嫌いだと思い込んで逃げていたその瞳は本当に義勇のことを思い遣ってのものだったのだと、今このとき初めて気がついたのだった。
 しかしそんな少年の方こそ迷子のような表情をしていて、それが無性に気にかかる。どうしてそんな顔をするのか。原因は義勇に関係があるのか。その疑問は聞いても答えてくれないことは、なんとなく感じ取れた。
「だからどんなに拒絶されたって、先生から寂しい匂いがする限りはどんなことがあっても離れません」
「……!」
 ざわざわと心が揺すぶられる。先程の夢の中の少年と姿が重なって見えた。あれは一体何だったのか。竈門の表情の理由はこの夢にあるというのか。夢のことを鮮明に思い出そうとすると頭痛がしてきて上手くいかない。だが何としてでも思い出さなければならないと義勇の本能が告げていた。
「あんなことを言ってしまってすまなかった…ずっと、謝りたかった」
 あれ程意固地になって言えなかった謝罪がするりと口から出た。こんなに心優しい健気な生徒になんと大人げない態度を晒してしまったのか。義勇は己を恥じた。
 竈門はふるふると首を振ると、目を細めてもういいんです、と呟いた。
「また、俺と話してくれればそれで」
「……それだけ、なのか」
「俺にとってはそれが一番なんですよ」
 そのときの少年の微笑みが義勇には眩しく見えた。トク、トクと不規則に心臓が跳ねる。それに気づかないふりをしながら感謝の言葉を述べたのだった。



  ◇  ◇  ◇



 禰豆子を介して錆兎と真菰の二人と再会した。もちろん再会だと思っているのは炭治郎だけだが、生きている二人と会えることがどれ程の奇跡なのか、炭治郎は一人感動を噛みしめていた。一瞬でも気を抜けば泣いてしまいそうだったけれど、相手からすれば初対面の人物が泣く程感動すれば引かれるに違いないので、なんとか堪えてその場を凌いだ。
 おかげで炭治郎の心は少し回復した。そして、他の方法を考えようと思えるくらいの心意気にはなっていた。
 しかし炭治郎には恋愛の駆け引きとやらの知識は全くなかった。さてどうしたものかと頭を悩ませていたところであった。

「いらっしゃいませ…あっ、甘露寺さん!」
 手伝いとして竈門ベーカリー店内にいた炭治郎は、ドアが開かれた音に顔を上げると見知った顔だったことに自然と表情が和らいだ。
 甘露寺蜜璃。あの時代でも竈門兄妹を応援してくれている心強い存在だった。柱に上り詰めた実力は本物で、甘露寺がいなければ危なかった場面はたくさんあった。現在は近所の芸術大学に通っており、竈門ベーカリーのパンを気に入ってくれてからはすっかり常連客であった。
 ちなみに、もちろん甘露寺にも前世の記憶は存在しなかった。
 そんな彼女は常日頃どこかに好い人はいないかしらと呟いており、恋に夢見る女性だと炭治郎は認識していた。
「こんにちは炭治郎くんっ!」
「今日はまだたくさんあるので安心してくださいね」
「ごめんね〜っ!気を遣わせちゃって…」
「いえ!気にしないでください!」
 今も変わらず食欲旺盛な甘露寺は、以前店内の棚をすっからかんにしていったことがあった。夕方だったので少し早めに閉店するだけで済んだのだが彼女は未だにそのことを気にしているようで、むしろこちらが申し訳なくなってしまう。
 量が多いのでトレーに載せる作業を手伝わせてもらいながら、炭治郎はふと閃く。甘露寺に恋愛のいろはを教授してもらうのはどうだろうか。ちらりと盗み見た横顔に照れくささを覚えながらも、ええいままよと勢いに任せて口を開く。
「あ、あの、甘露寺さん…少し相談に乗ってもらえないでしょうか…?」
「あら〜どうしちゃったの?いいよいいよ!なんでも言ってみて?」
「えっと、その、」
 炭治郎は好きな人がいるが相手にされていないこと、おまけに態度が冷たくてお手上げ状態だと現状を掻い摘んで話した。甘露寺は一語一句に微笑んだり頬を染めたり悲しんだりと反応しながら真剣に聞いてくれた。炭治郎はパンを袋に詰めながら、恋愛って難しいんですね、とため息を吐いてしまった。
「あっ、すみません…お客様の前でため息つくなんて俺…」
「ううん、いいのよ。…そうね、恋ってキラキラしてるものかと思えば辛くて苦しいことも多いのよね。偉そうにアドバイスなんて言えないけれど…炭治郎くん、押してダメなら引いてみろ、よ!」
「押してダメなら、ですか?」
「ええ、そう!」
 甘露寺は力強く頷くと、炭治郎の手を取った。その近さに思わず狼狽える。
「そうすればきっと相手もワーッとなって関係もぎゅーんで、バババーッて解決だわ!」
「なるほど…!!」
 甘露寺の明快な説明に、ドギマギしていた心も忘れて炭治郎は目を輝かせた。どれ程効果があるのかは分からないが、このまま大人しく引き下がるような諦めの良さはあいにく持ち合わせていない。
「じゃあねー!頑張って!応援してるからね!」
「はい!ありがとうございました!」
 ぶんぶんと手を振りながら、パンの入った大きな袋を抱えて帰っていく甘露寺を笑顔で見送る。
 無意識にピアスに触れながら少しだけ考える仕草をすると、炭治郎はむんと頬を膨らませて意志を固めた。





