4‐2
- ナノ -


4‐2


 もしも高校に入って私の心を大きく揺さぶったのが誰でも受け入れるということへの挫折だけであったなら、私はもしかすると今も見たくない自分から逃げ続けていたかもしれません。
 しかしそうはなりませんでした。
 なぜなら、高校に入ってから新しく感じるようになったことや、考えるようになったこともまた、私の心を大きく揺さぶったからです。
 そのひとつにまず、「自分はけっして一人で生きているんではないんだ」と感じることができるようになった、ということがあります。
 真っ暗な空間では、光はいつにもましてはっきりと見えるものです。
 それと同じように、高校受験が終わったというのに続く強い不安の中で、人のあたたかさがはっきりと分かったのかもしれません。
 高校は私にとって、何も想像できない、周りの人たちも知らない人たちだらけの、未知の場所でした。
 しかし私はその中で、必ずどこかで誰かが、私を支えてくれているということに気付いたのです。
 メールで励ましてくれた中学の頃の友達。
 話を聞いてくれた家族。
 学校で私と一緒に弁当を食べたり、おしゃべりしてくれたりした友達。
 高校になかなか慣れることのできない私に、優しく接して下さった先輩や先生方。
 あいさつの声をかけて下さった地域の方々。
 書いても、書ききれないくらいです。
 私はそのすべてに、今まで感じたことのないようなあたたかなものを感じました。
 そして、少しずつ、だんだんと、私はいつも本当にたくさんの人たちに支えられているんだと実感することができるようになっていったのです。
 その心は、自然と私を自分の外に向けさせました。
 私はそこで、今までも見ていたはずだったのに見えていなかった、たくさんの大切に思えるものに気付きました。
 それが、空や日差しやいきものたちであり、人の声であり、そしてなんでもない日常でした。
 それらは本当に小さなものです。しかし、だからこそ、この上ない幸せだったのです。
 毎日いろいろな姿を見せてくれる空は、私に元気をくれました。
 カエルやちょうちょ、とんぼ、道を何食わぬ顔で歩いていく猫たちなどは、彼らも生きており、私もまた生きているのだと感じるきっかけをくれました。
 人の声は、自分ではないたくさんの人たちが、それぞれの命を懸命に生きていることを思い出させてくれました。
 そして何より、人のあたたかさを感じることができ、大切に思えるものであふれた日常は、私にとってとても大切で、とても幸せでした。
 「生きている意味」なんて、今でも分かりません。
 でも、自分の生きている意味なんかにこだわらなくていい。生きているだけで幸せで、ありがたいのだと、私は思うようになったのです。
 長い間、怖くて何かに必死でしがみついてきた手を、この時少しだけゆるめることができたような気がしました。




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