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あの水族館の事件から2週間が過ぎた頃、僕は漸く組織の信頼を勝ち得て、長々と続いてきた任務から解放されることになった。正直、もっと拘束されるかと思っていたが、さくらさんがキュラソーを装って送ってくれたメールがかなり功を奏したらしい。

警察庁に戻って諸々の報告を終え、ご苦労だった、との言葉と共に解放されたのがその翌日。そしてその次の日、僕はこの2週間、どれだけ会いたくても会えなかった彼女に会おうと連絡を入れた。彼女も企業との合同開発会議まで間がない。忙しいのは重々承知の上だったから、すぐに返事がもらえるとは思っていなかった。

しかし予想は裏切られた。僕が送ったラインに対して、彼女が返してきたのは着信だった。

「はい、安室です」
「ふるっ、……ごめんなさい、安室さん。お久しぶりですね」

勢い余って降谷さんと呼びそうになったのが解って、目の前に居ないのに彼女の上機嫌な顔まで浮かぶようだった。声だけでこんなに可愛く思うなんて、実際に会ったらどんな顔をしたらいいのだろう。

「お久しぶりです。さくらさん、今忙しい時間じゃないんですか?」
「実は今、梓と一緒にポアロで働いてて。でも平気です、休憩中なので」
「また僕の代わりにヘルプに入ってくれていたんですか。助かりました、ありがとう」
「いいえ。安室さんは、その……落ち着かれましたか?色々と」

彼女は若干声を潜めた。暗に組織のことはもう大丈夫なのか、と訊いてくる彼女に、僕は笑ってもう疑いは完全に晴れましたよ、と告げた。彼女は短く息を吐いた。

「そうなんですね。それじゃ、この後ポアロに来られませんか?」
「ポアロに?」
「ええ。実は新作のケーキを出そうって話になっていて、今日のシフトが終わったら梓と試食会をする予定だったんです」

彼女の作ったケーキが食べられるなら、気を張る毎日で疲れた体には最大のご褒美だ。僕は弾みそうになる口調を抑えながら、喜んでお呼ばれします、と答えた。

また近いうちにポアロにも復帰させてもらえるよう、店長に挨拶をしておかなければ。僕はそんなことを考えながら、滞在していたホテルのドアを開けた。

*****

「え、この後安室さんが来るの?」
「うん。梓と私でケーキの試食会をするんなら、安室さんも来てもらってもいいかなって思って」

私は休憩を終えて手を洗いながら、梓にそう報告した。今日は平日ということもあって、お客さんの入りは普段より少ない。それでいつもより早めにお店を閉めて、新作ケーキの試食会をしようと梓と話し合っていたのである。
けれど梓は、だったら私は先に帰るわね、と思いがけないことを言った。

「どうして?そりゃ、別に今日じゃなくてもいいけど……」
「馬鹿ね。せっかく安室さんに会えるのに、私がいたらお邪魔でしょ!」

梓は何故か、私と“安室さん”がそういう仲なのだと確信している口振りだった。梓といい蘭ちゃんや園子ちゃんといい、どうしてそんなに私と“安室さん”をくっつけたがるのだろうか。誓って言えるが、私はこの2週間、一度も彼の話題を口にしていない。

「別にお邪魔なんかじゃ、」
「あのねぇ、さくら。2週間も連絡が取れないくらい忙しかった人が、真っ先にあんたに連絡してきたんでしょ?これってもう、あんたに気があるどころの話じゃないわよ」
「それとこれとは別で、」
「別じゃない。あんたが安室さんのこと嫌いじゃないのも解ってるわよ。さっさとお互い告白でもして、カップルにでもなったらいいじゃない」

実は告白はとっくにされてるし、私からもしてます、とは言えない。ただ、彼も私もこの関係性に名前を付けることはしなかった。恋人という関係に特にこだわりはなかったし、明確な弱点になり得る存在は、彼には必要ないものだと思っている。

「安室さんだって、きっと梓に会えるの楽しみにしてるわよ」
「あんた1人で待ってた方が何倍も嬉しいに決まってるでしょ。ほら、うだうだ言ってないでさっさと片付けちゃいましょ!」

強引にそう結論付けて、梓は残りの仕事を片付けていった。その気遣いが有難いような恥ずかしいような、何とも擽ったい気持ちで私は小さく頬を掻く。
こんなに落ち着かない気持ちで彼を待つのは初めてのことだ。中高生じゃあるまいし、と私は自嘲しつつ、もうすぐやって来るだろう彼のことに想いを馳せた。



