平成デモクラシー

ぎしり、足元の床が悲鳴をあげた。腐っている、片足を持ち上げ再び地につける。ぎしり、足元の床が悲鳴をあげた。この校舎は、僕らには古すぎる。少年は毒を吐く。

階段は何処までも続く。いや、三階まで駆け上がれば僕らの冒険は呆気なく終わる。階段は何処までも続く。この歴史だけが未だに終わらない。少年は立ち尽くす。

窓から生温い五月の風が吹いても、僕らの日常は変わらない。良くも悪くも平和だ。退屈な日々に欠伸を漏らす、窓際三列目の席。少年は目を伏せる。

白いチョークが黒板を叩く音を、意識の片隅で聞く。先生の声が僕の名前を呼び、気怠い瞼を持ち上げる。呆れた笑い顔、よく知っている気がしたんだ。少年は目を擦る。

答えを求められても正解は見つからない。それ、習いましたっけ。冗談めかして笑えば、教えた筈だ教えた筈だ、と彼は言った。忘れたのは貴方の方なのに。あの胃の痛みさえ、忘れてしまったのか。少年は頬杖をつく。

あの日のことを口にして、「ああ」と笑ってくれたなら、懐かしさに僕らは泣いてしまうだろう。残念ながら、それは現実にならない。歴史の教科書を捲るように、不思議そうに話を聞いている彼の瞳は僕らと違う世界を見ている。少年は耳を塞ぐ。

この右手に握るのは、芯の折れやすいシャープペンシル一本で、刃はもう握らない。争いは終わったのだ。今尚世界の何処かで起こる紛争は知らん顔で。僕らは束の間の安寧に身を委ねる。少年は拳を握る。

放課後は委員会活動が行われた。重たい算盤も、鬼の形相をしたあの人も、此処にはいない。電卓には数字の羅列。お陰でぐっすり眠れているだろうか、と真夜中に覗き見た横顔を思い出すと、少しだけ笑えた。少年は振り返る。

大切な何かは、今でも此処にあるのだろうか。それとも、遠いあの日に忘れてきてしまったのだろうか。答えを教えてくれる貴方はいない。数百年経っても、でき損ないの僕らだ。少年は目を逸らす。

遠い記憶を辿れば、想い出の学舎で貴方に逢えるだろうか。僕は、別の少年として生きていたあの日を思い出す。言葉にすれば笑われるから、胸の中でそっと。少年は俯く。

帰り道、寂れた公園の前を通りすぎる。ブランコが虚しく揺れた。あの頃の僕らが夢中で探検した裏山の抜け道や秘密の洞穴は、今も何処かにあるだろうか。確かめるには、この街にはビルやマンションが多すぎた。少年は空を見上げる。

早朝、重いペダルを目一杯踏んで、坂道を駆け上がる。上手いこと出来たものだ、非力な僕らでも楽に生きていける。生きるか死ぬか、あの緊張は何処へやら。今では空の色、雲の流れを感じる余裕さえ生まれつつある。少年は目を細める。

校庭に咲く花の色を、僕は知らない。花壇に咲く花の名を、僕は知らない。ただ風に揺られるだけの儚い命に、何処か僕らの姿を重ねながら。少年は深く息を吸う。

おはよう、さようならを繰り返す。おやすみ、は最期のあの日に置いてきた。この門を潜る度、厄介な事務員のことをふと思い出す。不法侵入者は、賢い機械が捕まえてくれるようになった。あの頃の僕らにとっては、たまったもんじゃない。少年は苦笑する。

玄関で上履きに履き替える。踵が高いヒールではないけれど、どうにも僕には窮屈だ。踵を踏んだまま歩けば、ぱかぱかとそれは情けない音が廊下にこだました。少年は舌打ちする。

うとうとと夢見心地のまま、ノートの端に字とも言えない暗号を刻む。授業は相変わらず解らない。ただ違うのは、あの頃は学び損なえば死ぬということだ。僕らはこの教室に守られている。少年は夢から覚める。

英語の授業は嫌いだった。ハロー、なんだか滑稽で。一つ英単語を覚えれば、昔覚えた何かをまた一つ忘れていく気がした。もとより、殆ど覚えていなかったけれど。少年は頭を掻く。

あの日の僕らは何を得、何を失っただろう。幸せだったと胸を張れるだろうか。十一の新たな未来の為に失った代償は大きすぎた。それでも僕らは、「また明日」と手を振るのだ。少年は嘲笑する。

また昨日と同じ道を歩く。家へと続くこの景色を、何度見ただろう。別つ道の先は必ず一つに交わる。それは絆が導くのだと何かの本で読んだが、僕はそれを信じない。僕らは決められた運命を辿る、これは所詮誰かの人生の延長だ。少年は思考する。

出席簿が開かれ、彼の声に名前を呼ばれる度胸が疼く。お約束のギャグで僕らがふざけることもなくなった。「いち、に、さん、アルカリ」…なんて言ったら不思議そうに目を丸くして、それでも笑ってくれるだろうか。少年は夢を見る。

僕らのことを覚えていますか。質問は嫌と言うほどしてきたけれど、これだけは未だに聞けずにいる。貴方が知らない貴方を、僕らはよく知っている。それはそれで、いいのかもしれない。欠けた日常を、僕らはそれでも幸せに生きている。少年は声を殺す。

何処からか響くサイレンの音。窓の向こうの世界では、誰かの日常が壊れる。奪って生きるのは、いつの時代も変わらない。「幸せかい」人知れず訊ねる。当然、答えを求めた訳ではない。少年は首を傾げる。

道徳の授業で、教育ビデオを見た。当然のように謳われる倫理に、何処か罪悪感を覚える。この時代なら、僕らは間違いなく悪だろう。僕らが愛したあの学園を否定されたようで悲しくなる。僕は正しい正義が何なのか知りたい。少年は席を立つ。

戦乱の世の無常に流されながらも、あの教室は愛で溢れていたのだ。あの箱庭は愛で満たされていたのだ。数多の未来が羽ばたいていった、僕らの学園。羽根が折れるその時を、撃ち落とされた地を誰も知らない。少年は目を瞑る。

もしもまた生まれ変われるのなら、記憶をもたないままで、貴方に会いたい。僕は、まっさらな出会いが欲しい。あの頃のように純粋な気持ちで、もう一度みんなと出会いたい。この手の汚れに気づかぬように、誰かの悲しみなど見えぬように。少年は祈る。

無機質な鐘の音が教室に響く。何となく過ぎ去る日々に、涙を溢すこともいつしか忘れた。もしかしたら、全てが夢だったのだと笑い合える日がくるのかもしれない。それならきっと、いつかはきっと、優しい世界だ。少年は小さく頷く。


クーデター、少年たちは歩き出す。



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記憶を残して現世に転生した一年は組の十一人と、記憶の無い土井先生の話。

最後のワンフレーズ、書き上げた時は「少年たちは笑わない。」だったのですが、これでは前に進めないと思い最後に書き換えました。室町の世を逞しく生き抜いた中で、一人で進む強さも身につけた筈です。自分達を置き去りにして進む時の流れに苦しみながら平成の世に生きる彼らが生まれ変わってまた一から始まる、そんな未来の話もいつか書きたいです。

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