九話 朝日影

「庄左ヱ門、今から不破先輩と鉢屋先輩が帰投されるって!」

飛行兵舎にいた庄左ヱ門のもとに、彦四郎が息をきらして駆け寄る。

「本当!?」

彦四郎の言葉に、庄左ヱ門が目を輝かせた。二人は駆け足で飛行場へと向かう。

「庄左ヱ門、彦四郎、どこいくの?」

一平の問いに、庄左ヱ門は早口で答える。

「先輩パイロットの“パフォーマンス”を見に」


飛行場には既に人集りができていた。

「あ、ほら!」

空中では、二機の戦闘機がぐるぐると旋回を繰り返している。

庄左ヱ門は、目を凝らしてその様子を見つめた。

片方の機体が、鮮やかな宙返りを繰り広げる。飛行場からは歓声があがった。

続いて、今度はもう一方が宙返りを披露する。それから二機は同時に宙返りをして、互いの位置を入れ換えた。それを何度も繰り返し、滑走路目掛けて機体を急降下させる。寸分の狂いなく、二機は同時に着陸した。

「どっちが不破雷蔵で、どっちが鉢屋三郎だ!?」

飛行場で兵士たちが口々に騒ぎ出す。庄左ヱ門が腕を組んで呟いた。

「右が鉢屋先輩で、左が不破先輩かな」

軈て右側の機体の風防が開き、黒い手袋を嵌めた拳が空高く掲げられた。

「黒…右が鉢屋だー!!」

左の機体からは、白の手袋を嵌めた拳が掲げられていた。

ざわめきの中、二人の少年が操縦席から地上に降り立つ。

その顔は、まるで双子の兄弟のように瓜二つだった。

「すごいや庄左ヱ門、なんでわかったの?」

「不破先輩の宙返りは右捻り、鉢屋先輩が左捻りだから」

庄左ヱ門は得意気に微笑む。

「そのとおり!」

──鉢屋三郎、十七歳。彼は黒い手袋を口で外して、ポケットに押し込んだ。

文次郎は、飛行場にいる雷蔵のもとにずんずんと歩み寄る。

「おい不破、燃料を無駄にするなとあれほど言っただろうが!!」

文次郎は鬼のような形相で迫る。
「…で、言い出しっぺはどっちだ?」


「えっ…えぇ〜!?正直に言うべきか、黙っておくべきか…」

──不破雷蔵。彼は早々に脱いだ帽子の中に白い手袋とゴーグルを纏めて押し込みながら、唸る。

もちろん、主犯は三郎である。

「まあ潮江先輩、いいじゃないですかこれくらい」

そう言って彼はひらひらと手を振る。

「てめぇ三郎!!」

三郎は溜め息を吐き、一呼吸おいて何処か寂しげにぽつりと呟いた。


「無慈悲な世界の、せめてもの余興…でしょう?」


文次郎は眉を潜めるも、それ以上の言及はしなかった。三郎はにやりと笑って、庄左ヱ門の頭を撫でた。


**********


戦を終えた飛行兵達は、飛行兵舎で束の間の休息をとっていた。雷蔵と三郎は自室で各々読書をして過ごす。二人は、相部屋だった。三郎は戦争史を読み耽り、雷蔵は物語に夢中になっていた。軈て、三郎が欠伸を漏らして本を閉じる。

「なんだ雷蔵、君はそんな幼稚な本を読むのかい?」

絵本だろうそれ、と三郎は雷蔵の手から本を取り上げる。

「違うよ!ほら、これは小説だろ?」

三郎はその手から本を取り上げる。開かれたページの挿絵には可愛らしい妖精が描かれている。どうやらファンタジーのようだ。三郎はそういった非現実的な話を好かなかった。

…そんなもの、所詮は綺麗な夢物語じゃないか。創られたハッピーエンド、冗談じゃない。

その時、部屋の戸がゆっくりと開かれる。

「不破……ちょっといいか……」
扉の隙間から、長次が顔を覗かせ、雷蔵を手招きする。

その声はか細く、彼の言葉を聞き取れるのは、小平太ときり丸、久作と怪士丸、雷蔵の他にいなかった。

彼は雷蔵の耳元で囁く。雷蔵は、えっ、と声をあげて目を見開いた。


「久作と怪士丸がまだ還ってこない…?」


**********


久作はドクタケ領空域をさ迷っていた。帰還命令に従い基地に引き返そうにも、頼りのコンパスは針が壊れ、正しい方位を示さなくなった。

さらに運悪いことに、四方八方が厚い雲に覆われ、視界が悪くなっていたのだ。何処に敵機が潜み、いつ狙われるかも解らぬ状況に、焦りや不安は募る。彼の空は、恐怖で支配されていた。

