雪やこんこ

冬の学園は酷く所在ない。日頃の喧騒何処へやら、早朝、静まり返った校庭は真新しい白を被り、未だ足跡一つとして残さない。これだけ積もれば、下級生は喜ぶだろうね。窓の外を眺めて、不破雷蔵はそっと柔らかい笑みを浮かべる。同室の鉢屋三郎も隣に座り、雷蔵と同じ景色を眺める。放課後の学級委員会は恐らく雪だるま作りにでもなるだろう、と彼もまた、まだ小さな後輩を二人思い浮かべた。昼休みにはきっと、雪合戦ではしゃぐ幼子らの無邪気な姿と笑い声が彼らにも届くだろう。


「見ろ兵助、雪だ」


同じ頃、い組の長屋からも歓声があがる。尾浜勘右衛門は校庭を指差し、同室の久々知兵助を呼んだ。布団に潜り込んでいた彼は大儀そうに起き上がり、のろのろと這うようにして縁側へ向かった。

「おぉ、随分と積もったなぁ」

兵助は一面の雪景色に目を輝かせる。最も、彼にはこの純白に他の者とは全く別の喜びを感じているようだが。

「…今日の学級委員長委員会は、雪だるま作りに決まりだな!」

三郎同様、勘右衛門はにやりと悪戯な笑みを浮かべ、軽い足取りで井戸へ向かった。



「やあ、今日は自棄に早いな」

そこには勘右衛門より一足先に洗顔を済ませた雷蔵と三郎が歯を磨いていた。

「ああ。隙間風があまりに冷たくて、目が覚めてしまったんだ」

いつもは一番寝坊な雷蔵も、今日はきちんと髪まで結っている。勘右衛門は桶に水を汲み、顔を洗う。真冬の水は冷たく、眠気など簡単に吹き飛ばしてしまった。いつもより目覚めの良い朝、勘右衛門は隣で欠伸を漏らす竹谷八左ヱ門の背中を叩き、笑った。

「お早う」



午前の座学を終え、昼休みになる。午後からの実技は、この雪では大してやることもないだろう。

「木下先生、自習にしてくれないかなぁー」

勘右衛門が机に凭れかかりながらそうぼやく。校庭からは下級生の声が聞こえる。まだ変声期も迎えていない高い声、一年は組の生徒達だろう。耳を澄ませて聞くと、日頃大人びたあの後輩まで珍しく楽しそうにはしゃいでいる声が聞こえる。といっても、やっと年相応といったところか。子供っぽさだけでいえば、うちの委員会は間違いなく三郎が一番だろう。日頃、委員会での後輩達と三郎の年齢が逆転したかのようなやり取りを思いだす。

「ふ、」

自然と込み上げる笑いを隠すように、勘右衛門は教科書で顔を覆った。


「勘右衛門、町に出掛けるんだが付き合ってくれないか」


放課後、委員会室で雑務をこなしていた勘右衛門に、戸の前に立った三郎が声をかける。

少し間を開けて勘右衛門は、首を捻りながら答える。

「別にいいけど…何しに?」

「ちょっと学園長にお使いを頼まれてしまってね、饅頭を買いに行くのさ」

全く人使いが荒いご老人だ、と三郎は苦笑して肩を竦める。

「饅頭くらい、三郎一人で買いにいけばいいのに」

雪が積もる山道を歩きながら、勘右衛門は独り言のように呟く。非難というよりは、疑問の形で。すると三郎も、やはり独り言のように、ぽつりと答えを返すのだった。

「…長い散歩の、話し相手が欲しくてね」

三郎は勘右衛門よりも一歩前を歩く。彼が振り向くことはなかった。

「へぇ、珍しいこともあるもんだ。ひょっとして、彼処じゃ言い難いことでもあるんじゃないのか?」

彼の真意を察してか、勘右衛門は三郎の足跡を辿りながら訊ねる。三郎はぴたりと足を止め、天を仰いだ。偽物の茶髪を、風が掬う。

「…時々、私は何をしているのだろう、と疑問に思うことがある」


ふーん、とその場にそぐわない相槌を打ち、勘右衛門も歩みを止めた。

「誰の跡を辿り、誰の前を歩こうとしているのか。そうして私は、何者になろうとしているのか」

忍術学園では、四年生になると暗殺実習が行われる。どんなに争い事に疎い忍たまも、其処で初めて人を殺めることを知る。忍びを志す忍者の卵である以上、それを避けては通れない。

