古文





本日のメインの時間である。え?今までの時間?全て前座ですけど何か?
……というのは冗談だとしても、私は今日、この授業を受けるために登校したと言っても過言ではなかった。私の席はど真ん中の列の前から4番目という、まさしく教室のど真ん中にあるのだけれど、安室先生は授業中、解説をしながら机の間を縫うように歩き回るタイプだった。だから時折、先生が隣を通って私のノートを覗き見た瞬間なんか、とても得をしたような気持ちになるのだ。

この時も大鏡の一節を読み上げながら、先生はゆっくりと私の机の近くまで歩いてきた。そう言えば、さっき持って行ってくれたクッキー、もう食べたのかな。教科書で顔半分を隠しながら先生の顔を見ると、先生もこちらを見ていたのか、ばっちり目が合ってしまった。
そこで先生は言葉を止めて、ちょうどいいと言わんばかりに質問してきた。

「それじゃあ、この助動詞の“めり”の説明を、藤原さん」
「は、はい!……動詞がナ変なので、この活用は終止形です」
「そうですね。終止形に付く“めり”の意味は何ですか?」
「推量、もしくは婉曲。ですがここの文脈から、ここでは推量の意味で使われています」
「正解です。よく予習できていますね」

そんな言葉とともに向けられた笑顔の破壊力たるや、生霊が口から飛び出るんじゃないかと思ったほどだ。古文の世界ではよくあることだけど。

先生が私に背中を向けたのとほぼ同時に、私はシャーペンを握りしめて机の上に広がったノートに意味もなくうずまきを書いた。やたらと筆圧の強いうずまきが大量生産されていく。
だけど、これで私が古文を張り切る理由もお解りいただけたのではないだろうか。あの破壊力満点の安室スマイルに打ち抜かれて、あまつさえみんなの前で褒めて貰えて、これで頑張れないはずがあろうか、いやない(反語)。

結局授業が終わるまでに私のノートはうずまきだらけになってしまって、これは復習の時が大変だなあ、と自嘲したのは余談である。




「……ってことがあったんですよ、もうサイコーに幸せでした!」

私は箒のプラスチックで出来た柄を握りしめ、景光先生に向かって力説した。5コマ目の授業が終わると、今度は掃除の時間が待っている。私達の班は、今週は職員室前の廊下を担当することになっているので、ちょくちょく仲がいい先生と鉢合わせすることも多かった。

「はは、藤原お前、後でそのノート見せてくれよ。お前の一言でこんなに動揺する生徒がいるんだよって、あいつに教えてやりたい」
「いやいや、それはやめてあげてくださいお願いします!とんだ羞恥プレイじゃないですか!」

私が両手を振って拒否すると、景光先生は肩を揺らして笑った。

景光先生とこうしてよく話すようになったのは、去年の音楽の授業で工藤君とセッションした時からだった。ヴァイオリンとピアノのセッションが出来るなら、ベースとピアノでも可能だろうと先生から持ちかけられたのだ。ベースは普段、ギターの影に隠れて主役になることの少ない楽器だから、ピアノと合わせると低音がいい具合に引き立つという新発見に2人して盛り上がったものだった。

「そう言えば、期末の成績はどうだったんだ?古文だけじゃなくて数学も」
「数学については触れないでください。私にとっては天敵にも等しい科目なんです」
「苦手をそのまんまにしとくと、受験の時苦労するぞ」
「ド正論なのは解ってるんですが、課外時間に赤井先生と会う勇気がなかなか持てなくて」

赤井先生が決して怖い先生ではないのは解っているけど、苦手な科目の先生というだけで避けたくなってしまうのはご理解いただきたい。怒られていなくても怒られそうな気分になってしまうのだ。

私が眉間に皺を寄せていると、景光先生は破顔して私の背中を叩いた。が、しかしよりにもよって、4コマ目の授業でスナイプをくらった部分に掌底が当たったらしい。

「うぐっ……」
「まあ、その気になったら赤井のとこにも聴きに行ってやれ。ってあれ?どうかしたのか?」

私が呼吸も出来ずに背中を丸めたのを見て、景光先生は初めて慌てたような声を出した。

「ご、ごめんな。そんなに強く叩いたつもりはなかったんだが」
「い、いえ……。先生は悪くないです、ただちょうど怪我してる箇所だったんで……」

ただでさえ痛む箇所に追い打ちを掛けられて、背中を中心にびりびりとした痛みが走った。けれどあんまり痛がっていては先生に気を遣わせてしまう。私は無理やり笑顔を作って顔を上げた。

