あとがき h27.8.30
- ナノ -



先生の配慮 あとがき H27.8.30

 とても、なつかしい。そう、二重の意味で、とんでもなくなつかしい。
 というのも、このエッセイのもとになったのは、小学時代の思い出。そして、このエッセイを書いたのは、高校時代のできごと。今となっては、どちらも遥か遠くに過ぎ去ってしまっている。環境委員会のことを思い出すのも、「先生の配慮」を書いたときのことを思い出すのも、なんだかそうするだけでせつなくなってしまう気がするほど、なつかしいのだ。
 高校時代、文芸部に入った私は、初めて自分の作品というものを完成させ、誰かに見てもらうということをしたのだった。思えばそこが、ひとつのターニングポイントであったかもしれない。文章を書くということは、自分の思いや感じ方、考え方などを、誰かに向けて表現するということである。未完成のまま、誰にも見てもらわずに封印するのでは、文章をつづる意味が半分以上失われてしまう。そう考えると、「先生の配慮」は、私が開かれた世界に向かって書いたはじめてのまとまった文章であり、大きな一歩を踏み出した書き物、原点のひとつだといえる。あらためて自分の書いた文章を読んでみると、表記のゆれや書き方、切り出し方、まとめ方など、もっと推敲したくなってくるのだが、そこはあえて、昔自分がつづったとおりに書き置いた。読みづらいところも多々あるかもしれないが、ご容赦願いたい。これらの表現も含めて、当時の大事な記憶と記録かな、と思うしだいである。
 今では、私もいろいろなものに興味を持つようになった。本はもちろん好きだし、歴史、ことば、文学、思想、心理学、宇宙学、サブカルチャー関連……などなど、挙げていったらきりがない。興味のある分野が分散しているので、なかなかたいへんな面もあるのだが、たくさんのものを知りたいと思えるのはとてもしあわせなことである。なにより毎日が発見の連続で、おもしろい。そしてそのように、さまざまなものに目を向けるきっかけを作り出してくれたのが、きっとこの、「先生の配慮」で登場する、小学時代の恩師なのである。このエッセイは、内容についても、私のひとつの原点を取り扱ったものといえるかもしれない。
 ちなみに、環境については現在も引き続き興味がある。しかし事態はなかなかややこしく、ひとたび環境について調べだすと、180度ことなる意見同士が乱立していることもままあり、なにが正しいのか、なにを信じてよいのか、とたんにわからなくなってくる。分野の特性上、政治や経済にも深く絡み合ってくる。政経といえば、私の苦手分野のひとつである。なかなか道は険しい。
 とりあえず、「要らぬものは買わない」「買いだめしない」ように気をつけるのがもっともエコな暮らしで、すぐにできることなのではないかという自論に落ちついている。それで、私の家にはあまり多くのものはない。ものがあまりなければ、ものの管理や維持はしやすい。しかも、洗い物や掃除するもの、扱うもの、購入品が少なくなるということは、それだけ電気や水、資源をたくさん使わなくてもよくなるということでもある。……掃除がめんどうくさくて、ものをあまり買わないのではない。断じて、ない。たぶん。
 エコ検定なるものが、この日本にはあるらしい。いつか受験してみたいな、とふんわり思いをめぐらせている。

 かなりの長文エッセイだが、ここまで読んでくださったみなさんに心からのお礼を。少しでも楽しんでいただければ、現在の私も、高校時代の私も、この上なくしあわせである。
 最後になりましたが、小学校時代の恩師に、この場を借りて深い感謝の念を。ほんとうに、ありがとうございました。


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