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日本の公安警察が独自に入手、解析したNOCリストが、何者かに狙われる事件が起きた。

何者か、と言っても相手の特定は出来ている。黒の組織に属する一員で、コードネームは不明だが情報記憶に特化した能力を持つ女である。外付けハードディスクの類を一切使わず情報を抜き取ることが出来ると言う彼女を、公安の上部の人間はあろうことか生け捕りにしろと指示を出した。殺せと命じられた方がよほど楽だ。
黒いウィッグに黒いカラーコンタクトという地味な変装をしてきた彼女は、追いすがる公安警察の手を振り切って、警察庁の建物の外に飛び降りた。

情報は既に持ち出されたあとだ。彼女の情報記憶の仕方が何であるかは不明だが、あれが組織に渡ると冗談でなくまずい。NOCリストを盗られたということは、世界の諜報合戦の核弾頭を組織に握られたも同然だ。そして現在組織に入り込んでいるNOC全員の名前も、当然そこに載っている。

そう―――この僕の名前もである。

奴らにリストの情報を流される前に捕えなければならない。そう思って、僕は愛車に乗り込んで彼女の後を追うことにした。そして先日の事件以降、すっかりお馴染みの存在となった存在に呼びかける。

「ギルバート!」

協力者の一人、本田さくらからもらったスマートウォッチの右側のボタンを6回連続でクリックすると、僕は愛車を発進させた。目標は通りがかりの車を奪い、逃走を続けている。

「ギルバート、応答しろ!あの女が組織にメールを送る前に、彼女のスマホをジャックしてくれ!」

中々返事の来ない左腕に苛々しつつ、目は目標から外さない。この先は渋滞である、どの道追い詰められるのは向こうの方だ。

しかし彼女は道が塞がっていると見てとるや、来た道を逆走して猛然とこちらへ突っ込んできた。僕は慌てて衝突を回避し、自身もUターンを決めて彼女を追う。
その際に多数の一般人の車が衝突事故を起こしていたが、今は気に留めている余裕は無かった。

「ギルバート!?」

いつもは頼りになる人工知能にいよいよ異変を感じ始めた頃、目標の行く先に1台の車が止まっているのが見えた。

ド派手な赤いマスタング―――FBIの赤井秀一の車である。

奴は道のど真ん中で車を横向きに停め、ライフルを構えていた。僕の国でこんな物騒な光景を見ることになるとは、世も末だ。ここはヨハネスブルクじゃないんだが。
赤井の放った弾丸は女が運転する車のタイヤを打ち抜き、スリップした車は爆発しながら、橋の上から海へと落ちて行った。

あの女が生きていようが死んでいようが、よその手に渡る前に公安で身柄を確保しなければならない。僕は警察庁や警視庁公安部に連絡を入れ、人員を出してもらうよう依頼した。

奪われたNOCリストがどうなったのかは、今の所不明である。

*****

コナン君誘拐事件で怪我をした私を気遣って、ドイツの研究センターの所長や大学の教授が休みをくれた日から1か月が過ぎていた。日本の企業との合同開発会議まで残すところ1か月で、企画書やプレゼンに使う資料の作成に追われていた日の深夜のことである。
私は実家への思わぬ来客を受けて、玄関先で固まっていた。

「ふ―――るや、さん」

帰国してからのドタバタを象徴する男の一人である彼は、ひどく疲れ切った顔をしていた。

「……夜分に悪い。少し、君に話があって来た」
「話、ですか?」
「ああ。2人だけで話したいことがある。作業の手を止めてしまって申し訳ないが、僕の車に乗ってもらえないだろうか」

車に乗れ、というのは盗聴を恐れてのことだろう。しかしそれならこのまま上がってもらって、私の部屋で話をしたっていいのではないだろうか。どうせ聴いているのはギルバートだけである。
けれど私が口を開く前に、降谷さんは重ねて言った。

「すまない。大事な話なんだ、君一人で聴いてほしい」

その言葉に嘘は感じられなかった。そして私一人で、と念を押すという事は、ギルバートにさえ聴かれたくない話なのだろう。

―――何があった。
と考えてしまうのは、私も事件に慣れすぎてしまった弊害である。普通はこんな夜更けに女の家を訪ねてきて、大事な話があるから2人になりたいと言われれば、多少は色めいた話を想像するだろう。

けれど、私と彼の間にそんな空気は無かった。これまで微塵も。意図的に避けてきたのだから当然ではあるが。
だから私は彼の意を汲んで、短く解りましたとだけ返事をした。首からヘッドホンを外し、彼のスマートウォッチも外してもらって玄関の棚に置き、ドアを開ける。