上げようと、した。

「景光、何をやってるんだ?」

けれどその瞬間、不機嫌そうな声がその場に響いた。私の背中に添えられていた手がぱっと離れ、景光先生が声の相手に向き直ったのが解る。

「や、やあ、ゼロ。いや、藤原が背中が痛いって言うから」
「背中が?……藤原さん、一体どうしたんですか?」

さっきとは打って変わって優しい響きになった声に、私はようやく視線を声の主に向けた。
ワイシャツの袖を肘まで捲った安室先生が、気遣わしげな眼差しで私の顔を覗きこんでいた。

「あの、さっきの体育の授業でちょっと、ボールをぶつけてしまって。ちょうどそこを景光先生にしばかれたので、痛みがぶり返しちゃって」
「体育というと、伊達の授業か……。保健室には行ったんですか?」
「はい。新出先生に診てもらって、湿布も貼って貰ったので大丈夫です!」

私が痛みを堪えてしゃきっと背筋を伸ばすと、安室先生は不機嫌そうな顔を作って手を伸ばしてきた。

そしてその手が、私の背中をそっと撫でた。

「あんまり無理はしないでくださいね。しばらく安静にして、痛みが長引くようならきちんと病院に行ってください」

多分そこそこ有り難いことを言ってくれてるんだろうけど、今の私にとってはそれどころじゃなかった。

だって、先生が私の背中に触れたのだ。というか、現在進行形で触れているのだ。これでまともに思考を働かせろと言う方が無理である。

あ、とかう、とか言葉にならない声を発する私に、安室先生ははたと気付いたように手を離した。これじゃセクハラで訴えられそうですね、と苦笑しながら。
セクハラなんてとんでもない、むしろとっても心地よかったです、なんてことは逆立ちしても言えなかったけど、私は箒を握りしめてぶんぶんと頭を横に振った。そんな私の態度を見て、安室先生はほっとしたように柔らかく微笑んだ。

「それじゃ、僕はこれで。景光、ちゃんと謝っておけよ」
「言われなくても。お前主任に呼ばれてただろ、さっさと行けって」

背中を撫でて貰った上にまたしても破壊力抜群のスマイルを見せられて固まる私をよそに、先生2人は砕けた態度で会話を交わしていた。安室先生の背中がその場から遠ざかると、私はようやく大きく息を吐いた。

「えっと、藤原。生きてるか?」
「……死んじゃうかと思いました……」
「はは、心配してもらってよかったな」
「誰かさんに叩かれたせいですけどね」
「それは悪かったよ。俺もさすってあげようか?ゼロみたいに」
「安室先生の感触が消えるから結構です。っていうか、なんでゼロって呼ぶんですか?」

さっきも気になったのだ。安室先生のフルネームは安室透だから、ゼロと呼ばれる要素なんてないと思うのだが。
そんな素朴な疑問を口にすると、景光先生はしまった、と言いたげに口を掌で覆った。

「ええっと、いや、あいつの子供の頃からのあだ名なんだ」
「何でそんなあだ名になったんですか?」
「透ってことは透明ってことで、何もないだろ?何もないイコールゼロっていう意味だよ」
「……本当ですかぁ?」

怪しい、と言いながらジト目で先生の顔を見据えても、先生はそれ以上は教えてくれなかった。さすがにプライバシーに関わることかも知れないし、と私も大人しく引き下がる。

そんな話をしているうちに、帰りのHRの時間が迫って来ていた。和葉の「みずほ、そろそろ帰んでー」という呼び声に慌てて返事をして、私は景光先生に声を掛けた。

「すみません、先生。長々と引き留めてしまって」
「いや、こっちこそ悪かったな。じゃ、また来週の授業で」
「はーい、失礼しまーす!」

ぺこりと礼儀正しく頭を下げると、私は和葉たちと一緒に教室へと戻る道を急いだ。


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