「一週間が経ったけど……何も変わっていない気がする……」
「炭治郎……」
 中庭のベンチに腰を掛け、炭治郎はションボリと肩を落としていた。隣ではカナヲがあわあわと手を彷徨わせている。どう声をかけるべきか考えあぐねているのかもしれない。
 甘露寺のアドバイスを受けて、炭治郎はまずピアスを外してみた。そして話しかけにいかなくなった。が、これはそもそも義勇から告げられたことなのでほとんど効果はないだろう。
 義勇の匂いを少しでも嗅ぎとれば遠回りをしてでもすれ違うのを避け、とにかく徹底的に義勇の視界に入らないよう行動した。流石に分かりやすすぎたのか、こうしてカナヲにも何があったのか口を割らされ心配されている。
 その結果は、炭治郎の方が音を上げていた。
 甘露寺を疑うわけではないが、本当にこの作戦で上手くいった恋人たちがいるのか、炭治郎は甚だ疑問であった。
「無理、しないでね…」
「ありがとうカナヲ……。そういえば情けないことに善逸言われて知ったんだが、俺たちが特別な仲だと噂されているんだって知ってた?」
「そうなの?私も知らなかった。……あ、そういえば師範が炭治郎とはどういう関係なの?って聞いてきたのはその噂があったからなのかな…」
「ええーっ!?しのぶさんの耳にも届いてたのか!?ごめんな…」
「私は別に構わないけれど…」
 ふ、とカナヲが後ろを振り向いた。その横顔からは何かが見えたのだと読み取れる。炭治郎も首を傾げて同じ方向を見てみたが、窓に人影があることくらいしか分からなかった。
「カナヲ?誰かいたのか?」
「…ううん。気の所為だったみたい」
 視線を炭治郎へ戻したカナヲはにっこりと微笑んだ。だから炭治郎もそうなのか、と納得して特に気にとめることなく話は流れていった。





 昼休みももう終わりを迎えようとする頃、次の授業が移動教室だった為に炭治郎は伊之助と共に別棟の校舎への道を歩いていた。先程食べた弁当のおかずが満足だったらしい伊之助はご機嫌で自慢している。ホワホワしている友人に良かったなぁと相槌を打ちつつも、炭治郎の気分はなかなかに暗かった。
(……このまま何も起こらず俺が卒業して、そのまま縁も切れたり、するんだろうか………)
 どんどんマイナスな方へ向かっていく思考でぼんやり過ごしていたから、炭治郎は飛んでくる野球ボールに気がつかなかった。
 頭に直撃して辺りが騒がしくなったと感じたのは一瞬だった。だんだんと薄れゆく意識のなかで聞こえてきたのは伊之助の三太郎と珍しく焦ったように呼びかける声で、俺は炭治郎だと返したところでぷっつりと意識は途絶えた。

