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無人探査機“はくちょう”。日本の宇宙航空研究開発機構がNAZUと共同で開発した、惑星探査機である。
4年前に打ち上げられたはくちょうは、イオンエンジンやKaバンド通信系などの初期のチェックアウト、巡航フェーズ、地球スイングバイを順調に実施し、18カ月もの期間に及んだ火星での試料採取を終えて、漸く地球に還ってくる。

「何も東京サミットと同じ日に被せなくてもねえ……」

哀ちゃんはそう言って紅茶を啜った。私はそうね、と相槌を打って、彼女が淹れてくれたコーヒーを手に取る。

NAZUにしても警備に当たる警視庁にしても、この2つが同日になったのは痛手だろう。前者はまさか、サミットの警備に自分達が駆り出されるとは思っていなかっただろうから、巻き添えをくらった形にはなるのだが。

「今日の何時ごろに還ってくる予定だっけ?確かドイツでは昼間だったような気がするんだけど」
「日本時間の午後8時に、大気圏に突入予定ですって。探査機本体が燃える様子が、綺麗に夜空に映えるんじゃないかしら?」
「それをライブで見られるなんて、ベストタイミングで帰国したかも知れないわね」

私はこの日、哀ちゃんに招かれて阿笠博士の家に朝から遊びに来ていた。哀ちゃんがはくちょうの管制システムについて私と話がしたいと言ってくれたからであり、また博士の新しい発明品のドローンを見せてもらいたくもあったからだ。

博士や哀ちゃんは、私が今回の毛利さんの逮捕や起訴について無関係であると信じてくれている。騙すようで良心が痛んだけれど、事件が解決したらそれとなく謝ろうと思った。違法捜査のことは公に出来ないから、あくまでそれとなく、だけど。

博士の家には、泊まり込みで遊びに来ていたという哀ちゃんの同級生の3人の姿もあった。

「あーっ、前にゴンドラで会ったお姉さん!」
「姉ちゃん、あんときいっぱい怪我してたけど、大丈夫だったか?」
「お姉さん、お名前は何ておっしゃるんですか?」

半年前、キュラソー奪還を目論む組織の攻撃で、ほぼ倒壊してしまった観覧車に乗っていた私達。コナン君とキュラソー、そして彼のおかげで動きを止めた観覧車の中で、私は彼らに会ったことがある。

「初めまして、じゃないわね。二度目まして、私は本田さくら。哀ちゃんやコナン君とは、ちょっと前から仲良くさせてもらってるの」
「さくらお姉さんね!素敵な名前!」
「姉ちゃんも、博士のドローンで遊びに来たのか?」

元太君という少年が、おもちゃを取られまいとするようにコントローラーを背後に隠す。私はくすくす笑ってその心配を否定した。

「私は、皆が操縦してるのを眺めてるだけでいいわ。皆とってもドローンの扱い方が上手なのね」

私がそう言って称賛すると、彼らはぱあ、と顔を輝かせた。
褒められた!と言って彼らは益々元気にドローンを飛ばした。それを見つめる哀ちゃんの眼差しは、さながら母親のようだった。

「探偵団のお母さんが哀ちゃんで、コナン君はお父さんなのね」

私が何気なく放った言葉は、予想以上に哀ちゃんの動揺を誘ったらしい。彼女は危うく持っていた紅茶を取り落としそうになり、慌ててソーサーの上にカップを置いた。

「さくらさん、あのねぇ」
「あ、ごめんなさい。変な意味はなかったんだけど、気を悪くさせちゃったかしら」
「そんなことはないわ。でも、江戸川君と私はそんなんじゃないもの」

そこでもごもごと口を動かす哀ちゃんを見て、私は彼女の複雑な心中を察した。哀ちゃんはコナン君のことが好きなのだ。でも彼は、小学生のくせに10歳も歳の離れた蘭ちゃんに恋をしている。
見ていれば解る。今回コナン君があれほど冷静さを欠いて、私や零さんに食って掛かったのは、好きな女の子を巻き込み事故で泣かされたからだ。決して毛利さんのためだけに、彼は孤軍奮闘している訳ではない。

私が一人で納得していると、哀ちゃんはジト目で私を見上げてきた。

「そういうさくらさんはどうなの。その……安室さんとは」
「安室さん?」
「ええ。デートの約束をしてたのに、ドタキャンされたって言ってたでしょう。その後は会えたの?」

