空の上では、激しい戦闘が繰り広げられていた。銃弾を浴びれば機体と共に木端微塵、翼が折れればその身体は忽ち海に沈む。
空の塵となるか、海の藻屑となるか。一瞬たりとも気が抜けない過酷な状況、まさに命懸けの戦いであった。
向かってくる敵機を照準器で捉える。庄左ヱ門は呼吸を調え、発射レバーを引いた。敵機は発動機から火を吹き、そのまま急降下していく。海上に水飛沫が上がった。
庄左ヱ門、虎若、団蔵は、三機編隊を組んで空戦に挑んでいた。“体形を崩さず指定空域内での任務を遂行せよ”それが文次郎からの指示だった。
しかし、突如団蔵の機体が高度を上げ、大きく右に旋回する。
「団蔵!?」
そもそも、列機で飛ぶのには大きな意味がある。互いの死角を補うことで、戦闘に集中できるのだ。
「おい…何処にいくんだ!戻れ団蔵、団蔵っ!!」
庄左ヱ門は無線を片手に、声を張り上げる。ブツ、と一方的に切られた通信。彼は諦めたように溜め息を吐き、無線を手放す。
…またか。
団蔵の命令違反は、よくあることだった。そんなことばかりに気をとられている訳にはいかない。虎若と庄左ヱ門は再び二機で体勢を立て直す。次々に現れる敵機を、残された二人は我武者羅に撃ち落としていった。
**********
──世界は案外平和で、何処かで一つ亡くしても、何処かで一つ生まれるんだってさ。
陸軍第三部隊戦闘区域。
ぱん、と乾いた発砲音と共に、脳漿が飛び散る。名も知らぬその男の体は、地に伏した。
──尾浜勘右衛門、十七歳。陸軍第三部隊所属。
彼の手には煙の燻る銃が握られていた。
「兵助、こっちは大方片付いたぞ」
勘右衛門はがしゃんと音をたてて銃を下ろす。名前を呼ばれた少年は、敵兵の胸に短剣を突き立てた。空気を劈く断末魔、耳を塞ぎたくなる衝動を堪え、最後の力を籠める指先。軈て声を無くす、誰かの命。頬を濡らすのは、まだ温かな生の名残。空気に触れれば忽ち赤錆色に変わってゆくそれを、その少年は袖で拭い去った。
──久々知兵助、十七歳。同じく第三部隊所属、勘右衛門とは同期にあたる。
彼ら歩兵の武器は、一挺の銃と手榴弾のみ。陸軍に支給される手榴弾は、敵軍の捕虜にならぬよう自決の為に使われた。その銃の先には、短剣が括られている。銃を撃ち剣で刺す、銃剣突撃が彼らの主流な戦法だった。
陸軍第三戦闘地区──通称三区では、敵味方の入り交じる、決死の接近戦が繰り広げられていた。
「こっちも全員殺って…」
そう言いかけて、兵助は口を噤む。
「兵助?」
ぱん、と短い銃声。兵助の足首を掴んでいた血塗れの敵兵の左手が、力無く地面に倒れた。その右手には、短剣が握られている。兵助の靴には、赤い指の跡がくっきりと残されていた。
「大丈夫、何ともない」
「それはよかった。さぁ、」
勘右衛門は無邪気な笑顔を浮かべて、言った。
「帰ろう、兵助」
**********
──俺はただ、空が飛びたかっただけなんだ。
『…戻れだんぞ…団蔵!』
性能が悪い無線は、雑音が酷く聞き取りにくい。
団蔵は応答することなく、無線を切る。
「…大丈夫だよ庄左ヱ門、俺には天馬がついてるから」
団蔵は、共同戦線を好かなかった。
…もし、俺の所為で仲間が死んだら。
…もし、俺が仲間の危機を救えなかったら。
目の前の敵を墜とすのに夢中になってしまえば、他のことに気が回らないのが、団蔵の欠点だった。
…俺は俺の出来ることを、今はただ、目の前の敵に集中するだけだ。
空を駆ける彼は、勇敢な兵士だった。同時に、仲間の死には誰より臆病だった。大切だから、遠ざける。守りたいから、守らせない。それ故彼は、独りの時は思う存分に戦った。敵機を墜とした数だけ仲間の力になる、それが何より嬉しかった。
一機でも多く墜とし、仲間を守る。それが、団蔵の“正義”だった。
しかし、奪われた敵軍の飛行兵の命は…?