 目を覚まして最初に目にしたのは白い天井と締め切られたカーテン、室内に充満する薬品の匂い。炭治郎が寝ているのは保健室のベッドだと理解するのに時間はかからなかった。
 のそりと身体を起こそうとしたところで、炭治郎はのしかかる重さにようやく気がついた。そして、薬品の匂いに混じって炭治郎の鼻腔を擽ったのは水のように澄んでいて凛とした、よく知る匂いであった。
「えっ…!?義勇さん!?」
 思わず驚いて名前を呼んでしまいすぐに口を塞いだものの、呼んだ相手はどういう訳かベッドに突っ伏して眠っており、今の声で目を覚まさなかったことにほっとする。
 炭治郎が気を失っている間に何が起こったのか切に気になるところだが、炭治郎は現状を存分に堪能することにした。滅多に見る機会のない義勇の寝顔をまじまじと見つめる。炭治郎の好きな蒼色は閉じられ見ることは叶わないが、眠っていても整った綺麗な顔に釘付けになる。
(……あれ、なんだか、)
 寂しそうな匂いがする。
 くん、ともう一度嗅いでみてもやはり炭治郎の気の所為ではなかった。
 それは前世での義勇が纏わせていたものと酷似していて。だからだろう、吸い込まれるように義勇の頭へと手をかざしていた。おそるおそる撫でるように触れる。あの頃から触れてみたいとずっと思っていたそれは存外柔らかな触り心地で、炭治郎は思わずにへらと頬をゆるめてしまう。
 しかし義勇の纏わせる匂いですぐに気分が萎む。どうしたのだろうか、今までこんなことはなかったのに。せっかく鬼の存在しない平和な現代なのだから義勇にはそんな思いをしてほしくない。もしも悲しい夢を見ているのならば炭治郎が取り除いてやりたい。
 そんな祈りを込めていた炭治郎は、ぴくりと動く気配に肩を震わせた。慌てて手を引っ込めようとした瞬間に義勇が身を起こした。宙に浮いたままの手をどうすることも出来ず、ぎこちなく笑いかける。
 すると、義勇は腹立たしくないのかと問うてきた。それは彼が炭治郎を拒絶したあの日のことを言っているのだとすぐに悟った。
 炭治郎には義勇に憤りを覚えるなどとそんなこと、思いつきもしなかった。湧いてくるのは悲しみと、それでも失うことはない義勇への愛おしさばかりであった。
 それに加え先程の義勇を思い出すと胸が締め付けられるのだ。あんなに泣きたくなるような匂いをさせる義勇を放っておけないと強く思った。懸命に訴えると気持ちは届いたようで、義勇の表情がふっと緩んだ。目を伏せた義勇は謝罪を口にした。すまなかった、と言う義勇の姿に、炭治郎の胸に突き刺さっていた棘がするりと抜けていく感覚がある。
 だから炭治郎はすぐに許してしまった。口を利いてくれればそれでいいと、本当にそう思った。
 驚いている義勇を前に、炭治郎は甘露寺のアドバイスのおかげで仲直りできたのかなあと考えていた。
(次会ったときにお礼しないと…!)
 それで、一緒に喜んでくれるといいな、なんて想像してひっそりと笑った。