そう言えばそんなことを言ったな、と私は頬を掻いた。

「まだ会えてないのよ。流れてしまった予定の分は、埋め合わせしてくれるって言ってたけどね」
「はっきり聴いたことはないけど、2人はやっぱり恋人同士なの?」

意外と彼女も突っ込んでくる。小さくてもやはり女子は女子だ。私はコーヒーカップで口元を隠しながら、違うわよ、と答えた。

「違うの?」
「違うわよ。私は彼のことが好きだし、彼も私が好きだと言ってくれるけど、恋人になろうとは言われなかったわ」
「そんなの、口約束みたいなものじゃない」

哀ちゃんの指摘はもっともだ。今更“付き合いましょう”なんて、言った言わないで関係性が変わるとも思わない。会えば恋人のようには接するし、誰よりかけがえのない存在だとは思っている。

それでも、私は自分から彼の恋人になりたいとは言えなかった。

「私はね、彼にとって強みでありたいの。彼を支える有能なサポーターでありたいの。万が一にも、彼が私と任務を天秤に掛けるような、そんな存在であってはならないのよ」

そんな所で優先順位を間違えるような男ではないと信じているが、例えば彼に私を殺せと命令が下った場合、躊躇いなく殺せる存在でなければならないと思っている。
だから私は、彼の恋人になりたいとは言えないわ。そう締めくくると、哀ちゃんは納得がいかないと言いたげに目を細めた。

*****

小五郎のおっちゃんの公判前整理手続きのために、俺と蘭、英理おばさんと境子先生は裁判所に足を運んだ。蘭は終始落ち着かなさそうにしていたが、今日はまだ裁判当日ではない。あくまで弁護側と検察側の調書に食い違いがないか、裁判所に確認してもらうための手続きである。
手続きを終えて境子先生が日下部検事と連れ立って出てくると、俺達は早速境子先生のもとへ駆け寄った。

その途中、すれ違った日下部検事がスマホを操作した音が聞こえ、俺は足を止めた。今時スマホのキーの音を消さずに使っているなんて、珍しいと思ったのだ。
5桁の数字を示す音を立てて、日下部検事のスマホのロックは解除された。

「岩井統括、日下部です。たった今、公判前整理手続きが終わりました……」
「…………」

一体何の符号だろうか、と思案しかけて、俺は意識を境子先生へと戻した。今はおっちゃんの裁判の行方の方が大事である。

「日下部検事の提示した証拠は?」
「先に貰っていた証拠の通りでした。これが一覧です」
「公判期日は?」
「決定しました。それも予定通りです。……っと、すみません」

日下部検事の提出した証拠一覧を英理おばさんに渡した境子先生は、ちょっとお手洗いに行ってくると言って駆け出した。しかし彼女が向かった方向はトイレとは真逆である。
俺は慌てて声を掛けた。

「あっ、境子先生!トイレ反対側ー!」

しかしいくら叫んでも、境子先生は聞こえなかったようにさっさと行ってしまった。まあ反対方向にもトイレはあるだろうし、俺が心配することでもないだろう。
そう思って俺も証拠一覧に目を通そうとしたその時。

犯人追跡眼鏡からノイズが聞こえ、俺は背後を振り返った。
昨日、警視庁で風見刑事に仕掛けた盗聴器からの音声だ。

(近くに居るのか……?)

盗聴器についている発信機を、眼鏡のレーダーで追う。すると驚くべきことに、その距離がごく近い位置にあることが解った。

まさか、彼はこの裁判所の中に居るのか。そう思い、俺は裁判所のロビーを見渡せる吹き抜けの階段まで走って行った。しかしその姿はすぐには見つからない。
どこだ、どこにいる。最早犯人を見つけるような目つきで辺りを見渡すと、盗聴器から聞こえてきた音に聞き覚えのあるメロディが混じった。

この音は、昨日英理おばさんの事務所で聴いた―――境子先生の着メロだ。続いてすぐ戻ります、という先生の声も聞こえてきた。何故風見刑事の盗聴器から、境子先生の声が聞こえてくるんだ?
偶々風見刑事の近くに居たのか?いや、音声を聴いた限りでは、2人はしばらく近い距離に居たはずだ。

これは偶々なんかじゃない、やっぱりあの弁護士には何かがある。境子先生への疑念をまた強くして、俺は裁判所を行きかう人々を険しい眼差しで一瞥した。


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