「お母さん、ちょっとドライブしてくるわ」
「え、今から!?いいけど、お父さんが帰ってくる前には戻りなさいね」
「はーい。平気よ、降谷さんが一緒だもの」

私の母親はイケメンが好きだ。そして以前の事故で私が怪我を負ったときに降谷さんとは面識がある。だからこの時も、苦笑して頭を下げる降谷さんにぽーっとした視線を向けるだけで、特に反対はされなかった。



彼の愛車に乗り込むと、彼は無言のまま数分車を走らせた。住宅街を抜けて近所の大きな公園まで来ると、彼はそこで車を停めて初めて口を開いた。

「ギルバートの事なんだが、最近また不正アクセスを受けた形跡はないか?」

その言葉は薄々予感していたものだった。ギルバートを外させたことから、彼に関する話が出てくるのだろうとは思っていたが、かなり直接的な訊き方である。

「一度確認はしてみますけど、大畠先輩の事件以降セキュリティはガチガチにしているつもりですよ。……何か不具合でもあったんですか?」

先の赤井秀一に手を貸した一件が頭を過り、私はうすら寒さを覚えた。
ギルバートは、降谷さんの知らないところで彼を裏切り、赤井秀一に味方した。例えそれが今後降谷さんのためになると思ってのことだとしてもだ。
従順なだけではない、己の正義感に従って行動を取るようにまで育ってしまった。

「いや……先日、通信不良があったみたいでな。そのせいで捜査に影響が出たという訳じゃないんだが……」

歯切れの悪い口調は何かを隠している時だ。そしてそれは例の組織絡みのことなのだろう、と私はすぐに察しがついた。

「降谷さん。あの子は自動で不具合を修正するくらい何てことはないし、不正アクセスを受ければ即座に相手の端末を乗っ取るくらいのことは出来ます。それでもあなたの指示に対応しきれなかった―――或いは対応“しなかった”。これは、決して見逃してはならないことです」

言って、と私は彼の腕にしがみ付いた。

「一から不具合を確かめるためには、どういう状況でどういう不調があったのかを正確に知る必要があるの。だからお願い、何があったのか正直に教えてください」
「それは出来ない。警察には守秘義務がある」
「詳細もなしに修正を急がせると言うの?それではまた、いつ同じことが起きるか解らないでしょう」
「―――いいから!」

ダン、と彼は運転席のヘッドレストに拳を打ちつけた。その勢いに息を呑む私に、彼は力なく微笑む。

「……一言、忠告したかっただけなんだ。君は何も知る必要がない。知らないままでいてくれ」

―――それは。
是が非でも私に情報を与えまいとするその態度は。
彼がいかに危険な立場に置かれているかということを、私にまざまざと思い知らせた。

これが最後なのかも知れない。そんな不吉な予感が脳裏を過り、私は背筋を震わせた。

「……それじゃあ、約束してください」
「約束?」
「ええ。私はあなたがくれた情報をもとに、ギルバートを徹底的に修復します。だからあなたは、あの端末を決して手放さないで」

もう二度と、あの端末のせいで降谷さんの脚を引っ張ることがないようにするから。
私を連れて行けないのなら、あの子だけでも連れて行って。

私の願いを、彼は真剣な眼差しで受け止めた。不意にその瞳が近づいてくる。

声を上げる隙もなかった。
あっ、と思った時には、私の唇は彼のもので塞がれていた。

驚きに固まる体を、彼の手が助手席のシートに縫いつける。2人分の体重を受けて、狭いシートがぎしりと鳴った。
唇が離れた時に見た彼の青灰色の瞳は黒々と丸くなり、瞳孔が開いていた。

「……すまない。出来心だ」

彼がそう言って身を起こそうとするのを、私は腕を掴んで引き留めた。
出来心なんて大嘘だ。人間は好意を抱く人間を前にすると、交感神経が働きかけて瞳孔散大筋が動いて虹彩が縮み、黒目がちになる。

今のキスは、出来心からしたものではない。

「降谷さん、こっちを見て」
「……さくらさん」
「いいから」

なおも目を逸らそうとする彼の頬に手を添えて、今度は私から口付けた。刹那、緊張を見せた彼の両腕が、迷いを振り切ったように私を掻き抱く。

(ああ)

とうとう踏み込んでしまった。
巧妙に気付かないように、気付かせないように気を張っていたこの心に、とうとう踏み込んでしまった。
彼にどうしようもなく惹かれていくこの心を、止めることが出来なかった。

静かな車内でキスを交わす私達を、家に置いてきたギルバートが何を思って待ち続けていたのかなんて、この時私には知る由も無かった。


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