多くの者が挫折を味わい、心を病んだ。そうして、忍びとは何たるかを学ぶのだ。

その心の陰りを晴らすように、彼らは日の下で修行を積み、その心の闇さえ隠すように、夜を駆ける。

しかし、忍術学園の冬は所在ない。冬は、忍務には向かない。ただ静かに雪解けを望む虫けらのように、春を待つだけなのだ。良かれ悪かれ、退屈な時間はたんとある。

そうした合間に過去を振り返り、現在の自分の跡をついて歩く者の影を見て、ふと思う。

「私があの子らの前を歩くのは、外れた道へと導いているだけではないか」

勘右衛門の眉がぴくりと動いた。三郎の表情は見えないが、その声には怯えにも似た響きがあった。

「私は…人殺しの鏡になっているのではないか」


こいつは忍に向いていない、と勘右衛門は溜め息を吐いた。悪逆非道なあの生業は、優しいこいつには重荷となるだろう。

「…三郎。それならお前、なんで此処にいる。それなら、なんであの子らが此処にいる」

三郎は其処で初めて振り返る。作られた仮面の奥の瞳が宿す悲しげな色に、勘右衛門は思わず身震いした。

「勘右衛門、私は…」

三郎、と勘右衛門は言葉を遮る。

「此処には正しい奴なんて一人もいない。いや…それが正しいんだ」

俺たちが歩んでいるのは、忍びの道だから。


彼のその言葉に、三郎は二三度瞬きを繰り返し、ふっと息を吐く。冬の寒さに、それは白く凍えた。勘右衛門は、柔らかい雪を踏み締めて三郎の隣に立つ。

「…私は何を迷っていたのだろう」

「はは、雷蔵の迷い癖じゃあるまいしな」

そうして二人、今来た道を振り向けば、真新しい雪を踏み固めた足跡二人分が其処にある。

「見ろ、勘右衛門」


彼が指差すその先には、狐の足跡。誰も踏み入ることのない細道に残された小さなそれを、勘右衛門は静かに見つめた。それを指でなぞって、三郎は呟く。

「これを辿れば、いつの日か知らない世界へ通じるだろうか」

彼の言葉に、勘右衛門は静かに目を細めた。

「…残念ながら、それはできない。俺達“ヒト"の一歩は酷く重いようで、こうも柔らかな雪の上には、踏み出そうにも踏み出せない」

それに…泥だらけのこの足などで汚してしまうのは余りに忍びない、と勘右衛門は苦笑した。


「そうか、それなら…永久に白いままでいい」


遠くで狐の鳴く声が寒空に響く。親を呼ぶ仔狐か、子を探す親狐か。それとも、恋人を慕う声か。生憎二人は彼らの使う言葉を知らない。


「…なあ三郎、学園に帰ったら委員会の皆で雪だるまを作ろうか」

「雪だるま、か」

三郎は遠い景色を見つめ、呟く。そうして静かに瞼を閉じ、口許を緩めた。

「ああ…そうだな、うんと大きなのがいい」

きっと、誰も忘れないくらいの。幼いあの子らが、いつかこの道の闇を知った時、それを癒してくれる救いとなるように。優しい記憶を、残せるように。


「あっ、尾浜先輩、鉢屋先輩遅かったじゃないですかー!」

戸を開けると、帰りを待ちわびた後輩たちが、きちんと正座をして二人を迎えた。

「はは、すまない庄左ヱ門」

悲しげな表情は仮面で隠れ、さっきまでとまるで別人…いや、いつも通りの鉢屋三郎が其処にいた。

「なあ庄左ヱ門、彦四郎。まだ日も高い。一服したら、みんなで雪だるまを作らないか」

三郎の言葉に、目を丸くした後輩二人が顔を見合わせる。

「でも、まだ委員会の仕事が…」
庄左ヱ門の言葉を遮り、三郎は一際明るい声で言う。

「なあに気にするな、後で私が全て片しておくから」

…だからどうか、笑っておくれよ。

彼の言葉を最後まで聞き取れたものは、きっといない。将又、知らぬ顔をしているだけなのか。

「へぇー、あの三郎が仕事をするだって?こりゃ、明日は大雪だなぁ!」

勘右衛門の冗談に、二人の後輩が声を揃えて笑う。そうだ今はこれでいい、きっとこれが、こいつの守りたいものなのだから。

「ほら、行った行った!」

勘右衛門の言葉に背中を押されるように、二人の後輩は部屋を出ていく。その後ろを、三郎が追う。

「三郎」


その肩を叩き、勘右衛門はにこりと微笑む。三郎はああ、と頷いてぎこちなく笑ってみせた。

まだ見ぬ春の桜に、心はざわめく。巡る季節の中、焦りや不安を抱きながらも、彼らは確かに大人になってゆく。

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