土曜日





「つばささん、難しい顔をしてますね」
「うん?そうかな」
「はい。ご飯を食べるときは楽しい顔の方がいいんですよ」
「今日のお小言はそれですかー」
「真面目に聴いてください!」

すっかり定番となってしまったレイ君とのやり取りは、この日も朝から絶好調だった。安室透という男性の正体について、職場では何やらきな臭い空気が漂っているので、家の中だけでも平穏を感じさせるような会話が出来るのはありがたい。

「つばささんは医者ですから、難しい事態に直面することも多いでしょうが、だからこそ切り替えていかないと」
「いいじゃない、家でくらい好きな顔させてよ。病院でなら余所行きの顔作っておくけど、今はあなたしかいないんだし」
「……僕の前だったら、取り繕わなくていいんですか?」
「そこ、揚げ足を取らないの」

私は朝食を掻き込む手を早めた。今日の朝食は、休日に作り置きしておいた卵の黄身を白だし他の調味料に漬けたものを、熱々のご飯の上に乗っけた卵かけご飯である。見た目は悪いが味は文句なしに美味しかった。

「ちょっとね、ICUで複雑な事情の患者さんを抱えてて。名前も住所も解ってるんだけど、その人、そこに住民票がないんだよね。働いてたっていう職場も不明だしさ……」
「身元が怪しい患者ですか。自治体には連絡しましたか?」
「多分、MSWが連絡入れてると思う。でも、安室さんの住民票は都内にはないんだって。役所の人が言ってた」
「それはまた、面倒ですね。一刻も早く目を醒ますように、祈るしかありません」
「だよねー……。ってごめん、今の、完全に気が緩んでた。個人情報だから、記憶から消してもらえる?」

私がはたと気付いて顔を上げると、レイ君は肩を揺らしながら笑った。

「解りました。どうせ僕が知ったところで、どこにも漏らしませんけどね」
「まあそうなんだけど、一応ね。で、話は全く変わるんだけど」

私は洗い物を終えて、濡れた手を拭った。通勤用のバッグを肩に掛け、腕時計をはめる。

「よかったら、レイ君も一緒に職場に来てみる?」
「え?」
「だってこの部屋に籠ってばかりじゃ、記憶を取り戻す手がかりも見つからないでしょ。少しは外に出てみるのも、気晴らしになるかと思って」

さすがに患者さんの治療中にずっと傍に居てもらう訳にもいかないので、ある程度自由行動を取ってもらうことになりそうだが、どうせ彼の姿は私以外の誰にも見えない。であれば、周りの業務に支障も来さないだろう。そんなつもりで軽く提案してみたのだが、これが案外レイ君のお気に召したらしい。

「行きます。ありがとう、つばささん」

ずい、と身を乗り出して私の手を握ろうとする彼に、私は思わずのけぞった。物理的な感触が無いのは解っているが、その端正な顔が近付くとどうにも心臓に悪い。
そこで私は口を噤んで、目の前の顔をとっくりと眺めてみた。改めて見ても大きな垂れ目に鼻筋の通った顔立ちの、所謂イケメンである。

それが誰かの顔に重なって見えたような気がして、私は目を眇めた。

「つばささん?」

けれどここで、レイ君が私を現実に引き戻した。

「そろそろ出ないと遅刻しますよ?」
「え?あっ、本当だ!じゃあ、レイ君は今日1日、自由行動ってことで。でも、こないだみたいに無断でどっか行ったりしないでね」
「はい、解りました」

我ながら束縛の強い彼女のような台詞だな、と苦笑いすると、レイ君は嫌な顔ひとつ見せずに頷いた。ここ数日、「行ってきます」「行ってらっしゃい」と挨拶を交わしていた玄関を、今日は2人で一緒にくぐる。誰かと一緒に出勤するなんて、医者になってからの5年間で初めてのことだった。

「本当なら中を案内してあげたいんだけど、あんまり時間もなくてね」
「大丈夫ですよ。適当に中をふらふらして、何かあればつばささんの所へ飛んで行きます」
「うん。初めてまともに外出するんだし、あんまり無理はしないようにね」
「そっくりそのままお返ししますよ」

レイ君は忍び笑いを残して、ふよふよと飛んで行った。その光景を見ても何とも思わなくなった自分に呆れつつ、私もICUへと向かう。

「あ、先生!おはようございます!」
「おはよう、って一体どうしたの?」

ICUの中は忙しない空気に包まれていた。見れば、看護師と当直の医師が額を付き合わせて覗き込んでいるのは2番ベッドの患者さんで、私は頭から冷水を浴びせられたような気分になった。