薄々気づき始めたその矛盾、それでも彼は目を瞑り操縦悍を握った。
…誰かが傷つくのは、見たくない。悲しい顔は、もう見たくないんだ。
空は、彼の味方だった。
前方の敵機と正面で対峙する。団蔵は操縦悍を傾け、ぐんと高度を上げた。
「大丈夫、俺は誰より高く飛べる」
高度が高い方が、空戦において圧倒的に優勢だった。燃料の消費も少なくて済む。彼の機体から放たれた銃弾が、そのまま敵の風防を撃ち抜く。
…仕方ない、今こいつを殺らなければ、何処かで仲間が殺られるかもしれないんだ。
見渡す空は、青く澄んでいた。
…自由に飛べたら、気持ち良いだろうなぁ。
銃弾の発射レバーが、酷く重く感じられた。
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通信隊員は、通信塔で兵士からの報告を待っていた。
「伊助、海軍からの戦況報告は?」
──斉藤タカ丸、十八歳。三年前、高等小学校卒業後、中学校に進学した彼は十五歳で軍に入隊した。当時飛行兵を志願したが、適性検査でパイロットに不向きと判断され、通信隊に送られたのだった。
「はい、ドクタケ軍戦艦二隻大破とのことです」
「へえ!海軍もなかなかやるね」
「ですが…大川軍戦艦数隻の損傷も深刻みたいで…」
その時、タカ丸の手元の装置のランプが点滅する。
「おっと…海軍からの連絡だ」
繋いだ無線からは、生き残りの海兵が戦艦爆撃による大川軍の被害を伝えた。
「大川軍戦艦一隻撃沈…乗組員三十余名死亡…か」
タカ丸は溜め息を吐き、無線を切った。
…この仕事も楽じゃないなぁ。
雑音に紛れて聞こえてくるのは、戦況報告ばかりではない。死にゆく者の悲鳴だったり、愛する者への遺言だったり。そして、政府のお偉いさんによる無謀な出撃命令、それはまるで兵への理不尽な死刑宣告のようだった。
彼ら通信隊員は、それを聞き、記し、伝えることが仕事なのだ。
タカ丸が、新たな無線の電波を受信する。
「此方、大川軍通信…あ、久々知くん!」
無線の相手は、陸軍第三部隊からだった。
『報告する、此方陸軍第三部隊。久々知兵助、尾浜勘右衛門、これより帰還します』
**********
──彼らは見捨てられ、僕は選ばれた。生きるか死ぬかは、ただそれだけの違いだ。
対空砲火も虚しく、ドクタケ軍の戦闘機が落とした爆弾が、艦上で炸裂する。戦艦は大きく揺れ、波が上がった。
偶然にも、その日に限って三郎次は航空母艦カノコではなくこの軍戦艦に乗っていた。
突如艦上を吹き抜ける爆風に目を瞑る。眩むような閃光、直後爆音が鳴り響く。身体ごと吹き飛ばされ、三郎次は思いきり艦板に叩きつけられた。一瞬、呼吸が出来なくなる。彼は激しく咳き込みながらその目を開ける。
──両の瞳が映したのは、とてもこの世のものとは思えぬ光景だった。
「そんな……」
燃え盛る戦艦、無数の火柱、あちこちに散らばる誰かの指、足、胴体──幾つもの肉片。呻き声、叫び声。
「熱…っ!」
火は勢いよく燃え広がり、艦上は熱を増す。大砲に触れた右肩に焼けるような痛みが走った。
「畜生…!」
三郎次は、意を決して海へと飛び込んだ。
無我夢中で泳ぎ続け、やっとの思いで陸に辿り着く。振り返ると、其処に戦艦の姿はなかった。三郎次は水に浸かって壊れかけた無線を手に、掠れた声で力無く告げた。
「報告する…此方海軍第四部隊、戦艦一隻沈没…死者三十余名」
右肩に負った火傷が、酷く痛んだ。
**********
──それぞれの想いを乗せて。
虎若の機体から放たれた曳痕弾、眼前の敵機は忽ち穴だらけになり、海へ墜ちる。一連射で三機撃墜、早撃ちは彼の特技だった。
…彼奴は優しい奴だ。他人の痛みが解る奴だ。だからこそ、独りで戦おうとするのだろう。
けれど、その気遣いが自分自身の首を絞めていることに、彼奴はきっと気づいていない。いや、気づかない振りをしているのだろう。
