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「最初は小さな一歩でいい。まずは、この僕を信じてくれ」

その言葉が鼓膜を通って脳に伝わり、私は茫然と彼の瞳を見上げた。

「あなたを……?」
「そうだ。君が今日、あの男に何を言われて、何を選択したのか、僕は知ってる」

もう驚きの感情も湧かなかった。あの人工知能は彼に何でもかんでも話し過ぎだ。

「君は僕と生きる道を選んだ。だからこうしてここに立っている」

その台詞を聴いて、私は唐突に理解した。もしも私がギルバートを選んでいたなら、彼は私も連れていくつもりだったのかも知れないと。

けれど私は、自分の心に嘘を吐けなかった。
自分でも気付かないうちに膨らんでいた気持ちを、あの男は見抜いていた。

「君の全てだった男は死んだ。でも、君がその相手を捨ててでも選ぼうとした男ならここにいる。僕を見ろ」

いつだって強引に踏み込んではこなかった彼が、この時は決して逃がさないと言わんばかりに強い口調で命令した。
咄嗟に言葉が出てこない私に、彼は焦れたように声を荒げた。

「お前が言ったんだろう!俺がゼロで、お前が1で!2人が力を合わせれば、それは無限大になれるって!」

私は胸を衝かれて彼を見つめた。

あなたがゼロで、私が1。無限の可能性を導く2進数。
あなたとなら、どんな力も生み出せると思った。

(そうよ……)

私を今満たすものは、あの男への敬慕じゃない。
吊り橋効果なんかじゃない。この身を危険に晒してもこの人を守りたいという、そんな気持ちが流されて生まれた気持ちであるはずがない。

私を今満たしているのは、この人への想いだけだ。

「……ふるや、さん」
「ああ」
「降谷さん、……私、あなたの目にちゃんと映ってる?」

ひび割れていた心に、じわじわと温かいものが染み入ってくる。
こんな姿を見られたくないと思った。けれどそれは強がりだった。
お願い、こんなどうしようもない私を、あなたは決して見捨てないで。

「ああ。君は確かに、僕の腕の中に居る」

彼はそう言ってもう一度、強く私を抱き締めた。
彼の腕は傷だらけだった。それでも、その引き締まった腕は力強さを喪ってはいない。

生きている。私も彼も。
生きて熱を分かち合うことが出来る。

「離れたく、ない……。あなたの温もりを、忘れたくない」
「離さない。僕はもう、君を手放すことなんて出来ない」

私は彼の背中に縋り付いた。みっともなく震える体を、彼は優しく撫でてくれた。
気付かない振りをしようとした。惹かれ合う心に蓋をしようと悪足掻きをした。
けれど、今は互いの心に触れてしまった。
―――もう、引き返すことは出来ない。

「君の人工知能と約束したんだ」

彼はそう言って体を離し、私の頬に手を添えた。

「起爆装置を解体している時に、君に気持ちを伝えるまでは決して死にはしないとね。……さくら、」

君が好きだ。

吐息のような声で囁いて、彼は目を細めて微笑んだ。その瞳がぐっと近付いてくる。
声を上げる隙もなかった。
静かに瞼を下ろした時、私の唇は彼のもので塞がれていた。

触れ合わせるだけだったキスが、段々と深いものに変わっていく。互いの呼吸を奪い合うような口づけに、脚から力が抜けていった。
唇が離れた時に見た彼の青灰色の瞳は黒々と丸くなり、瞳孔が開いていた。

「……今のキスも、出来心?」

そんな訳がないと知りながら、私は一昨日の夜の仕返しにそう尋ねた。彼はバツが悪そうに口ごもり、やがて真剣な目で私を見据えた。

「出来心なんかじゃない。これから何があっても君を愛し抜くっていう、誓いのキスさ。……気障だったかな」

折角格好つけたというのに、彼はすぐに赤面して口元を手で覆った。年齢にそぐわないその態度に、堪え切れない愛しさが雫となって零れた。
ええ、と私は首肯した。

「相当、気障よ」
「解ってくれ、僕は今余裕が無いんだ。どうしたら君を口説き落とせるのか、そればかり考えている」
「……ふふ」

天下の公安警察の降谷零が、何というざまだろう。だから最初に言ったのだ、女を口説くのは下手なのね、と。
その下手な口説き文句に簡単にときめいてしまったなんて、口が裂けても言わないけれど。