白と青の目まぐるしいコントラストに、視界は揺らぐ。彼は、操縦桿を強く握り、必死に目を凝らした。

刹那、雲の狭間を戦闘機が掠める。

「…っ!?」

久作は、咄嗟に発射レバーを引いた。

銃弾は的確にその機体を貫く。発動機に被弾したことで起こった爆発によって、一瞬、辺りの雲が散った。束の間の青い空、その操縦席にいたのは──。


「あ……怪士丸──!?」


機体は火を吹き、そのまま海へ消えた。

『久作、無事か!?』

無線からその声が届くのと同時に、三機の戦闘機の姿が見えた。作兵衛、三之助、左門の小隊だった。


**********


飛行場では、帰還した機体の点検及び損傷機の修理を行っていた。
機体の真横に立った文次郎は、その傍でしゃがんで作業をしている整備士に声をかけた。

「おい、留三郎!」

しかし、返事はない。彼はただ黙々と左手を動かし続ける。

「留三郎!!聞いてんのかてめぇ!」

文次郎の怒鳴り声に、その男は漸く顔を上げた。

「ん?なんだ、文次郎じゃないか」

その姿を見るなり、彼は露骨に嫌そうな表情を浮かべた。

──食満留三郎、十八歳。この男こそ、大川軍直属整備兵長である。

彼の頬は油で黒く汚れ、左手には工具が握られていた。

「うるせぇだと!?てめぇが返事しなかったんだろうが!!」

「仕方ないだろ、“そっち側”から喋られても聞こえねぇんだよ!!」

留三郎は、数年前とある飛行事故で左耳の聴力を完全に失っていた。右耳の機能は辛うじて生きていたもののそれもかなり弱く、今でも補聴器が欠かせない。

「大体なぁ、お前耳は遠い癖に声だけはでけぇんだよ!!」

「なにぃ!?」

文次郎の胸ぐらを、留三郎の左手が掴みあげる。

「なんだ、やんのかぁ?」

「ふっ、いいだろう…文次郎、勝負だぁー!!」

陸と空が交わるこの飛行場で繰り広げられる二人の戦争、この光景は兵の間でも有名だった。


**********


「大丈夫か、久作」


左門は戦闘機の操縦席から久作を引き摺り出し、その身体を抱えて地上へ下りた。

「作兵衛は救護隊を、三之助は通信塔に戦況報告を頼む!」

「「おう!」」

左門の素早い指示に、二人は頷く。そのまま海軍兵舎に向かおうとする三之助のスカーフを、作兵衛が思いきり引っ張った。

「ぐっ…さくべ…くるしっ…!」
「おらっおめぇも一緒に通信塔に行くぞ三之助!」

その合間に、左門は久作の横顔を盗み見る。彼は顔面蒼白で、掴んだ身体は小刻みに震えていた。手を離すと、彼はそのまま力無く地面にへたり込む。左門は真っ直ぐにその目を見て問いただした。