安室透の身に、何かがあったのだ。

「どうしたんですか?何があったか教えてください」
「あ、結城先生!いえ、ちょっとタキってるのと血圧が上がったのでARBを入れようかと」
「血圧が?今どれくらいなんですか?」
「165の98です。ついさっき、急に心電図の音が早く鳴りだして」
「意識レベルは?」
「変わりません。ずっと100です」

容態を聴いて私はほんの少し肩から力を抜いた。その程度ならば彼女がさっき言った通り、降圧剤を投与すれば平気だろう。正直、自発呼吸が止まったくらいのことを言われるのかと思った。どうにも安室透のこととなると、過敏に反応してしまう。

降圧剤をセッティングし終えて、看護師はベッド脇を開けた。私はそこに滑り込むようにして顔を寄せ、安室透の全身状態を確かめる。
包帯でほぼ隠れている目元に、小さな皺が寄っていた。私がそこを指の腹でそっとなぞると、彼は小さく反応してから脱力した。それと同調するように呼吸も穏やかになり、心電図の音も一定のリズムを刻み始める。

「……少し、落ち着かれましたかね」
「そうですね。ちょっとこのまま様観しましょう」
「はい!」

自分が何故この男のことをこんなにも気に掛けるのか、私には解らなかった。単なる身寄りのない患者さんへの同情ではない。安室透という男は、どうしてか私の心をざわつかせる存在だった。

この気持ちの正体を突き止めるためにも、彼には元気になってもらわなくては困る。そう決意を新たにして、私は彼の心電図を見守る目頭に力を籠めた。



その後は大きな変化もなく、業務を終えて帰宅の準備を終えると、私は職員用玄関から病院の外に出た。そこには私を待っていたかのように、ふよふよと視界を横切る影があった。その異様な光景を目にしても、いちいち驚くこともなくなってしまったことが哀しかった。慣れとは恐ろしいものだ。

「レイ君、帰りましょう」
「つばささん、お疲れ様です」
「何か収穫はあった?」
「……いいえ。むしろ、僕という存在がどんどん不安定になっていっている気がします」

驚いて彼の顔を見上げると、確かに少し顔色が悪いように見えた。ユーレイなのだから、それが当たり前なのかも知れないが。むしろ今までが、ユーレイのくせに生き生きしすぎだったのだ。
けれど、これまで鬱陶しいくらいに私を元気づけてくれていた彼がこんな顔をしていては、何だかこっちまで調子が狂ってしまう。

「記憶が戻らないのに、体が消えちゃいそうってこと?」
「そうですね。今日も一瞬、意識が遠のきかけました」
「一瞬って、その後は平気なの?」
「ええ。目の前が真っ暗になった時、誰かの手が、僕を引き留めてくれたんです」
「誰かの手?」

理屈っぽいレイ君にしては、珍しく抽象的な物言いをする。霊体である彼に触れられるということは、その誰かも当然ユーレイである。抽象的というよりは、突然のホラー展開と言うべきなのかも知れない。

けれどレイ君は、私のそんな想像を裏切るように穏やかに笑った。

「ええ。誰かが、僕の頬を撫でてくれたんです。とても暖かくて、優しい手でした」

どうやらホラー展開ではなく、ハートフルなシーンと解釈すべきだったようだ。私はふぅん、と鼻を鳴らしながら、1人で小さく頷いた。

「ひょっとしたら、それが記憶を戻す鍵なのかも知れないね。ほら、例えば恋人とか家族とかに、そうやって触れられた記憶が残っててさー」
「恋人……」
「そうそう。あなた、そんなにイケメンなんだし、彼女の1人や2人いたでしょ?」
「2人もいたら大問題ですよ。でも、僕に恋人か……」

彼は懐かしむように視線を左に向けた。いつもは年下っぽくくりくりした瞳が、伏し目がちになっただけで急に大人の男の色を帯びる。

「そうですね。多分僕には、何より大事な存在があったんだと思います。命を捨てても惜しくないと思うくらいに」

彼の言葉は、私に向かって発したと言うよりも、単なる独白に近かった。揶揄うつもりで口にした恋人の存在を、こうもあっさりと肯定されたことに、私は何故かショックを受けていた。そんな資格もないと言うのに。

「だからきっと、その存在を思い出せれば、僕も穏やかに成仏できるんでしょうね」

細められた瞼の向こう、蒼い瞳が黒々と丸くなっていることに気付いて、きゅう、と胸がきしんだ音を立てた。


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