あとがき H27.9.20
勉強をする意味がわからなかった。
どう考えても、日常生活には必要ないと思える事項が多い。実際には使わないし、生活していくうえで知らなくてもいいようなことを、なぜそこまで必死に勉強しなければならないのだろうか? 高校生の私は悩んだ。勉強なんて、(たまにはおもしろいこともあるけど、)なくなっちゃえばいいのに。
……そう思えば思うほど、思い返されるのは小学時代。あのころは、勉強はあったのはあったけど、内容はとても簡単で、しかも生きていくうえで必要と思える知識であった。ああ、小学時代はよかった。うらやましいぜ、小学生の自分。
だがしかし、本文をお読みのかたはもうおわかりかと思うが、小学時代は小学時代で、なかなか苦労していたようなのだ。高校時代の私は、そのころに書いた自分自身の日記でそれを思い出すことができた。数年前の記憶や感じ方さえ、刻一刻と闇に葬られてゆく。それを呼び戻してくれるのが当時書き残した文章、というわけだ。『つれづれなるままに』のあとがきにも書いたように、それが書き物をするということのひとつのよさでもある。
ところで、現在の私をご存知のかたは少し意外に思われたかもしれない。というのも、現在、私はけっこう勉強が好きで、そのことをまわりに隠してもいない。いったい、「勉強ぎらい」の私になにがあったというのか? それを解くひとつの鍵は、実は次に公開する予定の『大切な、あなたたちへ』という書き物にもある。案外、根っこのところではいろんなものに首を突っ込みたがりの私である。自分のまだ知らないことに出会うと、「それってどんなものなんだろう? どんなことなんだろう?」との興味をおさえ切れなくなってしまうのだ。そんな私の性質と勉強は、本来、わりと相性がいいものだったはずである。けれどもそれを、高校時代までの勉強でなかなか発揮できなかったのには、勉強との相性というよりも、私が勉強に対して取り続けてしまっていた姿勢が大きく関係していたように思う。苦しみながらも、そこに目を向けて書き抜いたのが、『大切な、あなたたちへ』だった。
いままた、「復刻シリーズ」として、高校時代の書き物を自分のホームページに載せていっているわけだが、このころの書き物を読めば読むほど、それは全体として、「勉強と自分に関する一考察」という一面を持っている感じがしてくる。中学時代から高校時代にかけての私は、勉強することに苦しみ、なぜ勉強をしなければならないのか、ということを自分に問いかけ続けていた。その疑問があまりにも深く、重く、そこから逃れられなかったのかもしれない。切り口はさまざまでも、無意識のうちに勉強をテーマに盛り込んで書き物をしていたことに、いまさらながら驚く。
幸運なことに、高校、大学時代を通して、私はだんだんと勉強を好きになることができた。世間一般の考えはともかく、自分自身はなんのために勉強するのか、ということにも、いまは答えを持っている。それはときに苦しみながらも、書き物を通じて、自分にとって勉強することとはどんなことなのか、ということを高校時代に見つめ直せたからなのかもしれない。
なんのために勉強するんだ? 勉強する意味がわからない。
そんなふうに思いつつ学んでいるひとは、いまこの瞬間にも、きっとたくさんいらっしゃるにちがいない。学ぶ理由がわからないまま勉強するのはつらいし、ほんとうに苦しい。私自身がそうだったのだから、その気持ちはよくわかる。しかし、勉強する理由は、自分で見つけるしかない。自分は、なんのために勉強するのか。なんのために勉強したいのか。それは、自分にしか決められず、自分にしかわからないからだ。
ただひとつだけ、私に言えることがある。それは、勉強とは、誰にとっても「敵」などではないということだ。勉強はあなたを苦しめるかもしれないが、断じてあなたに敵意を向けているわけではない。「敵」どころか、大いなる「味方」だ。勉強がどのようにあなたの「味方」になってくれるかは―― それは、ひとによってことなるけれども。
もしも勉強と仲よくなれそうにないのなら、まずはどんな方法でもいいから学ぶことを楽しんでみよう。そう、まずは楽しむことだ。テストで高得点をねらってみるのもいい。勇者になってみてもいい。すっとぼけた覚え方で暗記してみるのもいい。勉強することの意味がわからないなりに、それでも、その勉強を楽しもうとした――そのことについては、私は、過去の自分自身を褒めてやれる。楽しむという明るい視点はきっと、世界を開くきっかけのひとつになるはずだ。