「久作、何があった」

返事は無い、彼の定まらない焦点が宙をさ迷った。

「久作!」

痺れを切らした左門が声を張る。震える唇が、ゆっくりと開かれた。

「……あ、あいつ……笑って、いたんです……笑っ、て……」

「…っ!」

久作は、譫言のようにただ繰り返した。左門は静かに目を伏せる。
「…そうか」

暫くして救護隊員の左近が飛行場に到着した。こっちだ、と左門は彼を手招きする。

「左近、久作を頼む。湯を沸かして体を拭いて、飯を食わせてゆっくり寝かせてやってくれ」

左近は頷き、久作に肩を貸した。
「上への報告は僕がしておく。また後で来るから、ゆっくり休むといい」

久作の背を軽く叩き、左門は通信塔とは真逆の方向へ駆け出していった。

**********


空戦は大川の勝利に終わった。ドクタケ軍の第三小基地は、爆撃により実質機能停止となった。

「成程、敵軍小基地が落ちたか…我が軍の快勝だな」

仙蔵は、司令長官室で無線による各軍の戦況報告を聞きながら、薄笑いを浮かべた。日は疾うに沈み、薄暗い光が部屋に漏れた。

「なあ、文次郎?」

長椅子に腰をかける文次郎は、腕を組んだまま仏教面で答える。

「…未帰還機が二十機も出ちまったんだ。勝った、なんて手放しで喜べるか」

仙蔵は文次郎を見下ろし、溜め息を吐く。


「文次郎、お前はそうやって…“死者の亡霊”を背負うのだな」


…こいつにとって空戦とは、死んでいった同胞の弔い合戦、といったところか。

彼は否定も肯定もせず、黙って温い茶を啜った。

「とにかく、空軍からの報告は以上だ。俺は基地に戻る」

「ああ、ご苦労」

遠ざかる背、その足元に伸びる幾つもの影。彼の抱える闇が、見えたような気がした。


「…やはり、この眼は壊れてしまったか」


**********

「…やはり、眠れそうにないか」
左門の声に、久作はベッドに横たえた身体を起こす。

「遅くなってすまない!報告をしに通信塔へ向かったんだが…なかなか辿り着かなくてな」

久作は、頭を掻いて苦笑する左門を見つめ、声を絞り出した。

「先輩…僕が、怪士丸を……」

「解っている、それ以上は言うな」

言葉を遮り、左門はベッドの傍らへ歩み寄る。そして、足元の椅子を引き寄せて、腰を下ろした。


「僕も乱戦に巻き込まれれば、どうなるか解らない。作兵衛だって、三之助だって構わず撃ってしまうかもしれない」

その言葉に、久作は顔を上げる。二人の視線が交わり、そこで初めて左門も悲痛に顔を歪めていたことを知った。その口調からは想像もしなかった、今にも泣き出しそうな幼い子供のような顔だった。

「だから僕は…万が一お前を撃ってしまったとしても、きっと泣かないだろう」

彼の瞳は嘘を吐かない、生も死も全てを見てきた眼なのだから。

それは仕方がないことだ、きっぱり彼は言った。誰に言わされた言葉でもない、きっと彼自身が選んだ言葉だ。

窓の無い部屋、ドアの隙間からは薄明るい夜明けの光が差し込む。

「眠れぬ夜を過ごしても、それでも朝はやってくる。それが、生きる者の権利であり…義務でもある」

「生きる、者の……」

久作はその言葉を繰り返した。そして、ベッドの上で何度も問いた疑問の答えを、彼に求めた。


…何故。


「彼は死に、僕は生きているのでしょうか」


生と死。その違いを目の前に、罪の意識に苛まれる彼にとって、朝日は余りに眩しく、残酷だった。

「選ばれた者には、選ばれた意味がある。お前は、その答えを見つける為に生きればいい…生きなくてはならない」

選ばれた者だけが、此処で息をしている。

「共に生きた時間を忘れるな。そうすればきっと…彼奴も幸せだ」

「…はい」

頷いた久作は、力無く笑ってみせた。しかし、数秒で作り笑いは脆くも崩れ、ぎこちなくひきつった頬と歪んだ弧を描く唇が行き場を無くした。

「泣きたい時は泣けばいい。涙も、生きる者にしか与えられない」

…夜に泣くのは赤子だけだと、そんな決まりは何処にもないのだから。

左門はそのまま強引に久作の腕を引き寄せ、彼の頭を胸元に強く押し付ける。

「は、い…」

その言葉に安堵したのか、軈てくぐもった嗚咽が二人きりの部屋に響いた。

…忘れない、忘れないよ。

ベッドの上で思い出したのは、彼に借りた本の話や、食堂での些細な会話。

…お前と過ごした時間、交わした言葉一つ一つも。


…最期、目が合ったその瞬間、「生きて」と動いたその唇も。


**********

朝日の眩しさに、作兵衛は目を覚ます。右隣には、空っぽの布団があった。

「あいつ……」

作兵衛は肌寒い布団から足を伸ばし、隣で眠る三之助に体を寄せる。眠る者の体温は、温かい。今頃何処かで冷えた二人の少年は、互いに身を寄せ合っているのだろうと、白くボヤけた窓の向こうの光に、作兵衛は目を細めた。

**********

左門は、嗚咽を漏らす彼のその背をそっと撫でた。

…眠れぬ夜に独りが怖いなら、二人でいればいい。朝日が明日を連れてくるのが怖いなら、二人で見ればいい。


陽の光が、二人を包む。生きる者だけを、朝日は平等に照らした。


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