第八話「譲渡多難‐10」
最初は、そんな被害妄想のような感情。兄と、チータと同じ。だから苦手だった。
「……お前の本音は?」
遠慮なく不快さを表すビセンテに、今は安心感を覚える。同じ瞳だが、表情はチータよりもずっと豊かだ。自分に向けられたのは、どれも怒りや侮蔑を帯びた眼差しだったけれど。
「どうして俺のことそんな敵視すんの? 言うことが軽いから? だらしないから?」
ーーああ、違った。
一度だけ、別の物を、向けられたんだった。
「それとも、兄貴が生きてるのに、分かり合おうとしないから?」
亡くした兄を想って、ひっそりと泣いていた後ろ姿。
見かけたのは偶然だった。元々相性の悪かった同期が、隠れるように物陰でじっと、声を押し殺している所なんて。探したって見つけられる物じゃない。
絞り出すような声に、何もかも掴まれた。有り体に言えば同情だ。道を違えたとしても自分の兄は生きている。彼女はもう、会うことも出来ない。
下に見たのかと言われれば否定出来ない。だからビセンテも、これだけの嫌悪感を抱き続けているのだろう。きっと伝わってしまったんだ。あの時触れた部分から。
「ジャックファル、お前、やっぱりおかしいぞ」
「おかしいおかしい。すっげーおかしい」
だって。紡いだ接続詞は、他人の肩に吸い込まれた。
こんなことしたくなるなんて、おかしい。胸中で発した言葉は、どうあっても固い肋骨を突き破ってはくれない。また遠くで戦闘機のエンジン音が響いた。怯える子供のように、力の籠もる体をより強く掻き抱く。
「落ち着きたいよ、俺も。だからちょっとだけ」
何を考えている、と、漏らす声が呆然としていた。音がこんなにも感情を帯びるなんて。笑い出しそうになる度、心臓が絶叫した。抱き締めた体は想像通り固い。あの日と一緒だ。同情して、とっさに引き寄せたあの小さく骨張った体と同じ。
あの時は、数秒と待たずに顔を張られて、ふざけるなと怒鳴られた。今回は少なくとも数秒以上保っているか。ふざけるな、その言葉が漏れるのはいつだろう。
手に入れてどうする。
自問自答が、その通り自分へ跳ね返って来た。
「ーーフェルディオ?」
突き飛ばさず、何とか両肩を掴んで引き剥がす。人の体温が触れていた腕は、氷が巻き付いたように冷え切った。
怒りか呆れに染まっていると思っていたのに。真っ正面から見下ろしたビセンテの顔には、あからさまな戸惑いの色が見て取れた。視線は泳ぎながらも彼方に向かっていて、吊られて肩越しに確認した建物の窓を、見慣れた赤茶色が横切る。
扉を潜り、渡り廊下を途中まで駆けて、向こうはやっとこちらに気付いたらしい。紅潮した頬が、上がった息が、フェルディオの疾走した時間を伝えて来る。
「ジャック、こんなトコに、あれ、ビセンテちゃ、」
次から次に他人の名を呼んで、フェルディオは目を丸くした。この様子を見るに、探していたのは自分か。ビセンテの肩から手を離し、ジャックファルはフェルディオと向き合った。向き合って、それでも何も言って来ないから、近付いた。
「お前……大丈夫だよな?」
「何が」
「ビセンテちゃんは、や、違う、俺が頼んで、ジャックに会いに行くのに付き合って欲しいって、それで、」
何を言いたいのか理解出来ない。
それでも、氷が、どんどん体の内側にまで入り込んで来る。
「ビセンテちゃんも心配してるんだよ! お前の方が付き合い長いし、分かるだろ? あの人は本当に嫌ってる人には話しかけもしないって! だから、俺にも何か心当たりないかって相談して、」
譲るんじゃない。
諦めるんじゃない。
相手の笑う顔の方が、大事になっただけ。
「……何、お前、俺が殴りかかろうとしてるように見えた?」
「殴っ、そこまでじゃねぇけど! 肩掴んでたから!」
と言うことは、見られていないのか。フェルディオは嘘が信じられないくらい下手だから、こんな風に噛まずに誤魔化すことは不可能だろう。
フェルディオの肩に手を置いてみた。ビセンテより貧弱な体付きだが、それでもやっぱり男だと分かる。
ああ、そうか。あれも女だったんだ。当然だけれど、忘れていたつもりはなかったのだけれど。
振り返っても、青が見つからない。夕焼けに照らされた髪は、紫のようにも見えた。瞳は、僅かにジャックファルに向いて、すぐ、伏せられた。
いつでも、ただ前だけを見据えていた彼女が。
こんな風に視線を逸らすことなんてあっただろうか。
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