日曜日





翌日、私は睡眠不足で痛む頭を抱えながら出勤した。レイ君は今日も一緒に病院へとやってきたが、例によって自由行動をしてもらっているため、今隣には居ない。
ふわあ、と気の抜けた欠伸をしつつ、私が集中治療室と書かれた扉を潜ろうとしたその時、背後から聞き覚えのない声に呼び止められた。

「あ!お姉さん、ちょっと待って!」

甲高い少年のような声に、私は視線を下に向けつつ振り返った。予想通り、こちらに向かって駆け寄ってきたのは背の低い眼鏡の少年で、安室透や風見裕也ほどとはいかなくても、十分重症と言える怪我を負っていた。吊った左腕と、頭に巻かれた包帯が痛々しい。

「お姉さんが、結城つばさ先生?」
「そうだよ、ボウヤ。私に何かご用?」

どこかで会ったことがあるだろうか、と私は記憶を巡らせた。けれど私がその答えに辿り着く前に、少年は自ら口を開いた。

「僕、安室さんのお見舞いに来たんだ。ポアロのウェイトレスの梓さんに、ここのことを聴いて、それで……」
「安室さんの?」

私は驚いて思わず少年の顔を覗き込んだ。

「うん。僕、ポアロのすぐ上に住んでるから、しょっちゅう安室の兄ちゃんとは会ってたんだ。だからお願い、面会させてもらえない?」
「うーん……。ボウヤ1人でここまで来たの?」

こんな子供が1人で知人のあんな姿を見たら、トラウマになったりしないだろうか。そう思って私が渋ってみせると、少年の背後からもう1人の影が姿を現した。

「なら、大人の連れがいれば会わせてもらえるのか?」

それは黒髪の上にニット帽を被った、長身の男性だった。彼も顔の至る所に怪我をしていて、見えないように気を配っているらしいが、膝も怪我しているようだった。足の運びが若干怪しい。
お見舞いにきた面会客というよりは、彼ら自身が外科の外来に受診に来たと言われても納得できるような出で立ちである。

「はあ、それなら大丈夫だと思いますけど……」
「よかった!ありがとう、先生」
「でも、安室さんの他にもいっぱい患者さんいるから、中では静かにね?」
「うん、解った!」

極力明るい声を出そうとしているものの、少年の顔からは暗い色が抜けなかった。
後悔、焦燥、罪悪感。その表情を言い表すならば、そんな言葉が妥当だろうか。
私は注意深く2人の来客を観察しながら、今度こそICUの扉を開けて中に入った。

安室透の姿を見て、2人は束の間絶句した。元気だった頃の彼を知っているからなのか、彼が沢山の管に繋がれて、ベッドに力なく横たわっている姿は、中々ショッキングなものだったらしい。

「安室さん、命に別状はないの?」
「今のところはね。ただ、意識が戻らないから後遺症の有無は解らない」
「このまま目を醒まさないってこともあり得る?」
「まあ……否定はできないかな」

子供相手だからと言って、誤魔化すことは出来なかった。この少年は、恐らく安室透の置かれた厳しい現状を理解している。

「開頭手術をしたのか?」

そう訊いてきたのは黒髪の男性だった。この少年の付き添いらしいが、彼は一体安室透とはどういった関係なのだろう。

「ええと、失礼ですがあなたは患者さんとは……」
「そう言えば、名乗っていなかったな。俺は赤井秀一。この少年は、江戸川コナンだ」
「赤井さん、江戸川君ですか」
「ああ。俺とこのボウヤは彼の―――知人だ」

赤井秀一は余所行きの笑顔を、ほんの少し崩してそう言った。

「知人、ですか。ご友人ではなく?」
「友人と言うと、きっと彼は怒るだろうな。ああでも、ただの知人に病状説明はしてもらえないんだったか?」
「基本的にはそうですね。ご家族か身元引受人に来ていただいて、インフォームドコンセントをしようとは思っていますが」
「安室さんには、家族はいないよ」

低い位置から聞こえた声に、私も赤井秀一も同時に少年を見下ろした。

「安室さんに家族はいないし、特別に親しい友人もいない。だからきっと僕達が、一番安室さんの事情を知ってると思うよ」
「……へえ。それじゃあ、あなたは安室さんの生年月日や住所を知ってる?」
「それは解らないけど、安室さんが一体何の仕事をしていた人かは知ってるさ」