 今日の夕飯担当の禰豆子から豆腐を買ってきてほしいと頼まれた炭治郎は近所のスーパーへと足を伸ばしていた。最近開店したそこは安く買える物が多い庶民の味方で、竈門家もよく通っている所だった。
 休日の今日は一日ずっと家業の手伝いをして過ごした。自慢のパンを客が楽しそうに選んでいる光景が好きで、それを眺めては元気を貰っている。
(母さん、そろそろ次の新しいパン作らなきゃって言ってたなぁ…禰豆子にも声を掛けて一緒に……あれ、)
 前方に見覚えのある黒髪が揺れている。炭治郎はあっと声を上げて、その背中に駆け寄った。
「冨岡先生!」
「……竈門か、」
 いきなり背後から突撃するような勢いで話しかけた為、義勇はびゃっと一瞬身を固まらせた。驚かせてしまったと自身の声量を抑え、問いかける。
「何処に行かれるんですか?」
「夕飯の買い出しだ」
「俺もなんです!もしかしてすぐ先のスーパーですか?ご一緒しても?」
 しばらく思案するように宙を見ていた義勇だったが、こくりと頷いて承諾してくれた。
 炭治郎はすっかりはしゃいで、道すがらあれこれと話に花を咲かせた。今日の夕飯は何にするのかと尋ねることからから始まり、普段の弟妹とのやりとりやパン屋に訪れる面白い常連客のこと。ほとんど炭治郎が喋っており、時折義勇が一言挟むといった形だったがこの間までの炭治郎への態度を考えると雲泥の差だ。それが嬉しくてさらに口が回ってしまう。
 買い物を済ませると、今度は帰り道を二人で歩く。空は橙色に染まり、夕陽が義勇の横顔を照らしている。元々綺麗な顔をしているから一段と映えて見える。こっそりと盗み見ながら今の義勇の好物をさりげなく聞き出してみる。
「冨岡先生は何がお好きですか?俺はタラの芽が好きです」
「……鮭大根だ」
「鮭大根!」
 変わらないなぁ、とは声に出さず呟きながら炭治郎は笑う。
 このやりとりが炭治郎の記憶にあるものとあまりにも似通っていたものだから、気が緩んでつい呼んでしまったのだ。
「義勇さんは、……あっ、」
「……ッ!?」
 いつもすんでのところで飲み込んでいた名前を誤魔化しようもなくはっきりと口にしてしまい炭治郎は顔を青くした。どうにか誤魔化そうと炭治郎は思考を巡らせるが、焦っているせいか何も思い浮かばない。
 ふと、義勇が言葉を発していないことに気がついた。もしかして聞こえていなかったのではないかと期待を込めて顔を上げると、頭を抱え苦悶の表情を浮かべた義勇がいた。炭治郎ははっと息を呑んで義勇に呼びかける。
「先生!?どうしたんですか!?」
「……ぅ、あ……」
「どうしよう…救急車…!」
「…ッか、まど、」
 怖くなって携帯電話を取り出した炭治郎だったが、必要ないと拒んだのは義勇だった。そして切れ切れに何かを伝えようとするので、炭治郎は大人しく従い耳を傾ける。
「先生…?」
「……なまえ、」
「え?」
「もう一度、名前を呼んでみて、くれないか」
 義勇の懇願するような瞳に戸惑いながらも、炭治郎はゆっくりと口を動かした。
「ぎゆう、さん、」
「もう、一度」
「義勇さん…」
 顔つきから察するに、徐々に意識がはっきりしていっているようで炭治郎はひとまず胸を撫で下ろした。しかしどこか違和感を覚えて眉をひそめる。まるで、そう、目の前の男が炭治郎の記憶の奥底にある冨岡義勇そのままのような。
「……炭治郎」
「っえ、」
 気づいたときには炭治郎は義勇の腕の中に抱き込まれていた。ぶわりと広がる義勇自身の香りに頭がくらくらしてくる。
「義勇、さん……?義勇さんなんですか……?」
 もしかしてと絞り出した声は震えていた。
「ああ、そうだ」
「な…、なんでこんな急に、思い出しちゃうんですかぁっ…!!」
 嘘だ、これは夢なのか。炭治郎は信じられない思いでいっぱいだった。けれど義勇の匂いが、声が、表情が、炭治郎を包み込む全てが現実なのだと告げていた。
「駄目だったか」
「駄目じゃないですけどぉ…!!…うぅ…っ、」
 炭治郎は赫灼の丸い瞳から大粒の涙を次々に溢れさせる。もう諦めかけていて、記憶なんかなくてもまた炭治郎に心を開いてくれた。これから義勇に振り向いてもらうのだと、決心しかけていたのに。
 頬を伝う雫を義勇の指が拭ってくれた。そこでようやく距離の近さを意識してしまい、炭治郎は身体を跳ねさせた。
「ま、待ってください!義勇さん、あの、ちょっと近くないですか!?」
「何故。俺はお前が好きだから何も問題はないだろう?」
「はっ!?…はひ…」
 ずい、と迫られ耳元に吹き込まれた言葉に陥落させられ、林檎のように顔を真っ赤に染めて即答してしまった炭治郎だったが数分後に冷静になってまだ自分が気持ちを伝えていないことに気がついた。すぐさま告白して交際を申し出ると、義勇も目を見開いて思い至ったようにハッとして、受け入れてくれた。聞けばすでに両想いになっていたつもりだったらしい。確かにあんなに泣いて、義勇の腕の中にいたとはいえ炭治郎からもぎゅうぎゅうに抱きついていればそう受け取られても仕方ないかもしれない。互いに羞恥でしばらくの間奇妙な沈黙が生まれてしまったことは、後々笑い話にできたらいいなと炭治郎は未来に思いを馳せた。
 だから二人が前世から想い合っていたことを知ったのは、それから随分と経ってからであった。





 義勇はここのところずっと、ぼんやりと夢を見ていたそうだ。それが前世の記憶だと分かったきっかけというのが、炭治郎が呼んだ義勇の名だったと教えてくれた。
 だが最初に思い出した光景というのが、炭治郎が死ぬ前後のことらしく、聞いたときには何も言えなかった。義勇が記憶を取り戻したことが果たして良かったことなのか、炭治郎は思い悩んでしまった。
 思えば記憶のない皆がこうして楽しく過ごせているのはひとえにつらい出来事を覚えていないからなのではないか。だったらもう、思い出す人がいない方が良いのではないかと思うことも増えていた。

