その2
- ナノ -



先生の配慮 2

 時は私が小学五年生だったころまでさかのぼる。長かった小学時代も残すところ後一年とちょっと、というほどになった三学期。我がクラスでは、大事な小学生活最後の一年、その自分の役割を決める運命の学活が始まろうとしていた。
 そう、委員会決めである。
 私が通っていた小学校では、そのとき、六年生全員がそれぞれ各委員会に所属し学校を運営していくという形がとってあった。それなら五年生の三学期は六年生に近いといえどもまだ委員会とは無縁ではないか、というはなしだ。ところがそうではない。六年生になってから所属する委員会は五年生の三学期のうちに決めておき、引きつぎをすべく、三学期の間は六年生と一緒に行動するのである。
 そのような仕組みだったから、当然一度決まった委員会は卒業するまで変わらない、いや、変えられないわけだ。どうしても図書委員会に入りたかった私にとって、この日のこの学活はとても特別なものだった。六年生の私が泣くか笑うか決まる! というくらいの勢いで、私はこの一時間に全てをかけていたのだ。「委員会は楽そうなのならどれでもいいや」という人はわりと多かった。私だってそのような委員会に入れるにこしたことはないと思っていたが、どんなにめんどうくさい委員会でも、図書委員会の仕事ならやりたかった。実際、図書委員会は図書室の本の貸し借りを管理するカウンターの仕事や、図書新聞の発行など、わりと大変な仕事が多い委員会でもあった。でも、それでよかった。とにかく図書委員会の仕事ができれば。
 そこまでこの委員会が私を駆りたてたのには、ちゃんとわけがある。それには私が学級でやっていた係が大きく影響していた。そう、そのころから本を読むのが好きだった私は、「図書係」というちょっとマイナーな係を務めていたのだ。
 仕事は学級文庫の整理と、学級内での図書新聞の発行。あってもなくても学級はそれほど困らないという、そんな中途半端な係ではあったが、私は自分でも驚くほど一生懸命に係の仕事をやっていた。中でも学級図書新聞の発行に対する私の熱意には、驚きを通りすぎてあきれてしまう。学級新聞と仕事が重なっているんじゃないの、と言われることもあったくらい、私は頻繁に新聞を出していた。B5サイズの紙に、手書きの文字と、下手ながらも毎回自分で描いていたイラスト。内容もほとんど誰の手助けを得るともなしに、本やそれに関連する「書くこと」「読むこと」のアイデアや意見を毎号書いていた。それを一週間に三〜四枚出すのである。いろいろな理由から原稿を印刷して一人一人に渡すことはできなかったので、教室の後ろの掲示板に小さな画用紙をとめ、そこに一枚ずつ原稿をはりためていき、見たい人が自由に見られるようにしていたのだが。原稿もあっという間にたまっていってしまい、その重さで画用紙ははがれそうだった。そして私はもはやそれさえ楽しんでいた覚えがある。「本は好きですか?」「どんな本を読みますか?」といった質問の図書アンケート、新聞に登場するキャラクターの募集。図書に関して新聞の中でできることは思いつくたびにいろいろなことをやった。自分も書くことを楽しめ、そして読む人も楽しめるような新聞を作るために。
 これはもう、一生懸命やっていたというよりは、熱を上げてやっていたというほうが正しいのかもしれない。
 係は学期ごとに変わり、同じ係をやってはいけないことになっていた。係活動に思い切り力を注いでいた私にはそれが悲しくて仕方ない。最後の新聞には図書に関することは書かずに、図書係から離れなければならないさみしさと、今までよんでくれた人たちへの感謝を書いた。
 だが、ほとんど毎日頑張ってやっていた係だ。そう簡単に離れることはできなかった。三学期もやりたいという気持ちは変わらないのだ。かなわない願いだと分かっていても、すっぱりあきらめきれない。ゆううつな気持ちで三学期の係を決める学活の授業を受けると、思いもよらないことが起こった。なんと授業のはじめに、先生が特例で私が三学期でも図書係を続けることを認めてくださったのだ。私はとても驚いた。そしてそれ以上に、うれしかった。先生はちゃんと、私が頑張っていたことを見ていてくださったんだ。そして特例まで出してくださった……。そう思うと、私は三学期も一生懸命やろうと思えたし、図書係は私だったら誰よりもうまくできるだろうという優越感に似た自信を感じたのも、また確かだった。私は、本当にやっていきたいことをやらせてくださった「先生の配慮」に、ただただ感謝するのみであった。
 そのようなこともあり、私は図書館系の仕事をする図書委員会にかなりの興味を持っていたのである。この委員会に入ることができれば、もっと本にふれあう機会を増やすことができる。それに係ではなく委員会だから、クラス単位ではなく学校単位の大きな図書の仕事ができるのだ。私は、図書係の私なら、図書委員会もうまくやっていけるだろうと思った。これはもう私が図書委員になるしかない。私は自分のさだめだというほどに、そのとき強く確信した。



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