部活動





帰りのHRが終わると、部活動の時間である。私は大好きな音楽に触れていられるという理由で合唱部に所属していた。ソプラノの一員として歌うこともあれば、ピアノ伴奏で参加することもあるという位置づけである。

今、私達が練習に取り組んでいる曲は、秋の文化祭で発表する合唱組曲だった。私は今回は合唱には参加せず、ピアノ伴奏を担当することになっている。
ソプラノ、アルト、そして男声の皆がパートごとに防音室に分かれて練習している間、私は一番外れにある一室を借りて伴奏の練習をしていた。

防音室の窓から外を覗くと、サッカー部がグラウンドを駆け回っていた。蘭の幼馴染である工藤君の姿も見える。どうやら今日は紅白戦の日らしく、活き活きとパスを受け取ってシュートを決める姿にこっそりと笑みが零れた。隣のテニスコートでは園子がラリーの練習に励んでいる。体育館に併設された道場では、蘭や服部君、沖田君も汗を流しているのだろう。

(よし、私も練習しなきゃ。こないだは失敗しちゃったから、今日こそ皆と揃えないと)

白と黒、モノトーンの鍵盤に向かい合うと、雑念が消えていくような気分になれる。和音の調和、展開、不協和音、そして最後は美しい旋律に収束していく時が、音楽をやっている時の最高のカタルシスを得られる瞬間である。

夢中になって指を動かしていると、コンコン、と控えめなノックの音が廊下に繋がるドアから聞こえてきた。部員の皆がいる防音室とは逆方向である。

「はーい」

不思議に思いながらもドアを開けると、そこに立っていたのは合唱部の顧問の浅井成実先生だった。長い黒髪をポニーテールにした、女性にしては大柄な先生である。

「成実先生!」
「こんにちは、藤原さん。今日も頑張ってるわね」

成実先生は新出先生がお休みの日に、非常勤として養護教諭を担当している先生だ。まだ若くて明るく人懐っこい性格のお蔭で、生徒達からは保健室の天使と密かに呼ばれている。

「先生、今日はどうしたんですか?新出先生が来てるってことは、今日は勤務の日じゃないですよね?」
「今日は皆に差し入れを持ってきたの。のど飴といちごミルクと、ミルクティーもね」
「わーっ、ありがとうございます!ちょうど切れそうになってたんですー!」

先生が差し出してくれた袋を、私は嬉々として受け取った。合唱で酷使する喉をいたわるために、部室にはのど飴やミルクを多く含む飲み物が常備されているのだが、そろそろどちらもストックがなくなりそうだったのだ。

「そうだ、成実先生、ちょっとここ教えてください」
「ん?どれどれ?」
「ここの両手の合わせ方なんですけど……」

私はここぞとばかりに先生の手を引いて、防音室の扉を閉めた。成実先生はピアニストのお父さんがいて、本人もずっとピアノに慣れ親しんできたのだという。だからピアノ伴奏の指導も的確で、時々伴奏とは関係のない曲を教わることもあった。ベートーヴェンのソナタ“月光”だけは、何故か頑なに教えてくれなかったけど。

この時も、先生に指導してもらったおかげでつっかえていた所が随分スムーズに弾けるようになった。この組曲の作曲者は難易度をかなり高めに設定していて、右手と左手の拍が違うのは序の口で、伴奏と合唱のリズムがずれていたりするのだ。そのため、初めて合わせの練習をした時は、四声それぞれのパートリーダーを初めとした全員が軽くパニックに陥ったものだった。
けれど成実先生に教わった今なら、きっと皆ともうまく合わせられるだろう。

「ありがとうございます、成実先生!」
「どういたしまして。ちょっとはお役に立てた?」
「ちょっとどころか、めちゃくちゃ助かりました!今日はこのまま帰っちゃうんですか?」
「一応、そのつもりよ。本当はこっそりと差し入れだけ置いて行くつもりだったから」
「なんかごめんなさい、空気読まずここに居て」
「いやいや、藤原さんに会えて嬉しかったわ。また一段と腕を上げたようだしね」
「えへへー。成実先生に褒められるのが一番嬉しいですね!」

私がへら、と笑うと、先生はくすっと笑って頭を撫でてくれた。

「本当、可愛い。あの男に惚れてるんじゃなきゃなー」
「?」

心なしか、成実先生の声が低くなったような気がする。いつも朗らかに笑っている先生の顔が、今はどことなく凛々しく見えた。

女の先生に対して変な言い方だけど、なんだかすごく、男らしくてかっこいい。

「成実先生……?」
「ん、何でもない。藤原さん、そろそろ皆で合わせる時間じゃない?」
「へ?うわ、もうこんな時間だったんだ!」

先生が指差す壁の時計を見上げて、私は素っ頓狂な声を上げた。思っていたよりも長い間、先生のレッスンを受けさせてもらっていたらしい。

「先生のレッスンが楽しすぎて、時間が過ぎるのも忘れてました」
「うふふ、ありがとう。嬉しいことを言ってくれたお礼に、藤原さんにはこれをあげちゃおうかな」

そう言って先生がポケットから取りだしたものは、マツヤニが入ったのど飴だった。確か一粒でそこそこいいお値段の、高級のど飴だ。

「えっ、そんな、勿体ないです!」
「いいのいいの。1つしかないから、皆には内緒ね?」

恐縮する私の手に、半ば強引に先生はそれを載せた。受け取ってしまってはこれ以上断れない。私は掌のそれと先生の顔の間で何度か視線を往復させた。

「……ありがとうございます。折角だから、いただきます」
「うん。それじゃ、私はそろそろ帰るわね」
「はい、お疲れ様でした!」

ひらひら、と手を振る成実先生に、私はぺこりと頭を下げた。先生が防音室を出たのとほぼ同時に、ソプラノのパートリーダーから声が掛かる。

「みずほ、そろそろいい?」
「はーい、今行きます!」

成実先生に指示を書き込んでもらった楽譜を手に、私は防音室のドアを開けた。

成実先生が一瞬とんでもないイケメンに見えたことが気のせいではなかったと知るのは、これからずっと先、卒業した後の話である。


[ 10/15 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]