 義勇とのことをカナヲに伝えると、彼女は自分のことのように涙を流しながら祝福してくれた。炭治郎の心の支えになってくれたカナヲには感謝してもしきれない。せめて何か返せることはないだろうかと廊下の窓際でぼんやり考えに耽っていると、ちょうどしのぶが通りかかった。
「あら、竈門くんではないですか」
 三年生で先輩であるしのぶだが、カナヲを通して今世でも知り合いになっている彼女は目が合った炭治郎に対してにっこりと微笑みかけた。手にはいくつかの瓶を持っていることから薬学研究部室へ向かう途中なのだと知れる。
「こんなところでどうしたんですか?冨岡先生に何か言われました?」
「ち、違います。……何故冨岡先生を?」
「だってあんなに仲がよろしいじゃないですか」
 ふふ、と妖艶な笑みはすべてを見透かしていそうで、炭治郎はこっそり冷や汗を流した。慌てて話題を変えようと口を開く。
「あの、カナヲとのことなんですけど…胡蝶先輩の耳にも噂が届いてた、って…」
「ええ。せっかくあの子にも好きな人ができたのだと姉と喜んだものですが…」
「わああ!なんか色々すみません…!」
「君なら任せられると思ったんですけどねえ」
「いえ!俺にはとても……」
 炭治郎の言葉に何を思ったのか。しのぶはしばし炭治郎の方を見つめると、さっと踵を返した。その背中が行ってしまう前にと焦った炭治郎の口から出た言葉は、傍から見ればあまりにもおかしなものだった。
「あのっ…!胡蝶先輩、カナヲのこと…その、よろしくお願いしますっ!」
「…ふふっ、おかしな竈門くんですね」
 案の定、首だけをわずかに振り向かせたしのぶはくすくすと笑いをこぼす。炭治郎は己の発言を顧みてかすかに頬を染める。
「えっ!?あっ!ううっ、すみません急にこんなこと…」
「全くですよ。あの子と何年一緒にいると思ってるんですか」
「そ、そうですよね」
「だから安心していいんですよ、炭治郎くん」
「はいっ!!…………えっ?あれっ?いま、俺のことっ、」
 今世では慣れない彼女からの呼ばれ方に炭治郎は驚いて問いかけようとした。しかし彼女は蝶のようにひらりと音もなくそのまま去っていってしまった。ぽかんと間抜けな顔をさらして思案する。もしかして、彼女も記憶が戻ったのだろうか。
 誰もいなくなった廊下をじっと見つめていた炭治郎の背後に、そっと気配が近づいた。
「…炭治郎、」
「どうしました?義勇さ…」
 掛けられた声に炭治郎が振り返ると、どこか不安そうに瞳を揺らす恋人の姿があった。纏っている匂いからはかすかに嫉妬をしていることが感じられる。それに気がついたとき、炭治郎はぱちぱちと目を瞬かせた。
「……もしかして、妬いてます?」
「…………周りが記憶のない者ばかりだったから、お前が栗花落を特別に感じているのは分かっている…が、……複雑だ」
 はあ、と深くため息を吐いて顔を覆ってしまった義勇に炭治郎は笑いを堪えきれなかった。
「…ふっ、あははっ」
「いくらでも笑え…」
「違います義勇さん、これは嬉しくて笑っちゃっただけです」
 決まりが悪そうに目を逸らしてしまった義勇。拗ねてしまう前にと距離を詰め、ぴったりと寄り添う。校内なので触れ合うことが出来ない為、残念ながらこれが限界であった。
「記憶が戻ればそれはまあ嬉しいんですけど、あの頃はつらいことも多かったので思い出さない方がいいのかも、と考えてたんです」
「だが…少なくとも俺は、戻らなければお前のことを…」
 好きにならなかったかもしれない、と苦しげに呟く義勇。優しい彼は少し前のことを思い返しては落ち込んでしまうのだ。こればっかりは炭治郎が励ましても難しい問題だった。
「でもほら、記憶がなくたって縁があるのはこの学園が証明してますよ。それに俺はどうしたって義勇さんを諦める気はなかったので」
 炭治郎の宣言に、義勇は意表をつかれたのか驚いた顔をした。まあきっと、かなり手強くて何度も折れそうになるだろうが、それで諦められるのならばきっと前世の記憶なんて残っていない。こんな炭治郎に惚れられた義勇には観念してもらうしかないのだ。
「重いでしょう?なんせ百年モノなので」
「……そうだな。だが、」
 顎を掬われ、一瞬の間に唇を奪われた。
「もう俺も同じだ」
「〜〜っ義勇さん!ここ学校…!」
 さっきまでへこんでいた癖に、と頬を膨らませるも義勇はわずかに口元をゆるませるだけで。結局は炭治郎がすぐに許してしまうことを分かってやっているのだから、義勇はずるい大人だ。
 意趣返しに炭治郎も背伸びをして義勇の頬へ口付けて、人気のない廊下を走って逃げたのだった。



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