実る過去と枯れる未来‐1
センシハルト帝国は、クジェス共和国の北東に位置する。国土は彼の国より広く有しているが、鬱蒼と生い茂った木々が深い森を成し、人が住まうに相応しい土地は両国と同程度の面積だった。
いつが始まりだったか、辿る物好きは皆無に等しい。隣国の定めとでも言うべきか。争いの火種は常に燻り、十数年前までは“次の夜明けと共に開戦する”などと毎晩囁かれ、国境沿いには殺気立った兵が常駐されていた。
だが、黒の落日ーー黒獣が大量に発生したあの日を境に、両国の関係は急変する。流れ、失われた尊き血と引き換えに、手を取り合い黒獣討伐に尽力すると誓い合った。
「これは両国共通の危機である。母なる国土、罪無き国民、尊き歴史の為、我々が地に伏すなど許されはしない。貴殿等の良識でなく、恐怖心に問おう。誇りでなく、欲に。クジェスの騎士として問おう。ーー今、為すべきは」
紙の上で条約が締結され、兵の連携や物資の供給がより円滑に行われるよう、部隊には数多の補強が施された。一筋の炎で焼き切れる条文に、様々な思惑が籠められた。
醜き人の心に最善を問い掛けた男は才を如何なく発揮し、クジェスの頂へと登り詰めた。
黄金に白銀が並ぶ。センシハルトとクジェス、二対の光彩が瞬く様は美しい。それが有限であると怯える程、目映さに目が眩んだ。
「侮ってはいけないよ。彼の白銀は、騎士が掲げる剣の色だ」
いつかの声が脳裏を過る。
ーーなれば、貴方の黄金は。慢悔の念すら打ち消す、崇高なる王笏(おうしゃく)の色。血に塗れた剣をも叩き落とす、権威の象徴。
「鐘が鳴るぞ! 皆門へ向かえ!」
朝露が、落ちた。兵の咆哮に、鳥の声に、静寂が薄明の空へと追いやられる。月毛の愛馬が鬣を揺らし、今か今かと催促するように嘶いた。
研究員は五名、そこに八名の護衛が付く。メピート遺跡までは凡そ三日の道程だ。山を一つ越えるが、滞在期間を加味してもそれ程大規模な調査隊ではない。
「ヴァルハ様、出立の準備が整いました」
兵の声を受け、馬の背へと跨がった。待ち切れない様子で鳴く愛馬の喉元へ手を添えてやれば、張り詰めた筋肉の感触が伝わって来た。鎧越しでも、その雄々しさは霞まない。
「御苦労。山麓まで一気に走るが、馬の体調は」
「万全です。日和も、申し分ないかと」
「ああ、願ってもない。空読み達の日頃の行いだろう。礼を言わねば」
「貴方達の健在こそが彼等の、我々の、皇帝陛下の望みです。どうか御無事で」
手綱を引き、馬が研究所の裏門を潜る。本来ならば表の城門から出発する物だが、今回は勝手が違っていた。最小限の人数と装備で、人目を避け密かに全てが進められる。
研究所周辺の人影は数える程だった。擦れ違う者は誰しも事情を察しているのだろう。頭を垂れ、後は何も口にせず去って行く。ヴァルハの背後には研究員と彼の部下である騎士が、地面に見えない線が引かれたかのように、整然と並んでいた。
「だっ、だからっ、話を聞いて下さいよ所長ぉ!」
「お前等に任せるっつってんだろーが、頑張れ頑張れ」
「そんなの無茶ですよぉ!!」
調和を乱す雑音が、すぐ後方で発生する。高く調子の外れた音と低く耳障りな音。騎乗したまま見下ろせば、号令を出したにも関わらず、地に足を付けたままの男が呑気に笑っていた。
青緑の髪。眼帯に覆われた左目。その特徴に溢れた男の前で、三つ編みを揺らしながら少女が喚く。二人は同じ、国立研究所の制服を纏っていた。
「所長殿。出立の時刻となりましたが、何か?」
「あー? はっ、こんな時だけ仰々しく喋りやがって。嫌味な奴」
髪と同じ青緑の瞳が、無遠慮にヴァルハをねめつける。外套を羽織り、軽い足取りで自分の馬へ飛び乗ると、男は謝罪の一つもないまま隣へ並んだ。青駁毛の馬は、退屈そうに鼻を鳴らす。不遜な態度まで主人と瓜二つで、心底、腹が立つ。
男ーーヴィレン・ザディネルと会話していた少女は尚食い下がろうとするが、別の研究員に制止されていた。
どうせヴィレンから留守中の面倒事を押し付けられたのだろう。心底、同情する。
「おら、とっとと出ようぜ騎士団長様」
湧き上がる罵声を腹の底へと沈めた。この男に、真摯な態度も真っ当な反論も必要ない。
朝日が昇る。稜線に日の金粉が振り撒かれ、山影の暗幕が平原を包み込んだ。次の鐘が鳴る頃には、天上はこの髪と同じ青に染まるのだろう。
鳥が飛び立った。馬が一斉に嘶いた。蹄が大地を穿ち、静寂が打ち破られる。
「皆、またこの地へ戻ろう。まだ見ぬ祖国の歴史を携えて」
「所長! ヴィレン所長ぉ!」
「いい加減引っ込めニノイ! 踏まれっぞ!」
先陣を切って、馬と共に囲いを飛び出す。これだけの人数で移動するのも、長くて昼前までだ。彼等を無事目的地へと送り届ければ、一つ目の目的は達成される。その後は、単騎でひたすら駆け続けなければならない。
目指すはクジェス。
白銀と血色に塗れた、忌むべき隣国。
空に、彼の人の想いを見る。
晴天の最も美しい青。彼が身に宿した色は、その清廉さと高潔さを体現していた。何処までも高く空を駆ける姿に、二度と訪れぬ自由の影を見る。
勇猛果敢な天空の青鷲。舞い上がる為と風の中に囚われ、それでも、望んだ通りと高らかに声を上げる。
聳え立つ塔の天辺で、届かぬ声を文字にした。淡い光の筋が宙に伸び、潰えた声の代わりに彼を追う。
ーーどうか、貴方の望みを他に見付けて。
光が続々と文字の形を成し、ほんの少しだけ風に惑い、朝焼けの中へと流れ行く。隣国まで届くだろうか。欠片でもいい。黒と赤に塗れるあの青を、守る力の欠片となれるのなら。
届け。届け。同じ風に乗って、いつか。祈りを込め、何年経っても変わらない、か細い指先を再び滑らせた。
ーーどうか無事で。ヴァルハ。
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