…団蔵、お前は全てを背負って飛ぼうというのか、その脆い翼で。
「ほんっと…馬鹿な奴!」
『あまり深追いしてなければいいけど…』
庄左ヱ門の心配そうな声が無線から届いた。
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──ただ、強くあろうとした。
追っ手を撒いて新たな機体を撃ち落とす。
…空の上なら、俺は強い。大切なものだって、“今度は”きっと守れる筈だ。
敵機が火を吹いて堕ちていく。散った火の粉が風に舞い、風防に降り注いだ。一機墜とす度、心は軽くなる。生き延びたことへの、味方に降り注ぐ脅威を殺いだことへの安堵。
団蔵は、己が正しいと信じた正義を貫こうとした。何を“正義”と呼ぶのか、それさえ解らない世界で。
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──何が正義か、何が悪か。
きり丸は、一機のみでドクタケ軍事小基地上空を飛んでいた。
彼は、計算高いパイロットだった。如何に効率良く、数を墜とせるか。中でも彼は、騙し討ちを得意とした。敵機の下に潜り込み、別の一機が現れたその瞬間を見計らって飛び出し、急上昇して撃ち落とす。
「きり丸のやつ…あんな卑怯な戦い方…!」
偶然その近辺の空域を飛んでいた金吾が眉を寄せる。
彼は、先祖代々武士の家系の生まれだった。その為、彼にも“サムライ”の精神が根付いていたのだ。
被弾した機体から、敵軍のパイロットがパラシュートで脱出する。旋回したきり丸の機体と、金吾の機体が擦れ違う。金吾もそれに釣られて旋回する。そして、目の前の光景に金吾は目を疑った。
きり丸がパラシュートで降下する敵兵に機銃の先を向けたのだ。
「待て!きりま…」
金吾が風防を開いて叫ぶのと、きり丸が銃を放つのと、ほぼ同時だった。
パラシュートごと撃ち抜かれた敵兵は、そのまま海へ沈む。
…刀が折れた剣士を斬りつけるようなものだ。
金吾は拳を強く握り、忌々しげにきり丸を睨んだ。
その時、無線から連絡が入る。
『一破の飛行兵諸君に告ぐ、大川飛行基地に帰還せよ』
通信司令長官である仙蔵の退避命令は絶対だ。
金吾は機体を旋回させ、基地へ向かう。きり丸も、その真後ろに続いた。
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次々と基地に戦闘機が帰投する。庄左ヱ門と虎若が飛行場に着陸してから暫くして、金吾ときり丸が戻ってきた。団蔵の姿はない。
「団蔵が帰ってきてない?」
整備兵たちは、飛行場で彼ら飛行兵の帰りを待っていた。話を聞いた兵太夫は、苛立った様子でポケットから無線を取り出し、ありったけの声で叫んだ。
「団蔵…いい加減にしろぉぉぉー!!」
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帰還命令が出されても、団蔵は物足りなさを感じていた。仙蔵の無線を切り、さらに奥へと進もうと操縦悍を握ったその時だ。
「え、また連絡…?」
団蔵が無線のスイッチをいれると、キィンと鼓膜が破けるほどの音で、兵太夫の怒鳴り声が機内に響いた。
「うっ…わぁ〜…兵太夫すげぇ怒ってる…!!」
団蔵は、仕方なく機体を旋回させ、基地へと向かった。
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「こんの…バカタレがぁ!!」
文次郎の怒号に、団蔵の肩がびくりと跳ね上がる。
「すいませんでした…!」
文次郎は、団蔵の両肩を強く掴んだ。
「千里を走って千里を帰る、それが名馬ってもんだ。だが…」
文次郎は一呼吸おいて低い声で言う。
「還らなければ、ただの死馬だ」
その一言は、団蔵の胸に重々しくのし掛かった。
そうしている内に、何やら飛行場がざわめき出す。文次郎は空を見上げ、舌打ちを漏らした。
「また“あの二人”か…」