「いいわ。口説かれて差し上げます」

照れてそっぽを向く彼の頬に手を添えて、今度は私から口付けた。刹那、緊張を見せた彼の両腕が、溢れる激情のままに私を掻き抱く。

人気のない埠頭でキスを交わす私達を、行儀のいい人工知能が静かに待ち続けていたことを、この時の私はうっかり失念していた。

*****

「さくら、そう落ち込まないでください」

ふと我に返った彼女は、僕の左腕で点滅を繰り返すスマートウォッチと彼女自身の手に持ったヘッドホンに、ここには僕達以外の目もあったことを思い出したらしい。その途端に悲鳴を上げて蹲ると、彼女はアルマジロのように体を丸めて動かなくなった。僕はその傍らに腰を下ろし、耳まで真っ赤に染めた彼女の背を叩く。

ギルバートはいっそ愉快そうに言葉を続けた。

「さくら、私は気にしませんよ。あなたと降谷さんが幸せになってくれたら、これ以上望むことはありません」
「あ、あ、あなたが気にしなくても、私はするわ!お願いだから忘れて……!」
「それは不可能です。私は一度見聞きしたものは、遠隔サーバーに全てデータが転送されるシステムに」
「解ってるわよ、そういうことを言ってるんじゃないの!」

ぷしゅう、と頭から湯気でも出しているんじゃないかと思うほど、彼女の体は熱かった。
何と言うか、僕に見せる態度と、ギルバートに見せる態度が違い過ぎやしないだろうか。

「そんなに嫌なのか?僕とのキスは」
「ちっ、違います!」

僕が拗ねた声を出してみると、彼女は漸く顔を上げてくれた。けれどすぐに立てた膝の間に半分ほど埋まってしまう。

「あなたのキスは好きよ。……でも、」
「でも?」

僕が続きを促すと、彼女は笑わないでくださいよ、と前置きして、大真面目に言った。

「あ、あなたと一緒にいたら、いつもの私じゃいられないから……」

そんな姿をギルバートに見られるのが、酷く恥ずかしいのだと。彼女は羞恥に瞳を潤ませて、そんなことを宣った。

「あのね、あなたが私をどんな女だと思ってるか知らないけど、私は結構面倒くさい女なの」

更に彼女は、慌てたようにまくしたてる。

「今まであなたのことを好きだって認めなかったのは、のめり込んだら抜け出せないって解ってるからで、認めてしまったらもう駄目なの。私はこんな性格だから中々素直になれないけれど、あなたに対しては嘘が吐けないの」

山より高いプライドのせいで、他人の前では強気で有能な顔を装っているが、僕の前ではその強がりが効かなくなるのだと彼女は続けた。

「さくら」
「だから、そんな姿をギルバートに見られて、後で揶揄われたりするかと思うと―――」
「さくら、さくら」

彼女の高性能CPUは熱で暴走しているらしい。完全に自爆としか言いようのない台詞を羅列する彼女に、静かな声が冷静にツッコミを入れた。

「さくら、降谷さんが死にそうです」

そこじゃない。
突っ込んで欲しかったのはそこじゃないんだ、ギルバート。

「えっ……」

彼女は彼の言葉に漸く僕が頭を抱えていることに気付いたらしく、途端に不安げな声を上げた。

「ふ、降谷さん」
「―――君は、本当に……」

心臓が痛い。こんなに可愛いことを言うようになるなんて、この変化は反則だろう。
こんなに無自覚に、僕が好きで好きで堪らないと訴えてくる彼女のことを、愛しいと言わずして何と言えばいいのだろう。

僕が顔を覆っていた手をどけると、彼女の弱り切ったような表情が目に入った。だからそんな顔をするな。我慢出来なくなるだろう、馬鹿。

「責任は取ってくれよ」

僕は不貞腐れて、彼女を力任せに引き寄せた。華奢な体は簡単にバランスを崩し、すっぽりと僕の胸に納まる。

「今回の後処理が終わったら、覚悟しておけ」

僕が低い声で発した不穏な台詞に、彼女は音を立てて固まった。やがてゆっくりとその首が縦に振られるのを見て、僕は抱き締める腕に一層力を込めた。

対岸で現場の処理に走り回っていた風見から連絡が入るまで、僕達はそのまま体を寄せ合っていた。


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