第二話「迷える手駒‐2」
汗だくのまま熱せられたコンクリートに転がっていると、靴底を蹴られる感触。首を上げる気力もなく、眼球だけを足元に向けると、そこには自分と同じように汗をかいたアルベルトが立っていた。
「おー……訓練、終わり? ごくろーさーん……」
さっきまで散々叫んでいたせいか、口元が上手く動かない。アルベルトは束ねていた髪を解くと、それでも暑いのかパイロットスーツのファスナーを開けた。コックピットの中は空調が効いていて快適だろうが、一歩外に出れば、機嫌の良い太陽が容赦なく分厚いパイロットスーツを照らす。
「スクワット百回だって?」
「にひゃっ、かーい……」
「アホか。アホだろ。一般空軍相手の挑発に乗ってんじゃねぇよ。万が一手ぇ出してたら、スクワットだけじゃ済まねぇぞ」
靴音が爪先から頭の上に移動し、間髪入れず顔面に液体がブチまけられる。思わず上半身を起こせば、引きつった太ももや背筋が悲鳴を上げた。髪に絡みついた透明の液体が、コンクリートに染みを作る。
突然の行為に目を剥いたが、それがペットボトルから零れた水だと悟り、脱力する。
「水っ、かよ……! 普通に飲ませてくれって!」
「甘えんな気色悪ぃ。口には入ったろ」
蓋の閉まったペットボトルが足の間に落とされる。四分の一程しか残っていない水を、とりあえず半分喉に流し込んだ。残った半分を、今度は自分の意志で頭から被る。
「頭冷やしとけ」
火照った身体が、水とアルベルトの言葉で冷やされて行く。なまじ顔が整っているだけに、無表情で見下ろされると、頭が勝手に居心地の悪さを感じてしまう。
空になったペットボトルの底を膝に乗せ、飲み口に額を押し付ける。瞼を下ろせば数時間前の諍いが浮かんで来た。
一般空軍、特に非戦闘部隊の人間には、IAFLYSを毛嫌いしている者が多い。同じように戦闘機に乗り、国防軍加盟国を防衛しているはずなのに。
特殊部隊と銘打たれれば差別感情が芽生えてしまうのか。一部の「選ばれた人間」が入隊していると聞けば、妬んでしまうのか。
ジャックファルには理解出来なかった。
どんな条件での入隊にしろ、空へ上がれば皆同じだ。あそこは優遇だの何だので辿り着ける場所じゃない。空軍の整備班に属していながら、そんなことも分からないのか。
抱いた鬱憤が思わず口に出て、騒ぎを大きくしてしまった。
「だから俺一般空軍との合同演習嫌なんだよ」
「知らねぇよテメェの都合なんざ。IAFLYSの整備士ならそれくらい流せ」
冷静に反論され、愚痴すら吐き出せなくなる。唇を尖らせれば「気持ち悪ぃ」と一蹴された。弁明を諦め、脱ぎ捨てていたタンクトップを手繰り寄せてから立ち上がる。
「見つかったのが班長で良かったな。俺だったら腕立て追加してた」
意地悪く笑うアルベルトを見て、また身体から熱が消えて行く。場を和ませようとしたのではない。本当に、アルベルトにあの言い争いを目撃されていたら、立ち上がる余裕もないくらいしごかれていただろう。
カードの罰ゲームで全裸になっていたのが見付かり、走り込みと腕立て二百回スクワット百回を言い渡された苦い記憶が蘇る。
その時はゴミを見るような目で罵られたが、今も今で、向けられる銀色は身を切るように冷たい。
理由もなく咳払いをしてみた。すると、何の前触れもなく、腹に拳を沈められた。的確に急所は外したようだが、力を抜いていた腹筋は引きつるように痛み、自然と吐き気がこみ上げて来る。
気が付けば触れそうな距離にアルベルトの瞳があって、息が詰まった。
「テメェの意見でキレるってんなら話は分かるが、俺等への罵倒を理由にするんじゃねぇ。ハッキリ言って胸糞悪ぃ」
吐き捨てるように告げられた不満は、ジャックファルの心臓に真っ直ぐ突き刺さる。
今回あの整備士達から発せられたのは、IAFLYSの戦闘機パイロットに対する鬱憤だった。同じ部隊の所属とは言え、ジャックファル本人に向けられた物ではない。あの場面でわざわざ反論する利点など、皆無に等しかった。
「パイロット本人よりお前が過剰反応してどうすんだ」
アルベルトの右手が、腹から頭に移動する。一度緩く叩かれ、水滴が足元へと落下した。
「んー……うん、ゴメン」
「終わったんならとっとと戻れよ。サボったら今度こそやられるぞ」
アルベルトが踵を返せば、腰近くまである銀髪が空中にカーテンを作り出す。自分の物とは真逆の真っ直ぐな髪。昼前の日差しに貫かれ、眩しい程の輝きを帯びていた。
「午後から会議だっけ?」
「そうだよ。あのクソジジイ共、人使い荒くて嫌になる」
「ジャンも一緒だよな。アイツ研究所から行って間に合うのか?」
垂れ下がっていたカーテンが、また風に靡く。
凄まじい速度で振り返ったアルベルトは、勢いを殺さないままジャックファルに詰め寄る。あまりの剣幕に、喉の奥から悲鳴が漏れた。
「研究所!? 誰が!? ジャンがか!?」
「なっ、何怒ってんだよ! ジャンがフェルディオ連れてったって同期から聞いたんだよ! あー、ほら、昨日一緒にいた、紫の目の――お前が助けたヤツ!」
「ふざけんなあの糸目、勝手なことしやがって!」
アルベルトはジャックファルの返答を待たず、先程向かっていたのとは別方向に走り出した。
待つように叫んでも無視される。本当はこの話こそちゃんとしたかったのに。ジャックファルは乾いた喉に生唾を流し込み、腹の底から声を張り上げようとした。
「フェルディオは、こっちに何も関係ねぇよな!?」
普段から迷惑がられる大声が、こんな時に限って上手く出て来ない。
俺が知るか、ジャンに聞け、そんな罵声が返って来るかと思ったのに。アルベルトはジャックファルを一瞥しただけで、無言のまま滑走路から走り去って行った。
目的の予想が付くのか。付いた上で、どうしてそんなに瞳を歪める。
別に、自分はパイロットではないのだから。
アルベルトの言う通り過剰な反応だと分かっているのだけれど。
舞い降りるな。もうこれ以上、得体の知れない選別を、起こさないでくれ。
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