ちょうどシフトが終わってお店を閉めようという時間になった時、降谷さんはポアロのドアを開けた。

「こんにちは、さくらさん。長い間留守にしていてすみませんでした、梓さん」
「安室さん、お久しぶりです。じゃあね、さくら。私はもう帰るから!」
「え?ケーキの試作品は……」
「実はこの後予定が入っちゃってー。では失礼します!」

ぽかんとする降谷さんを置いて、本当に梓は帰って行ってしまった。店内には私と到着したばかりの彼だけが残される。

「ごめんなさい、安室さん。梓ってば、変な気を回したみたいで」
「僕とのこと、何か彼女に話したんですか?」
「いいえ、一言も。蘭ちゃんや園子ちゃんと同じですよ、お節介を焼きたい年頃なんです」

私がくすくすと笑うと、彼は漸く肩の力を抜いてふわりと微笑んだ。それから僕は嬉しいですよ、と甘い声音で言った。

「2人きりであなたに会えるのを、ずっと楽しみにしていましたから」

瞬間背筋を走ったのは、悪寒などではなかった。期待からくる微かな緊張である。
私の頬に朱が広がったのを見て、彼はそっと私の手を引いた。

「場所を変えましょう。あなたのケーキが食べられないのは残念ですが、それはまた個人的に作ってください」

彼の言葉に、私は無言で頷くことしか出来なかった。



彼の車でやって来たのは、彼が今泊っているというホテルだった。しばらく自宅には帰っていないそうで、部屋は汚れているだろうからこちらに、と言って連れて来られたのだ。
私が普段泊まる部屋よりずっと贅沢な室内に感動しつつ、私は机の上にバッグとヘッドホンを置いた。

次の瞬間には、私の体は心地いい体温に包まれていた。

「安室さん……」
「さくら」

たった一言で、彼は纏う雰囲気を一変させてしまった。どこかよそよそしさを保っていた距離を一瞬で詰め、彼は直接私の心に触れてくる。

「会いたかった。長かった、この2週間……」
「……ええ。私も、会いたかった」

ぎゅ、と背中に腕を回すと、首の後ろを撫でられる。今日は髪を束ねていたから剥き出しになった項が擽ったくて、私は小さく声を漏らした。

「ん、」
「……さくら」

彼の熱っぽい吐息が耳に掛かり、私は誘われるように視線を上にあげた。それを待っていたかのように唇が降ってくる。
会えなかった時間を補填するかのような長いキスに、私は肩で息をしながら応えた。こんなに涼しい顔をしながら、与える口付けがこんなにも情熱的だなんて、一体何人の女が知っていることだろう。
唇が離れてから、彼は私の顔を覗き込んで苦し気に目を細めた。

「だから、そういう顔をするなと……」
「そういう顔って、どんな顔ですか?」

だから、と言われても脈絡がなさ過ぎて戸惑ってしまう。私が首を傾げると、彼は溜息を吐いて身を屈めた。私の耳元に唇を近付け、いつかのように耳朶に歯を立てられる。

「……っ、や、」
「物足りないって顔、してる」
「して、な……っん」

彼は私の意見なんて最初から聞いていないらしい。跳ねそうになる肩を抑え付けられ、耳や項を濡れた感触が這うのを私はぞくぞくしながら耐えていた。
やがて視界が反転し、柔らかいベッドの上に押し倒される。髪を束ねていたゴムを取られ、シーツの上に長い髪が散らばった。

下から見上げた男の彼は、見たこともない表情をしていた。

「……いいか?」

その問い掛けは、今更すぎて逆に新鮮だった。元々それらしいことは仄めかされていたし、嫌なら最初からのこのことついて来ない。
だから私は答える代わりに、彼の首に両腕を回した。ぐっと後頭部を引き寄せて目を閉じると、彼は一瞬息を止めて―――

「…………っ」
「ん、……ふ、んんっ」

理性をかなぐり捨てたように、私の体に覆いかぶさってきた。薄手のブラウスの上から骨ばった掌が押し付けられて、腰に甘い痺れが走る。

彼の手だ。彼の熱だ。

そう認識した途端、会えなかった時間の寂しさが一気に胸を衝き上げて、私も彼の背中に強くしがみついた。


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