ここで彼は私の袖口を引っ張って、強引に膝を折らせた。耳元に唇を寄せ、誰にも聞こえないように囁く。

「つばさ先生、医者には守秘義務があるんだよね?」
「そうだね。患者さんの個人情報を、一切外部に漏らしてはいけないって決まりがあるよ」
「じゃあ、僕も安室さんについて知ってることを教えるから、つばさ先生も知ってることを教えてよ」
「知ってること?」

私が江戸川君の顔をまっすぐに見返すと、彼は子供らしからぬ真剣な眼差しでこちらを射抜いた。

「ああ。例えば、安室さんの本当の名前とかな」

低い声でささやかれたその言葉が一瞬呑みこめなくて、私は目を瞬かせた。安室透というのは、彼の本名ではないのか。あやふやな経歴だと思ってはいたが、名前まで嘘っぱちだったという事か。

私が黙ってしまったことで、カーテンの中に一瞬静寂が訪れた。それを破ったのは、隣のベッドから聞こえてきた微かなうめき声だった。風見裕也が、3日ぶりに目を醒ましたのだ。
私は安室透の来客2人に、すみませんが少し隣の様子を見てきます、と断りを入れ、隣のベッドのカーテンを開けた。風見裕也は確かに瞼を開け、儘ならない体で必死にこちらを注視していた。

「風見さん、おはようございます。どうぞ安静にしていてください」

私が近寄ってそう促しても、彼は私の向こう側に目を向けたままだった。何か気になることがあるのだろうか、と振り返って確認すると、そこに居たのは安室透の来客2人だった。
勝手に他の患者のスペースを覗くな、と言い掛けた私を止めたのは、風見裕也その人だった。

「君……、よかった、無事だったんだな……」
「……っ、風見刑事!」

江戸川君は風見裕也の声を聴き、弾かれたようにこちらのベッドに寄ってきた。この少年が風見裕也とも知り合いだったとは思いもよらず、私は2人の顔を見比べた。

「風見刑事も、この病院にいたんだね」
「ああ……。だが、僕のことは今はいい。降谷さんは……」

(フルヤさん?)

初めて聴く名前が出て、私はまじまじと風見裕也の顔を見つめた。患者が目を醒まして真っ先に口にした言葉は、聴き逃してはならないものだ。

すると江戸川君はちらりとこちらに目をやって、すぐに風見裕也に視線を戻した。

「安心して。安室さんも、この隣のベッドにいるから」
「…………」

今の視線の意味が解らないほど、私は鈍くはないつもりだ。この会話を聴く限り、安室透の本名はフルヤというのが正解なのだろう。そしてやはり、風見裕也と安室透は既知の間柄だったのだ。

「そうか……。それなら、すぐに本庁に連絡して、我々の無事を伝えなければ」
「その前に、この先生には本当のことを話してもいい?」

突然水を向けられて、私は思わず怯んだ。江戸川君と風見裕也の2対の瞳がこちらを向く。

「風見刑事の身分は、佐藤刑事から聴いて知ってるんだろ?」
「あなた、美和子とも知り合いなの?」
「ああ。俺が梓さんからこの病院のことを聴いた時、佐藤刑事と高木刑事もポアロに居たんだよ。だからあんたの名前もそこで聴いた」

成程、初対面にも関わらずこの少年が私の名前を知っていたのは、そういう経緯があったのだ。
少年は全く臆することなく、人の悪い笑みを浮かべた。

「俺があんたに話したい安室さんの秘密ってのは、そういう話だよ」
「……解った。それなら、別室を用意するから少し待って」

私はなるべく平静を装いながら、相談室が空いているか確認した。
ついに、安室透という男の正体が解る。そう思っただけで、自然と脈拍が早くなった。

あの少年の言葉が真実であるなんて保証はどこにもないのに、私はこの時確信を持っていた。彼はきっと、安室透という男性の謎を解いてくれる存在なのだと。

「お部屋の確保が出来ました。どうぞ、こちらへ」

風見裕也のバイタル測定を看護師に頼みながら、私は江戸川コナンと赤井秀一と連れ立ってICUを後にした。


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