第九話「嘘つき達の空中戦‐1」
何だ、これ。
呆然と立ち尽くすその足から、冷たさが駆け上がって来る。ここは氷河の上かと、途方もなく頭の悪い感想が浮かぶ程度には、混乱しているのだろう。
夕闇の中に見慣れた背中を見送って。フェルディオは、自らを包む物のほの暗さを痛感していた。
「もうジャックファルには構うな。アレは、ーーフェルディオ?」
声すら、その存在の予感すら、脆弱な背中に深々と突き刺さる。
名を呼ぶ彼女の、ビセンテの前で自分は言ったのだろう。ーー色々変化してるのが、怖い。今まで通りじゃなくなるのが、怖い。平穏以上に恋しい物なんてない。なくなるのは絶対に嫌だ。
ーーそんな我が侭を子どものように吐き出した。
そして今、よりにもよってジャックファルにも、心配するフリをして自分は何と言った?
「……さっむ」
「は?」
「ビセンテちゃん、俺、本当に寒いね」
ビセンテがどんな顔をしているのか、振り返らずとも見えるのに。
ジャックファルがどんな顔で去って行ったのか、例え追い縋ったとしても理解出来なかっただろう。
見ようとしていなければ、眼前に答えがあったとしても、きっと白んで消えてしまう。都合の良い性質だけを振りかざしても。まるで善人のように振る舞っても。
気付かれている。少なくとも彼等には。今の自分が流す涙も浮かべる笑顔も、何もかも、
「ーー白々しい……」
ああ、だから。
だから、ずっとそうだったんだ。
「いったい、ホントに痛いって! 痛いっつってんだろ馬鹿力!!」
捕獲さえた猫よろしく首根っこを掴まれ、引きずるようにして運ばれる。あまりに屈辱的な体勢だが、アルベルト相手ではどうしようもない。しかも彼は今、分かりやすく言えば「怒っている」。しかも、とても。
「次耳障りな声出したら舌ブチ抜いてやる。黙ってろ」
地の底で沸き立つマグマのように、高温でありながら滞った熱が伝わって来る。舌は無理でも歯くらいなら本当に抜かれてしまいそうだ。
抵抗を止めたお陰で幾分か歩きやすくなったが、アルベルトの指はしっかり襟首に巻き付いている。偶に足並みを乱せば、容赦なくうなじを圧迫された。
「俺が哀れに見えてんのか?」
「……」
「何か言え」
「お前が舌抜くっつったんだろうが、喋れるかよ」
「腰抜け」
理不尽極まりない罵倒に憤る間もなく、今度は尻が蹴り上げられた。眼前にそびえるのは見慣れた扉だ。
「鍵開けろ」
「……開けるだけでいいの?」
「頭沸くのは全部吐いてからにしろ。とっととやれ」
何が悲しくて、自室の扉を、こんな緊迫した状況で開けなければならない。上着から取り出した鍵を差し込み一回転させれば、先にアルベルトが扉を開け放ち、ジャンを部屋の中に押し込んだ。
床に打ち付けた膝を、鈍い痛みが襲う。背後で扉の閉まる音がして、それはジャンにとっての死刑宣告だった。
「連絡取れてんのか」
部屋が明るくなるより早く、質問が投げ掛けられる。
椅子を支えに立ち上がったジャンは、ひっくり返ったゴミ箱を片付けながらも素直に返答した。
「ここ最近全く。そりゃ、上は取ってるだろうけど。それだけ今回の事は軍にとっても僕にとっても重要なの。半生つぎ込む程度にはね」
「……そこで終わらせようと思ってんじゃねぇだろうな」
アルベルトの瞳が、鋭さを持って瞬く。この、刃物だとか弾丸だとか、何かと物騒な物に例えられる双眸で、今までいくつの命を捉え墜として来たのだろう。
元々良好な関係とは言い難かったけれど。とうとうこの眼光に射られる日が来たかと、身震いした。
アルベルトには他の人間より余程事情を説明している。だからこそ容赦がないのか。どちらにしろこの関係は避けられなかったのか。十二歳の頃に戻って、全てを騙し直さなければ答えは出ない。
「囮になるのはジャックファルとお前だな。答えろ。俺はヨニ隊長程優しかねぇぞ」
ーー何の必要が。
引き絞った唇が、衝動のままに吠えようとする。堪え、微笑むと、反比例するようにアルベルトの表情が険しくなった。いつだってこんな顔だ。ジャンと向かい合う時の彼は、いつも。
「安心してよ、別にそこ把握してなくても、今回お前と僕は間違いなく別部隊に振られるからさ。僕の行動でそっちの作戦が混乱する恐れは、」
後頭部と喉を、挟み込むように痛みが襲う。
ジャンを壁に叩き付けても尚、アルベルトはその喉元から手を離そうとしなかった。パイプ椅子と抱擁しかけ、首根っこを掴まれ引きずり回された挙げ句、最後はこれか。
酸素の欠乏し始めた脳が、馬鹿の一つ覚えよろしく警鐘を鳴らし続ける。
「言ったよな、優しかねぇって。ーー二度目だ、ジャン」
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