第一話「青の撃鉄 銀の翼‐5」
確かに空の中にいた。
溺れそうで怖かった。確実な死の気配に、狂ってしまいそうだった。
なのにどうして、こんなにもこの心臓は冷え切っている。
撃鉄が鳴らされたのなら、命を奪う銀の銃弾は、一体何処へ。
安いコピー用紙が、鉛のように重く感じる。
左手が氷のように冷たい。携帯通話機を押し当てた右耳が、異様なまでに熱を帯びる。
「どう言うことだ」
『知らなーい。僕だって今見てひっくり返ってるんだから。とにかく会議にこんなの出せる訳ないよね』
「もう上官に提出してるらしいぞ」
『あーそれは大丈夫。目通す前に司令が回収したって』
スピーカーを震わす呑気な声色に、頭が痛くなる。何が大丈夫だ。あの司令官の手に渡ったなら、穏便に解決する可能性はゼロに等しい。
アルベルトは射抜くような視線を、数枚のコピー用紙に落とした。何を言っても怯える、まだ少年としか形容出来ない新米パイロット。
彼から手渡されたこの報告書は、確かに本人が纏めた物なのだろうか。疑いはすぐに姿を消す。上層部に提出する報告書を他人に書かせた? あの、言葉より叫び声を多く発する少年が?
ありえない想定。自然と自嘲的な笑みが漏れる。通話機の向こうの同僚に見られたら、いつも通り悪人面だと馬鹿にされるだろう。
「とにかくすぐ戻る。お前一通り目ぇ通しとけよ」
『もー面倒臭ーいーアルベルト面倒事持ち込み過ぎー』
「テメェには負ける。絶対負ける」
『僕のは笑える面倒事だし?』
「面倒事に種類もクソもあるか、むしろ故意な分そっちのが質悪ぃわ! もう切るぞ!」
タッチパネルを割らんばかりの勢いで叩き、通話を終了させる。付き合っていられない。どうせ向こうも頭を抱えている癖に、何故余計な会話をしようとするのか。
「……面倒事に縁があるのは、否定しねぇが」
通信機を上着にしまい、再び報告書と睨み合う。だが、視界に飛び込んで来る文章は全く変わらなかった。
一般空軍第五飛行部隊所属、フェルディオ・シスターナ。航空学校卒業時の成績は上の下。これと言って、注目するようなパイロットではない。可もなく不可もなく。一般的な優等生だったと聞いている。
現に彼は空の上で迷いを見せたし、それまでの動きも、決して褒められた物ではなかった。前評判通り。だからこそ、この事態は異常だ。
予想が裏切られるのは日常茶飯事だ。むしろ今はまだマトモな状況のはず。時間も余裕もある。備えることが出来る。なのに何故、追い詰められている感覚がして、落ち着かない。
「ありえねぇ」
無機質な紙切れから伝わって来る、どうしようもない違和感。
死を恐れる少年が。泣きそうな顔ばかり見せるあの少年が、どうやってこんな物を書いた。
抜けるような青空が意識を染めて行く。
厚い雲に覆われても、その向こうに広がる光景はいつも同じ。
夕日の赤、夜の黒、全て知っているけれど、心を占める記憶はいつだって青天だった。
子供の頃は青空が好きだった。外で思う存分走り回れるし、服を泥で汚して叱られることもない。雨の中、いちいち傘を差すのは煩わしいし、窓を叩く雨音は子供にとってうるさいだけで。
だから、ただただ好きだった。視界に飛び込んで来る澄んだ青が、いつも心を踊らせてくれた。
さて、いつまでだろう。
純粋に美しいと思えていたのは。今だって、確かにそうなのだけれど。決定的に何かが変わってしまった。
考え事をしていたら危うく転びかけた。ここ最近自分の未熟さを痛い程実感しているのに、更に間抜けな怪我を増やしてたまるか。何とか堪えて、フェルディオは再び天を仰ぎ見る。
飛行機雲が走る相変わらずの青空。自分は確かにあそこにいて、途方もない絶景の中で命を落としかけた。
ああ、怖かった。もう二度とあんな思いしたくない。ああ、それでも、やっぱりここは綺麗だ。
顔も知らない人々を飲み込み続ける、遙か彼方の戦場。
――何故? 何故まだ美しいと思える? だって、理由なんていらないのに。
痛みも、恐怖も、後悔も、確かに感じている。知っている。だから自分は、何処にでもいる、何一つ珍しくない普通の存在。
あの人達とは違う。
銀の翼を背負ったあの人達と、同じはずがない。
ほんの一瞬違和感が思考を貫いて。次の一瞬には、またいつも通りだった。
撃鉄は鳴らされたのに、放たれた銃弾の音が、何処からも聞こえない。
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